第三十二節 埋葬

 時間は少々戻り、天眼てんがんの死体が降ろされた後。若頭わかがしを始めとする一味の者たちは、天眼てんがんの死体に塗る香油を探していた。だが誰も金を持っていなかったので、香油を買う事が出来なかった。死体に巻く布も無かったので、男達は自分は褌一丁になり、上着と下着を引き裂いて繋ぎ合わせ、どうにか天眼てんがんの死体を包んだ。ただ、香油と没薬だけはどうにもならない。夜陰はじっとりと湿って、死肉を腐らせる。

若頭わかがし、香油が手に入らなくても、せめてお墓は見つけて差し上げましょう。ベン・ヒンノムの谷に棄てるなんて…。私達の天眼てんがん様なのに。」

 撫でるだけで崩れる皮膚を労りながら、香油の代わりに茶色くなったオリーヴ油を垂らした。香料はなく、流れた汗が固まり、血が腐り始め、空では鳥が周っている。若頭わかがしはうんと唸り、仲間達をひとまず、エルサレムの外、ゲッセマネの管理小屋に集めて待たせる事にし、エルサレムの下町まで戻った。

 大切な兄の、それも自ら進んで自分を助ける為に掴まりに行った兄の身体につけるものだ。出来れば盗み出したくないし、だからと言って安物で妥協するのも嫌だ。ゲッセマネ辺りまで行けば、もしかしたら自力で香油を作れるかもしれないが、そこまで器用とは思っていないし、女達に油絞りが出来るとも思えない。臼で牽けば絞れるものでもなさそうだ。あの裏切り者を脅して、ローマの蔵から取り出させようか…。いやいや、ローマ製なんて駄目だ。大いに駄目だ。

「うーん…。―――いっでぇ!」

 ローマに剥がされかかり、女達に布を巻いて貰った爪を噛もうとして、激痛に顔を歪める。ふうふうと指先を吹いていると、仄かに甘い香りがした。花の香りだが、生の花の匂いではない。煮詰まったようなそれは、明らかに香料だった。

 若頭わかがしは辺りを見回し、路地に置かれた六つのかめの陰に隠れる。風上に眼を凝らすが、香りは近づいているのに、かめどころか、袋を持った人さえ、往来には見つけられなかった。

神と共に居られる子インマヌエル、何を探してるのですか。」

「ひょっ!!!」

 頭の後ろ―――風下から声をかけられ、若頭わかがしかめの陰に引っくり返った。いつもならそんなしくじりはしないのに、と、若頭わかがしは臍を噛む。風下に立っていた男は、輝くばかりの、しかし黄金ではなく、黄色い衣を着ていて、その姿は妙に目立つのに、誰にも怪しまれていない。

「なんでぇ、あっしをそんな名前で呼ぶなんて。」

「しかしそれは、貴方の名前でしょう。」

「厭味ったらしいってんでェ!」

「何故ですか。これは貴方の兄と貴方の父と、同じ名前でしょう。」

 それを聞いて、若頭わかがしは眉を顰めて、腰に手をかけようとした。が、今は爪が剥がれかかって、逆に怪しまれると剣を置いてきたのだった。となれば、拳一つでどうにかするしかない。だが、男は若頭わかがしの初手を封じ、握り拳を開いて、拳がそっくり入りそうな、大きな革袋を持たせた。香りは、ここからする。

「なんでぇ、こりゃ。」

「香料です。梔子くちなしの実からとってあります。少ないですが、強い防虫効果がある香料です。貴方の兄に渡すよう、私の主人が私に持たせたので、来たのです。」

 それを聞いて、若頭わかがしはさらに顔を拉げさせて疑った。

「なんであっしのアニィが死んだばっかって知ってンでぇ。」

「そうなるようにという、私の主人の思し召しだったからです。」

 それを聞いて、若頭わかがしかめを蹴って、男の足の上に倒した。ガチャン、と、音を立てて、かめの中の水が男の服にかかる。

「てめぇ、ローマに魂売った輩だな!?」

「私がお仕えしている主人は―――。」

「うるせえ!! てめぇらがローマに屈しなきゃ、今のユダヤじゃねーんだよ!!」

「ですが、貴方は自分の兄に与えられた賜り物を勝手に捨てるのですか。」

「死人にクチナシだからっていい気になりやぁーって!」

 若頭わかがしはもう一度、別のかめを蹴り倒して男を転倒させると、革袋を持ったままかめを持ち上げ、ガッチャンと男の頭をかち割った。

「きゃああ! 喧嘩だわ、人殺しよ!」

「あ! あいつ、つい昨日釈放された強盗じゃないか!?」

「逃げろ逃げろ! 十字架からの脱走者だー!」

 往来が激しく入り乱れ出したので、若頭わかがしは革袋を投げ捨て、踵を返して走り出した。


 ただ兄の死を弔いたかっただけなのに、どうしてこうも自分一人では上手くいかないのか、悔しくて悔しくて、エルサレムを飛び出し、ベン・ヒンノムの谷の管理小屋に飛び込み、激しく泣いた。だがいくら泣いていても、罪人として裁かれた兄と話すには、自分が魔術を獲得し、兄を外道に引きずり降ろさなくてはならない。

 頭領は、この世はいつか終わる、と言っていた。それが四十日後か、四十年後かは分からない。しかしとにかく、この世は終わる。それはローマが滅びると言う意味でも、イスラエルが滅びると言う意味でもない。とにかく、この世は終わるのだ。しかしその時、同時に死や罪も終わる。神の前に正しかった者は皆、神に思い出され、再び母の胎に因らず形作られ、老いさらばえた者ではなく、活力に満ちた者として戻ってくるのだと―――その時、自分達は失った産みの母と対面できるのだ、と、頭領は語った。それまでの間に死んだとしても、それは一つの門を通り過ぎただけで、死者たる母たちは、神に記憶され、思い出されてもう一度創りなおされるのを待っている。

 だから人が、死者と語らってはいけない。魔術を使ってはいけない。それは神に成り変わろうとする大罪だからだ。

 神を冒涜ぼうとくする文句も、神を侮辱する行いも、神は許すだろう。しかしそれらの元が、神に成り変わろうとする野心から来るのであれば、神は人祖をそうしたように、永遠に孫子の代を呪う。だから決してお前達は、自分や天眼てんがんに与えられた力を欲してはいけない。それは持たない者しか持ってはならないものだからだ。

 ねぐらの中には、神と共に居られる子インマヌエルという名前を持つ者は頭領、天眼てんがん、そして若頭わかがししかいなかった。若頭わかがしだけが、唯一人、なんの不思議な力も恩寵も貰っていなかった。だがそれを気に病んだことは無かった。兄が居て父が居て、彼等に自分は、家族を護り、家族の平安を勝ち取る為に誰よりも優れた剣を授かったのだ。自分は兄の欠けた機能の一部だった。神の声と神の眼を持つ者がいたのだ。ならばどこかに、神の耳を持って、死者の声を聞ける者がいるだろう。もし兄が今欲しいものが香料や油以外にあるのならば、すぐにでも獲ってくるというのに。

 こんこんこん。

「ひゃっ!」

 少し落ち着いた頃になって、扉を叩く音がした。そして途端に、先程の甘い香りと―――何か、つんとお高くとまったような匂いがする。少なくとも死体を弄る人間―――この小屋の主ではなさそうだ。小屋の中に武器になりそうなものがなく、若頭わかがしは仕方なく、徒手空拳で扉をそっと開けた。

 稲穂よりも美しく光り輝く髪を持った女が、胸に鳩を抱いて、立っていた。余りの美しさに、若頭わかがしはぽかんとして、扉から手を離す。

神と共に居られる子インマヌエル神と共に居られる子インマヌエル神と共に居られる父の子バラバ・インマヌエル。」

「………へい。」

「この鳩が持っている梔子の香料を受け取りなさい。貴方を母の胎に象った御方が、貴方の兄にこれを使うよう、お求めになっています。」

「………。ぴゃあ、そりゃ、姐さんのことで?」

「いいえ、私の主人です。そして、全ての人が産まれた時から、全ての人を護ってくださる方、全ての人の全てです。」

 それを聞いて、若頭わかがしは少々我に返った。美しい女に顔を赤らめながらも、へっと鼻で笑う。

「そんなもんかい! 俺のアニィは死んじまったぞ。何も悪いこたやってねえ、俺達から何もかも巻き上げる泥棒を一人シバいただけよ。なのに十字架に掛けられた。それだけなら良かった! 隣にいたおっさんは墓を貰って布も貰って香油も何もかも沢山貰ってンのに、俺達にゃぁ何もしてくれなかったそのおっさんが沢山貰ってんのに、俺達のアニィはこの谷に棄てろと来た! あのおっさんも、魔術を使ったって言われてたの、あっしゃァ知ってる。腐った死体を動かして、墓穴から呼び出したって話だって聞いた!! 同じ魔術師扱いなのに、なんでこんなに差があるんだッ!!」

神と共に居られる子インマヌエルは魔術師ではありません。」

「頭領は言ったぞ、死んじまったら神さんしかどうこう出来ねえんだ。だから病気は治しても、死んじまったら治しちゃいけねえんだ。況してや腐った死体を元に戻すなんざ、人の仕業の訳があるかい! そんなアホ臭い嘘吐きに良いようにコケにされたのが悔しくて、野郎共、ホンモンの救世主マーシーアッハを殺しやがった! 神殿で豚を殺す共食い野郎共、自分で殺しやがったんだ!!」

「その通り。死に対する権威は神のみが持つもの。もしもそれを行う人がいたのなら、貴方方は疑わなければならない。しかし、その業が神の名に因るのなら、疑ってはならない。」

「姐さん、神殿の目立ちたがり屋より訳わかんねえこと言うな。」

「貴方の兄は、敬虔な信仰と愛と献身を神に認められた方。神の御業みわざと人のごうを見分ける眼を持った者。その故に、貴方は今ここで、私と話しているのです。」

「へっ。おべっかでアニィを煽てたって、あっしゃなんの力もねえんでさ。」

「貴方の父もまた、強固な信仰と、公正と義を愛する心を認められた方。その故に彼等は、神の御計画の末端に加えられたのです。この香料は、貴方が彼等と共に在るようになるための柴の炎。遠くからでもこの香りがする時、貴方の家族がそこにいます。」

「………。」

 若頭わかがしは一周周って何となく分かるような気持ちになり、女ではなく、胸に抱かれている鳩をじっと見つめた。鳩はしっとりつやつやとした双眸で若頭わかがしを見上げている。満月が輝くように白い鳩なのに、額に傷があった。しかしそれ以外は、完璧な鳩だ。例えねぐらの全員が腹を空かせ、自分しか食料を取って来られなくても、この鳩は殺さないだろう。殺すのは勿論、傷を付けるなんてとんでもない。それくらい、『完全』という美しさは、若頭わかがしには分かりやすかった。この鳩に傷を付けたのは、相当な無法者の愚か者の無教養で粗暴な人間だろう。

「…この鳩さん、姐さんどこで見つけたんでい。」

「この鳩は私の主人の鳩です。私達の次に召し出された聖なる魂、その今の姿です。彼は私よりも主人に近い僕。彼は貴方がこの香料を受け取ってくれない限り、主人の元へ帰れません。」

「………。あっそ。」

 つん、と、鳩のくちばしの先に、比較的割れていない指を突きだすと、鳩は若頭わかがしの指先に口づけた。突くのではなく、押し包むように、くちばしの先が若頭わかがしの指先に口付けると、指先に出来ていた小さな心臓が、すーっと胸に戻って行き、やがて心臓に吸い込まれた。妙に思って恐る恐る指先を弄ってみると、やはり痛くない。布を取ると、無骨ではあるものの、花弁のように皮膚は柔らかくしなやかになっていた。大昔に付けたような傷もない。

 すぐにそれが、その鳩を通して示された神の奇跡だと分かった。若頭わかがしは一人と一匹を拝そうと思ったが、乞食以外で人に跪いたことが無い事に気付くと、ばつの悪そうな顔をして、両手を挙げた。

「参った! 降参だ。その匂い袋貰うぜ。」

 そう言うと、鳩はぱたぱたと立ち上がり、女の腕の上に二、三歩進み出て、頭を下げ、そっと若頭わかがしの掌に革袋を置いた。

「行きなさい。喜びと感謝のうちに。」

 若頭わかがしは管理小屋から出て、香料を服の下に抱え込んだ。

「あ、姐さん。その内姐さんのダンナに礼に行くよ。姐さん名前なんてんだ?」

 女は答えた。

「私は神の人と共に歩む者であり、又その全てを導く者。福音を孕んだ全ての神の花嫁を祝福する者です。」

「へえ、じゃあ、司祭筋か。めんどくせえとこにいるな、姐さんのダンナ。まあ、待っててくれや。」

 若頭わかがしはそう言うと、もう一度周りを見回し、誰もいないことを確認すると、ゲッセマネの管理小屋に急いだ。

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