第三十節  刑死(前編)

 正午になって、ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てかけられた。彼等は、「祭司殺しの男娼瞎めくら」、「獣と姦通し、大祭司を騙した、馬の息子」、そして「ユダヤ人の王」という罪状で並べられていた。見学する民衆たちは面白いくらいに二分されている。只管野次を飛ばす男達と、涙を流して跪く女達。ある女など、一人で立てない程に嘆いて、若い男に支えられていた。十字架刑に立ち会うのは、真槍しんそうは初めてだったが、思った以上に観衆が居る事に驚いた。ただ彼等の関心は、「ユダヤ人の王」と書かれた中央の罪人に向かっていて、隣で先に十字架にかかり、苦しんでいる山賊二人には向いていなかった。寧ろ二人は、この名もない男の引き立て役にしかされていないようだった。それがまた、真槍しんそうの胸を抉る。

「惨めだなァ、王様よ。」

 頭領が野次の中、中央の男に語りかけた。否、もしかしたらそれは『声』だったのかもしれない。とても話せるような状態ではない。恐らく鞭打ちの刑の後に休みなくここに来た男は、頭に皮肉な冠を押しかぶされ、汗よりも血の方が多いような気がする。彼はぐったりと力を抜き、ひくひくと呼吸に合わせて動いていた頭をもたげ、頭領を見た。

「俺ァ、山賊だった。だがやもめや乞食から奪ったことは一度もない。義賊と言うにゃ烏滸おこがましいが、俺達の母親を辱めた傲慢な支配層からしか奪ってねえ。それが俺の選んだ道だ。後悔はしてねえさ。こうなることも分かってた。」

「………。」

「俺が拾ったのも、母親が死んで父親にも存在を知られてない奴らばかりだ。奴らはどんなに頭がよくてもこのユダヤの社会にはいられない。子供に罪はなかろうによォ…。」

「………。」

「世間も知らず、社会も知らず、規律も知らず、そんな奴らとなら、良い家族になれると思えた。」

「………。」

「だが、なぁ! なぁ! 何なんだよこの現実は!? 怨むぜ父上、こういうことだったなんてなァ!!!」

 見ているだけでも力が入っていない、否、入らない両手を握りしめる。皮膚越しに骨肉が弾け飛び、血管が飛び出す。

「お前の右に居るその男! そいつが一体何をした!? 一人祭司を殺した、ああそうだろうさ! でなけりゃ俺の所にいられないと思い詰めた結果の行動だ! 一人で死ぬのが怖いと怯える事、それが要らねえのは余程のバカか勇者だけだ! 奴は未来を知らなかった。そうやって殺しに掻き立てて、たった一度の過ちでここまでの刑に処す、それが御心だというのなら、俺は拒否したさ! それを見越して父上が嘘をついたとでも? 公正なる神が嘘をつくかッ!!!」

 荒れ狂う怒りに、頭領の両腕から、双眸の涙のように血が滴る。だが男は黙って聞いているだけで、何も言わない。

「―――みろよ…。」

「?」

 その時、男は初めて、頭を少しだけ動かし、聞き耳を立てるように頭領を見た。

「救ってみろよ、神と共におられる御子インマヌエル! 救って見せろ! 十字架から降ろせ! 俺をじゃねえ、お前の右に居る俺の家族をだ! そうやって俺達を救え、お前は出来る筈だ、父上の初子であるお前ならな!」

 男は顔を向けるだけで、何も答えない。

「タダじゃ聞けねえってンなら、父上でも過去の預言者でも、どーんと連れてきやがれ。俺はもう全て手にした。何を求められようと返還に応じるだけの蓄えがある! ―――ハァ、ハァ、だから―――救え!!! 神と共におられる御子インマヌエル!!!」

「いい加減にしないかッ!」

 しかし男は答えず、天眼てんがんが怒鳴りつけた。見えない眼で、声を頼りに頭領を探す。

「私は当然の報いを受けたのだから当たり前だ。神ではないものを神とした、偶像を求め、つくった。十戒を犯したんだ。私は自分に与えられた力を、魔術でないと言ってくれる人が欲しかった。それを見極める者こそが、神から来るものだと信じていた。―――ああ、お前は悪くない、音声おんじょう。私に生ける神を押し付けられた哀れな我が友。裁かれるべき罪を私に着せられた被害者はお前だ、音声おんじょう。ごめんよ、ごめん。本当に心の底から、お前だけが神から下った者だと信じていた。それが罪だと誰も知らず、その故に誰からも罪に定められず、私は罪を犯し続けた。それにお前は巻き込まれただけだ。神の怒りを買ったんだ。私はこの人を何が何でも見つけ出して、お前から離れなければならなかった。お前を愛しているのなら、神を求めるのなら、私はお前との仲を断ち切らなければならなかった。神を求めるのなら、それ以外の全てを捨てるべきだったんだ!」

天眼てんがん、お前―――。」

神と共におられる御子インマヌエル、どうか貴方が神の国に行く時、私を思い出してください。貴方に憧れた私に、偶像にされた私の友を裁かず、私の悲願を裁いてください。…ごめんなさい、ごめん、音声おんじょう…ごめん、ごめんよ…。」

 しくしくと泣き出した天眼てんがんに、男はやっと答えた。

「宜しい、貴方に言いましょう。貴方は今日、私と共に神の国にいます。」

「………!」

 その言葉で、天眼てんがんは全てを理解したようだった。

「ありがとう、ございます…。」

 天眼てんがんはそう答えて、引き攣った唇を引き上げた。その時、ふと天眼てんがんが、何かに導かれるように、目線を民衆の方へ向けた。

「―――ああ、そこに、いるのが、そうなのだね。」

 その声は頭領の『声』ではないのに、罵声を浴びせ、嘆き悲しむ声の中では、大海の一滴が如き声だったのに。しかしその声は、確かに、彼らを父母と慕い、集った者たちの耳に届いた。

「なんだ、良い男じゃないか。」

 そう言って、天眼てんがんは項垂れた頭を二度と持ち上げる事は無かった。頭領はその言葉を聞いて呆然として黙り込んだ、彼の弟の姿を認め、いつも自分達を頼りにしていた筈の彼の成長に、思わず鼻を鳴らして笑った。

「ハッ、良いザマだぜ。…なぁ、おい。そいつ、連れてってくれンだろうな。」

 頭領の問いかけに、男は話していた男から、頭領の方へもう一度顔を向けた。

「なァに、タダとは言わねえ、対価は払うよ。」

 血が足りないのか、水が足りないのか、或いは別の理由なのか、頭領は見開き血走った目で、男に言った。

「お前の二日とあいつの二日、合計四日、俺に寄越せ。」

「………。」

「あいつァ、一人で父上の所に行けるようなタマじゃねえ。だからお前も一緒に死ね。一緒に死んで、あいつを連れていけ。一緒に死ぬために、余分な分を俺に寄越せ。俺の三日とお前達の四日、たっぷり七日、何が何でも十字架ここにいてやる。だから連れてけ。」

「………。我が神に、そう願ってみましょう。」

「へっ、罪人ヅラすんなよ。父上が泣くぜ。」

「いいえ、此処にいるのは神の子ではありません。唯の罪人、唯の神への反逆者サーターンです。今はただ、神の審判を待っている身です。」

「俺は山賊だ。欲しいものは奪う。それが神であろうと大祭司であろうと―――必要なら奪う。アンタが何を言っても同じだ。もうその四日は、俺のものだ。とっとと死ね。二度とこんなマネすんじゃねえぞ。」

 男はそれには答えなかった。その代りに、『声』が如き声が、詩を歌った。

我が神エリ我が神エリ何故私をラマ捨てられるのですかアザフタニ。」

 それを聞いて、人々は嘲弄した。神の子を名乗る男が、ボロを出したと。だが一度、天眼てんがんの歌を通して詩を聞いていた、真槍しんそうを始めとしたねぐらの一味は、その詩の結末を理解していた。天眼てんがんは聖書にある通り、忠実な書き言葉を歌ったが、彼は人々が話すように歌った。それだけ聞けば、無学な者でも、或いは真槍しんそうのような特殊な体験をした異教徒でも、全てが分かる筈だろうに。人々は、本当に預言者が来るかと賭けるようにニヤニヤと、人が苦しむ様を見上げていた。

「わが力はかわきて…。」

 僅かに男が、詩編の途中の言葉を漏らすと、見当違いな兵士がやってきて、葡萄酒に浸した脱脂綿を槍の柄の先にくくって差し出した。男が首を振ってそれを拒否すると、また民衆の野次が始まる。

「教養も何もねぇな…。きちんとした父親がいるのによ。」

 男はその軽口に応えはしなかった。否、答えられなかったのだろう。背中が抉れて薄くなった胸板が、内側から激しく叩かれる。下を向けば、呼吸が妨げられる。だが上を向くための背中の筋肉は断裂し、胸を拡げる為の脚の骨は外れている。頭領に比べれば、遥かに貧相な身体だ。その薄い身体には不必要なくらいに空気が激しく出入りし、全身が白く、灰褐色になっていく。流れ出している血の筋は徐々に固まり、もう新しく血が流れていないことを示している。乳で満たした窯の底よりも下の方にある意識を必死に呼び起こし、彼は薄暗くなっていく空に向かって言った。

「父よ、私の霊を御手に委ねます。」

 そう言って、男は首が折れるように項垂れ、死んだ。

 その時、突然太陽が掻き消えた。昼であるはずなのに、突如として昼の光が失われたのだ。空を見ても、何処にも太陽が無い。否、それらしきものはある。空に、薄い糸で作った金色の指輪のようなものが浮かんでいる。時間を考えると、丁度あの位置に太陽がある筈なのに、太陽がない。天の海底が音を立てて裂け、大地が呼応するように震えて哭いた。空からは涙が流れている。三人の罪人の血が洗われ、丘を静かに流ていく。野次を飛ばしていた男達は、靴に罪人の血がつくと言って、皆引き上げていった。彼等が家に全員入った頃、漸く空に太陽が戻り、雨も上がった。

 翌日は安息日というユダヤ人の、一週間のうちの記念日だった。その日に仕事やけがれを持ちこみたくない、と、大祭司たちがごねるので、三人をさっさと刑死させろ、とのお達しが、真槍しんそうの元に下った。真槍しんそうは言われた通り、持っていた槍で、脇腹を刺した。男の身体からは、血と共に水が出て、それは勢いよく真槍しんそうの顔に降りかかった。その血と水を賭けにでも使うのか、それなりにしっかりした身形の下男が銀の皿にそれを受け取る。ところが、天眼てんがんの身体からは血しか出なかった。ただ気を失っていただけらしく、脇腹を刺すと、血だけが流れた。そこで、手っ取り早く死ぬように、脛を折れと言われた。真槍しんそうが拒否すると、別の兵士が、天眼てんがんの脛を叩き折った。日にちがあと一日でも早ければ、天眼てんがんは眠るように死んだであろうに、詰まった呼吸で嗚咽を漏らし、正気を失った眼で悶え苦しみ、真槍しんそうには分からない言葉を話していた。真槍しんそうは兵士達の隙を突き、脇腹から刃を入れ、心の臓を砕くように貫いた。暫くして刃を抜くと、血と水が出てきた。天眼てんがんは死んだ。

 ところが、頭領は脛を折っても、脇腹を刺されても、生きていた。

「そりゃ、俺はあと四日はここに居なきゃなんねえからな。死にゃしねえさ。…お前の所為じゃないよ、百人隊長。」

「…ご存知だったのですね。」

 頭領、とは呼べなかった。自分がローマに戻り、百人隊の隊長としての地位を与えられた以上、彼の頭領は最早、音声おんじょうではないのだから。

「ぼくの誠意です。貴方が死ぬまで、ぼくが見ています。三日でも、七日でも、十二日でも、それこそ四十日でも、槍を持って立っています。」

「…そぉか。じゃ、たのむわ。」

 一人で死ぬのは誰だって怖い、という先程の頭領の啖呵が、頭領にも当てはまっていることに少しだけ安心した。それだけで真槍しんそうは、裏切り者であることを忘れずにいられる。

 その一方、真ん中で死んだ男は、人望があったらしい。多くの女達が死体を引き取りに来て、罪人の死体を自分の墓に入れたいと言う奇特な男もいた。真槍しんそうは知る由も無かったが、この男は、若頭わかがしが蘇った事を目撃したアリマタヤ出身の議員だった。その一方で、天眼てんがんは呪われた罪人として、エルサレム近郊のゴミ捨て場―――ベン・ヒンノムの谷に棄てる事が既に決まっているらしかった。天眼てんがんの死体を引き取りたい、と、ねぐらの者たちは進み出たが、誰一人きちんとした身分と父親を持っていなかったので、取り合って貰えなかったようだ。ただ若頭わかがしは諦めないと言って、女達に天眼てんがんの死体をこっそり隠すように命じて、どこかへ走り去っていった。

 その間、誰も真槍しんそうの事を見なかったし、見ようともしなかったし、探すこともしなかったし、言葉に出すこともなかった。それでも良かった。真槍しんそうが『突然死んだことに気付かなかったら、腐り落ちて酷い目に遭うから、死ぬまで見張っている』という言葉の裏に、頭領の最期の偉業を見届けるという意味を見出す者はいなかった。

 天眼てんがんの死体の事は、ねぐらの者たちに任せるしかない。その代わり、この人を孤独に死なせはしない。それくらいしか、真槍しんそうには彼等に償う術が思いつかなかった。


 ―――今日の昼、神と共に居られる子インマヌエルは十字架に掛けられて死ぬ。天はその悲しみを嘆いて瞳を閉ざし、震えて泣いて、涙を流して血を洗い流す。お前は祝福を受け、その勝利の前振りとして槍を掲げるであろう。

 嗚呼、真に彼は、神の御子であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る