第三十節 刑死(前編)
正午になって、ゴルゴダの丘に三本の十字架が立てかけられた。彼等は、「祭司殺しの
「惨めだなァ、王様よ。」
頭領が野次の中、中央の男に語りかけた。否、もしかしたらそれは『声』だったのかもしれない。とても話せるような状態ではない。恐らく鞭打ちの刑の後に休みなくここに来た男は、頭に皮肉な冠を押しかぶされ、汗よりも血の方が多いような気がする。彼はぐったりと力を抜き、ひくひくと呼吸に合わせて動いていた頭をもたげ、頭領を見た。
「俺ァ、山賊だった。だが
「………。」
「俺が拾ったのも、母親が死んで父親にも存在を知られてない奴らばかりだ。奴らはどんなに頭がよくてもこのユダヤの社会にはいられない。子供に罪はなかろうによォ…。」
「………。」
「世間も知らず、社会も知らず、規律も知らず、そんな奴らとなら、良い家族になれると思えた。」
「………。」
「だが、なぁ! なぁ! 何なんだよこの現実は!? 怨むぜ父上、こういうことだったなんてなァ!!!」
見ているだけでも力が入っていない、否、入らない両手を握りしめる。皮膚越しに骨肉が弾け飛び、血管が飛び出す。
「お前の右に居るその男! そいつが一体何をした!? 一人祭司を殺した、ああそうだろうさ! でなけりゃ俺の所にいられないと思い詰めた結果の行動だ! 一人で死ぬのが怖いと怯える事、それが要らねえのは余程のバカか勇者だけだ! 奴は未来を知らなかった。そうやって殺しに掻き立てて、たった一度の過ちでここまでの刑に処す、それが御心だというのなら、俺は拒否したさ! それを見越して父上が嘘をついたとでも? 公正なる神が嘘をつくかッ!!!」
荒れ狂う怒りに、頭領の両腕から、双眸の涙のように血が滴る。だが男は黙って聞いているだけで、何も言わない。
「―――みろよ…。」
「?」
その時、男は初めて、頭を少しだけ動かし、聞き耳を立てるように頭領を見た。
「救ってみろよ、
男は顔を向けるだけで、何も答えない。
「タダじゃ聞けねえってンなら、父上でも過去の預言者でも、どーんと連れてきやがれ。俺はもう全て手にした。何を求められようと返還に応じるだけの蓄えがある! ―――ハァ、ハァ、だから―――救え!!!
「いい加減にしないかッ!」
しかし男は答えず、
「私は当然の報いを受けたのだから当たり前だ。神ではないものを神とした、偶像を求め、つくった。十戒を犯したんだ。私は自分に与えられた力を、魔術でないと言ってくれる人が欲しかった。それを見極める者こそが、神から来るものだと信じていた。―――ああ、お前は悪くない、
「
「
しくしくと泣き出した
「宜しい、貴方に言いましょう。貴方は今日、私と共に神の国にいます。」
「………!」
その言葉で、
「ありがとう、ございます…。」
「―――ああ、そこに、いるのが、そうなのだね。」
その声は頭領の『声』ではないのに、罵声を浴びせ、嘆き悲しむ声の中では、大海の一滴が如き声だったのに。しかしその声は、確かに、彼らを父母と慕い、集った者たちの耳に届いた。
「なんだ、良い男じゃないか。」
そう言って、
「ハッ、良いザマだぜ。…なぁ、おい。そいつ、連れてってくれンだろうな。」
頭領の問いかけに、男は話していた男から、頭領の方へもう一度顔を向けた。
「なァに、タダとは言わねえ、対価は払うよ。」
血が足りないのか、水が足りないのか、或いは別の理由なのか、頭領は見開き血走った目で、男に言った。
「お前の二日とあいつの二日、合計四日、俺に寄越せ。」
「………。」
「あいつァ、一人で父上の所に行けるようなタマじゃねえ。だからお前も一緒に死ね。一緒に死んで、あいつを連れていけ。一緒に死ぬために、余分な分を俺に寄越せ。俺の三日とお前達の四日、たっぷり七日、何が何でも
「………。我が神に、そう願ってみましょう。」
「へっ、罪人ヅラすんなよ。父上が泣くぜ。」
「いいえ、此処にいるのは神の子ではありません。唯の罪人、唯の神への
「俺は山賊だ。欲しいものは奪う。それが神であろうと大祭司であろうと―――必要なら奪う。アンタが何を言っても同じだ。もうその四日は、俺のものだ。とっとと死ね。二度とこんなマネすんじゃねえぞ。」
男はそれには答えなかった。その代りに、『声』が如き声が、詩を歌った。
「
それを聞いて、人々は嘲弄した。神の子を名乗る男が、ボロを出したと。だが一度、
「わが力はかわきて…。」
僅かに男が、詩編の途中の言葉を漏らすと、見当違いな兵士がやってきて、葡萄酒に浸した脱脂綿を槍の柄の先にくくって差し出した。男が首を振ってそれを拒否すると、また民衆の野次が始まる。
「教養も何もねぇな…。きちんとした父親がいるのによ。」
男はその軽口に応えはしなかった。否、答えられなかったのだろう。背中が抉れて薄くなった胸板が、内側から激しく叩かれる。下を向けば、呼吸が妨げられる。だが上を向くための背中の筋肉は断裂し、胸を拡げる為の脚の骨は外れている。頭領に比べれば、遥かに貧相な身体だ。その薄い身体には不必要なくらいに空気が激しく出入りし、全身が白く、灰褐色になっていく。流れ出している血の筋は徐々に固まり、もう新しく血が流れていないことを示している。乳で満たした窯の底よりも下の方にある意識を必死に呼び起こし、彼は薄暗くなっていく空に向かって言った。
「父よ、私の霊を御手に委ねます。」
そう言って、男は首が折れるように項垂れ、死んだ。
その時、突然太陽が掻き消えた。昼であるはずなのに、突如として昼の光が失われたのだ。空を見ても、何処にも太陽が無い。否、それらしきものはある。空に、薄い糸で作った金色の指輪のようなものが浮かんでいる。時間を考えると、丁度あの位置に太陽がある筈なのに、太陽がない。天の海底が音を立てて裂け、大地が呼応するように震えて哭いた。空からは涙が流れている。三人の罪人の血が洗われ、丘を静かに流ていく。野次を飛ばしていた男達は、靴に罪人の血がつくと言って、皆引き上げていった。彼等が家に全員入った頃、漸く空に太陽が戻り、雨も上がった。
翌日は安息日というユダヤ人の、一週間のうちの記念日だった。その日に仕事や
ところが、頭領は脛を折っても、脇腹を刺されても、生きていた。
「そりゃ、俺はあと四日はここに居なきゃなんねえからな。死にゃしねえさ。…お前の所為じゃないよ、百人隊長。」
「…ご存知だったのですね。」
頭領、とは呼べなかった。自分がローマに戻り、百人隊の隊長としての地位を与えられた以上、彼の頭領は最早、
「ぼくの誠意です。貴方が死ぬまで、ぼくが見ています。三日でも、七日でも、十二日でも、それこそ四十日でも、槍を持って立っています。」
「…そぉか。じゃ、たのむわ。」
一人で死ぬのは誰だって怖い、という先程の頭領の啖呵が、頭領にも当てはまっていることに少しだけ安心した。それだけで
その一方、真ん中で死んだ男は、人望があったらしい。多くの女達が死体を引き取りに来て、罪人の死体を自分の墓に入れたいと言う奇特な男もいた。
その間、誰も
―――今日の昼、
嗚呼、真に彼は、神の御子であった。
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