第三十二節 埋葬
時間は少々戻り、
「
撫でるだけで崩れる皮膚を労りながら、香油の代わりに茶色くなったオリーヴ油を垂らした。香料はなく、流れた汗が固まり、血が腐り始め、空では鳥が周っている。
大切な兄の、それも自ら進んで自分を助ける為に掴まりに行った兄の身体につけるものだ。出来れば盗み出したくないし、だからと言って安物で妥協するのも嫌だ。ゲッセマネ辺りまで行けば、もしかしたら自力で香油を作れるかもしれないが、そこまで器用とは思っていないし、女達に油絞りが出来るとも思えない。臼で牽けば絞れるものでもなさそうだ。あの裏切り者を脅して、ローマの蔵から取り出させようか…。いやいや、ローマ製なんて駄目だ。大いに駄目だ。
「うーん…。―――いっでぇ!」
ローマに剥がされかかり、女達に布を巻いて貰った爪を噛もうとして、激痛に顔を歪める。ふうふうと指先を吹いていると、仄かに甘い香りがした。花の香りだが、生の花の匂いではない。煮詰まったようなそれは、明らかに香料だった。
「
「ひょっ!!!」
頭の後ろ―――風下から声をかけられ、
「なんでぇ、あっしをそんな名前で呼ぶなんて。」
「しかしそれは、貴方の名前でしょう。」
「厭味ったらしいってんでェ!」
「何故ですか。これは貴方の兄と貴方の父と、同じ名前でしょう。」
それを聞いて、
「なんでぇ、こりゃ。」
「香料です。
それを聞いて、
「なんであっしのアニィが死んだばっかって知ってンでぇ。」
「そうなるようにという、私の主人の思し召しだったからです。」
それを聞いて、
「てめぇ、ローマに魂売った輩だな!?」
「私がお仕えしている主人は―――。」
「うるせえ!! てめぇらがローマに屈しなきゃ、今のユダヤじゃねーんだよ!!」
「ですが、貴方は自分の兄に与えられた賜り物を勝手に捨てるのですか。」
「死人にクチナシだからっていい気になりやぁーって!」
「きゃああ! 喧嘩だわ、人殺しよ!」
「あ! あいつ、つい昨日釈放された強盗じゃないか!?」
「逃げろ逃げろ! 十字架からの脱走者だー!」
往来が激しく入り乱れ出したので、
ただ兄の死を弔いたかっただけなのに、どうしてこうも自分一人では上手くいかないのか、悔しくて悔しくて、エルサレムを飛び出し、ベン・ヒンノムの谷の管理小屋に飛び込み、激しく泣いた。だがいくら泣いていても、罪人として裁かれた兄と話すには、自分が魔術を獲得し、兄を外道に引きずり降ろさなくてはならない。
頭領は、この世はいつか終わる、と言っていた。それが四十日後か、四十年後かは分からない。しかしとにかく、この世は終わる。それはローマが滅びると言う意味でも、イスラエルが滅びると言う意味でもない。とにかく、この世は終わるのだ。しかしその時、同時に死や罪も終わる。神の前に正しかった者は皆、神に思い出され、再び母の胎に因らず形作られ、老いさらばえた者ではなく、活力に満ちた者として戻ってくるのだと―――その時、自分達は失った産みの母と対面できるのだ、と、頭領は語った。それまでの間に死んだとしても、それは一つの門を通り過ぎただけで、死者たる母たちは、神に記憶され、思い出されてもう一度創りなおされるのを待っている。
だから人が、死者と語らってはいけない。魔術を使ってはいけない。それは神に成り変わろうとする大罪だからだ。
神を
こんこんこん。
「ひゃっ!」
少し落ち着いた頃になって、扉を叩く音がした。そして途端に、先程の甘い香りと―――何か、つんとお高くとまったような匂いがする。少なくとも死体を弄る人間―――この小屋の主ではなさそうだ。小屋の中に武器になりそうなものがなく、
稲穂よりも美しく光り輝く髪を持った女が、胸に鳩を抱いて、立っていた。余りの美しさに、
「
「………へい。」
「この鳩が持っている梔子の香料を受け取りなさい。貴方を母の胎に象った御方が、貴方の兄にこれを使うよう、お求めになっています。」
「………。ぴゃあ、そりゃ、姐さんのことで?」
「いいえ、私の主人です。そして、全ての人が産まれた時から、全ての人を護ってくださる方、全ての人の全てです。」
それを聞いて、
「そんなもんかい! 俺のアニィは死んじまったぞ。何も悪いこたやってねえ、俺達から何もかも巻き上げる泥棒を一人シバいただけよ。なのに十字架に掛けられた。それだけなら良かった! 隣にいたおっさんは墓を貰って布も貰って香油も何もかも沢山貰ってンのに、俺達にゃぁ何もしてくれなかったそのおっさんが沢山貰ってんのに、俺達のアニィはこの谷に棄てろと来た! あのおっさんも、魔術を使ったって言われてたの、あっしゃァ知ってる。腐った死体を動かして、墓穴から呼び出したって話だって聞いた!! 同じ魔術師扱いなのに、なんでこんなに差があるんだッ!!」
「
「頭領は言ったぞ、死んじまったら神さんしかどうこう出来ねえんだ。だから病気は治しても、死んじまったら治しちゃいけねえんだ。況してや腐った死体を元に戻すなんざ、人の仕業の訳があるかい! そんなアホ臭い嘘吐きに良いようにコケにされたのが悔しくて、野郎共、ホンモンの
「その通り。死に対する権威は神のみが持つもの。もしもそれを行う人がいたのなら、貴方方は疑わなければならない。しかし、その業が神の名に因るのなら、疑ってはならない。」
「姐さん、神殿の目立ちたがり屋より訳わかんねえこと言うな。」
「貴方の兄は、敬虔な信仰と愛と献身を神に認められた方。神の
「へっ。おべっかでアニィを煽てたって、あっしゃなんの力もねえんでさ。」
「貴方の父もまた、強固な信仰と、公正と義を愛する心を認められた方。その故に彼等は、神の御計画の末端に加えられたのです。この香料は、貴方が彼等と共に在るようになるための柴の炎。遠くからでもこの香りがする時、貴方の家族がそこにいます。」
「………。」
「…この鳩さん、姐さんどこで見つけたんでい。」
「この鳩は私の主人の鳩です。私達の次に召し出された聖なる魂、その今の姿です。彼は私よりも主人に近い僕。彼は貴方がこの香料を受け取ってくれない限り、主人の元へ帰れません。」
「………。あっそ。」
つん、と、鳩の
すぐにそれが、その鳩を通して示された神の奇跡だと分かった。
「参った! 降参だ。その匂い袋貰うぜ。」
そう言うと、鳩はぱたぱたと立ち上がり、女の腕の上に二、三歩進み出て、頭を下げ、そっと
「行きなさい。喜びと感謝のうちに。」
「あ、姐さん。その内姐さんのダンナに礼に行くよ。姐さん名前なんてんだ?」
女は答えた。
「私は神の人と共に歩む者であり、又その全てを導く者。福音を孕んだ全ての神の花嫁を祝福する者です。」
「へえ、じゃあ、司祭筋か。めんどくせえとこにいるな、姐さんのダンナ。まあ、待っててくれや。」
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