第四章 信者

第三十一節 刑死(後編)

 遥か昔からイスラエルの民に伝えられている所に曰く、神は世界を創るのに、六日を要し、七日目に休んだと言う。この同じようにイスラエルの民は、六日間働き、一日を讃美のために使う。明日がその、七日目に当たる安息日で、そのような理由で聖なる日であるから、けがれを彼等は一等嫌う。

 十字架にかかったその日のうちに、天眼てんがんと男は死んだ。二人の死体は、男は日没の少し前に降ろされ、天眼てんがんの死体はもうそろそろ日の入りが始まる所だったのと、血の汗を拭う間もなかった天眼てんがんの死体が土褐色に変色し、血の汗を掻いたことで脆くなった後に、死んで硬くなったため、皮膚はただ垂れ下がるだけで千切れ、ぼろぼろの傷口がめくれあがり、蛆が湧きだしていた。それでも蘭姫あららぎひめ瑠璃妃るりきさき以外のねぐらの面子は、皆銘々に顔を隠し、涙を流しながら天眼てんがんの死体をどこかへ運んで行った。

 あの二人が、十字架を二人分担いでいた頭領を見かねて、直訴しようとしたことは聞いている。だからこそ、彼が死ぬ間際まで、彼女たちは傍にいるだろうと思っていたが、姿を見せない。大勢の前で彼と関わりのある女だと思われてしまったから、どこかに隠れながら見ているのだろう、と、真槍しんそうは絶望的な希望的観測をする事にした。十字架は通常、二日乃至三日続く拷問刑だが、この日は前述の理由で、早々に十字架は一本になってしまった。十字架そのものの撤去は、安息日が明けた三日後になされるだろうが、それにしたって頭領の最期は余りにも寂しいものだった。

 日が沈み、二日目になった。

頭領は気を失いそうになるのか、時折瞳を回転させて、空を見上げた。右の瞳は潰れているのか、それとも瞳の根のようなものが切れてしまったのか、頭領の顔の向きに関わらず、下を向いている。

真槍しんそう、今日の空は、どんな空だ。」

 頭領の身体の事を思えば、そんな言葉を発するだけの体力はないし、もし言葉を発すれば、息が苦しくて二の句が継げないだろう。だが頭領は確かに、真槍しんそうに語りかけた。真槍しんそうは答えた。

「はい、とても良い空です。ぼくから見ると、貴方が蒼穹そうきゅうを背負っているかのようです。白い天使の翼が如く、大きな雲が伸びていて、青と白の対比がとても美しいです。もし今日の夜まで晴れていたら、それはそれは綺麗な星空になることでしょう。ぼくが今まで見たどんな空より美しいです。」

「そうか。」

 頭領はそう言って、その日はもう何も話さなかった。ただ、死んではいないらしく、時折空気を求めるように蠢いた。

 日が沈み、三日目が終わった。もう間もなく三日目になろうという明け方、突如としてまた地震が起こった。その地震で、男と天眼てんがんが掛かっていた十字架が、地面から這い出して、大きな音を立てて倒れた。特に男が掛かっていた十字架の方は、罪状書きは叩きつけられて粉々になり、横木は釘を打った場所から裂け、縦木はもう何十年、否、何百年と野ざらしになっていたかのように、すかすかになっていた。真槍しんそうはともすれば、その衝撃で必然を装い、頭領を降ろしてやることも出来たのかもしれないが、咄嗟に彼の覚悟を台無しにすまいと、十字架を支えた。頭領はそれについては何も言わなかったが、朝焼けに見えた顔は、満足そうに見えた。

 日が昇ってから真槍しんそうは、朝日に紫色の花が咲いているのを見つけた。その花は、丁度│天眼てんがんの十字架があった傍に咲いていて、真槍しんそうは見たことが無い花だった。その花はどことなくギリシャ彫刻や、ギリシャの神が好ましく思いそうな薄くひらひらとした花弁が何重にもなっていて、ほんの一握り、一株だけが咲いていた。真槍しんそうは根を傷つけないように地面を槍で突いてその花を取り出し、花を槍の柄に括りつけ、頭領の顔の前に差し出そうとした。…が、真槍しんそうの身長が小さく、その花は鎖骨の辺りまでしか届かなかった。

「ご覧ください、天眼てんがん様の十字架の下に咲いていました。ぼくはこんな儚い花は見たことがありません。」

 頭領は眼を開けると、顔を下げて花に鼻先を近づけた。

「ああ…。こりゃ、コロナの花だな。」

「ころな。」

「ずっと東…アテネとか、あの辺りの祭りで欠かせない、花輪コロナに使う花だ。…しかし、一般的には、赤か白だって聞いたんだがな。」

「きっと貴方の誇り高い選択に、この花も何か特別な事をしようとして咲いたのでしょう。」

「そりゃ、うれしいね。」

 頭領はそういって、その日はもう話さなかった。頭領は死ななかったが、花は枯れてしまった。

 日が沈み、四日目になった。

日がまだ昇りきらない、朝も早くから、異邦の身形をした若い二人組が走ってきて、突然跪いて拝んだ。

「おお、大王の子よ、私達の師匠を哀れんでください。貴方がお生まれになって三十年以上、我が師は、貴方を拝そうと、沢山の宝物を持って国々を巡ったのです。」

「ところがこの間、奴隷買いから娘を買い戻してやったのを最後に、宝石が無くなってしまいました。神はお怒りです。その翌日にせっかくこのエルサレムに着いたのに、四日前の地震で神殿の下敷きになってしまわれました。」

「そして息を引き取られたのです。我が師は、御身に奉げるべき宝物を全て施してしまいました。それが神の怒りに触れたのだと言うのなら、私共の命で、新しく宝石を作ってください。」

「或いは、私共は占星術を学んでいる者です。空に新しく召し上げられた魂の中で、最も優れた星を見つけ出し、御身にお奉げ致しましょう。」

「ですから大王の子よ、どうぞ私たちの師匠を、地獄から救い出してください。」

 真槍しんそうは畳み掛けられるそれらの言葉に呆気にとられるばかりだったが、頭領は最後までその言葉を聞いて、答えた。

「生憎と、俺はお前達が求めている神と共におられる御子インマヌエルじゃない。だが彼には、今なら会える筈だ。」

 頭領は遂に死が近づき、気が触れてしまったのかと思った。真槍しんそうが不安気に見上げると、頭領は血が入った右目を細めて、二人に言った。

「ガリラヤ―――この国の北に行け。お前達の師がどうなっているのか、直接聞くと良い。」

 若者二人は、ぼろぼろになりながらも堂々と答えるその姿を信じ、もう一度深く頭を下げ、走り去って行った。真槍しんそうはどういう事かと聞こうとしたが、頭領は俯いて、その日はもう話さなかった。

 日が沈み、五日目になった。

 いつまでたっても真槍しんそうが戻ってこないのを疑問に思った総督の部下が一人、十字架の元へやって来た。彼等が焼き魚と雛鳥の串焼きを弁当に持って来ていたので、真槍しんそうは五日ぶりに食べ物を口にし、葡萄酒を飲んだ。部下は貪っている真槍しんそうの槍を取り、ずん、と、胸の中枢を着いた。頭領が声にならない悲鳴を上げ、慌てて真槍しんそうは弁当を放り捨てて殴りつける。槍の先は、血と、蛆と、はえと、それから僅かに、水が混じって汚れた。

「何をするんだ、このバカ!」

「バカはアンタですよ、隊長殿! 総督はアンタについての書簡を皇帝陛下に送って、皇帝陛下もアンタに興味を持ったらしいのに、アンタは一向に戻って来やしない。生きてるのに虫が湧いたり集ったりするもんですか!」

「良く見ろこの節穴! あの額の汗が見えないのか! この人は生きてる! 三日過ぎても生きてるんだよ、脛を折ったはずなのに、生きてるんだ! この人は神と取引したんだから!」

「何を耄碌もうろくしてるんですか、そんな夢物語を! ディーヴィスはローマにおわされた歴代皇帝陛下以外の何者でもないでしょう! こんな馬の息子と言われるような生まれの卑しい人間以下の畜生は、拝殿することさえ出来ないと言うのに!」

「この人が取引したのは皇帝ディーヴィスじゃなく、ヌーメンだ! 皇帝を神にするこの世界の法そのものだ! その法が良しとしたものが、不可能なことがあるもんか! 総督には、ぼくは尊大にして公正なる皇帝陛下にお仕えする百人隊長の末席たるもの、誇り高い者には敬意を払うとお伝えしろ! いいな! これは百人隊長の命令だ!」

 あまりにも凄い剣幕で怒鳴りつけるので、遂に部下は悪態を吐きながら退散した。真槍しんそうは胸の傷は大丈夫なのかと尋ねたが、シュッという短い吸気と、ヒュー…という長い吐息だけが帰って来た。

 日が沈み、六日目になった。

 今頃になって、思い出したかのように、十字架を片づける人々がやって来た。どうやら都市の方で、何か大きな出来事があったらしく、バタバタしていたのだと言う。しかし彼等は、頭領がまだ生きていることを知って恐れおののき、それを守る真槍しんそうを悪魔憑きと罵り、逃げ帰った。その一方で、野良犬や鳥が、死肉と勘違いして近くに寄り、十字架に爪を立てたり、膿まない程に弱った傷口にくちばしを食いこませたりしていた。天眼てんがんは槍を振るって追い返そうとしたが、頭領は無言で頭を振り、それを止めさせた。日が間もなく入り始めると言う頃、突然、頭領が顔を上げ、真槍しんそうを見つめた。だがもう右目は、入った血が固まって刺さっているのか、見えていないようだった。

「しんそう、まだそこにいるな?」

「はい、います。獣だけではありません。」

「お前に名前をやったのは、俺だったな。」

「はい。あの日から、ぼくは真理を護る槍になれるように、天眼てんがん様にお仕えしていたつもりです。」

「もうその役目は終わった。俺の置き土産だ、受け取ってくれるな。」

 見えないのなら声に出さなければならないのに、真槍しんそうは何も言えず、頷く事しか出来なかった。握る槍が震える。傾き、沈んでいく日に照らされ、槍の穂先が炎のように輝く。

「その刃は、神と共におられる御子インマヌエルの身体を刺し抜いた。故にその槍は、神の槍だ。天眼てんがんの祝福した言霊によって、お前の前に全ての槍が跪くだろう。故にお前は槍兵のアドンである。分かるな?」

 黙って結論を待つ。頭領の声はだんだんと二つに割れ、頭の中に反響して行く。

「お前は神槍しんそうと名乗れ。お前が携える槍は、神が選んだただ一条の槍だ。その槍はお前の名を冠し、王の中の王の再臨の時まで受け継がれるだろう。故に、決してお前は名前を知られてはならぬ。その名前が知れ渡れば、諸王は彼等の王を打ち滅ぼす為に争うだろう。いいな、絶対にお前は、名前を知られてはいけない。」

「はい。…はい! この神槍しんそう、新たな名と、命を受諾しました!」

 神槍しんそうは槍を掲げ、今の自分に出来る最上級の敬礼をした。頭領は輝ける夕日を頬に受け、ぼろぼろの身体で微笑んだ。そして、夜を引きつれてやってくる『それ』を見やり、耳を澄ます。神槍しんそうは何か特別な存在を感じてはいたが、光耀く槍を様々な方向に向けても、『それ』は見えなかった。

 だが『それ』は、頭領の頭に確かに手を置き、破けた頬を撫でていた。

「これは私の愛する子。また、うつろなるもの。」

 声は、神槍しんそうにも届いた。頭領は腹に力を籠め、血を飛び散らせ、自分の首の皮を啄む雀すら跳ね返すように、エルサレム全てに響くように答えた。

「我はうつろなるもの、故に幸いなる者。―――全て、成し遂げられた! ザマァみやがれ、くそじじいども。―――が、ごっ、こふっ、ガ、かはッ。」

 そのまま頭領は、薄い笑みを血飛沫の中に浮かべながら、罪の元を吐きだして死んだ。

 日が沈み、六日目が終わった。

 日が昇った七日目の朝、神槍しんそうは最期の戦いを勝ち抜き、安らかな永遠の休息を得た、ぼろぼろに虫に食われた人の顔を見た。その顔は既に罪の中には無く、さりとて死の世界に在るわけでもなく、彼は確かに天を孕み、そして今彼は、天を産んでその腕に抱いていた。


 遥か昔からイスラエルの民に伝えられている所に曰く、神は世界を創るのに、六日を要し、七日目に休んだと言う。

 確かに彼は、神と共に居られる御子インマヌエルではなかった。しかし彼は確かに、父親を知らず、母を死に追いやられた者たちの、善い牧者であった。


 主は私の牧者。私は乏しい事が無い。

 神は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水辺に伴われる。神は私を生き返らせ、慈しみによって正しい道に導かれる。

 例え死の陰の谷を歩んでも、私は災禍わざわいを恐れない。貴方が私と共におられ、その鞭と杖は私を護る。

 貴方は刃向かう者の前で、私の為に会食を整え、私の頭に油を注ぎ、私の杯を満たされる。

 神の恩寵と慈しみに生涯伴われ、私は神の家に生きる。


私は貴方に出会えて良かった。さらば我が父、我が兄、我が導きの海のステラ讃えよハレルー主を

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