第二十九節 磔刑

 ゴルゴダの丘に着いた頃には、日は高くまで昇っていた。もう少し登りそうなところが、不安を煽る。音声おんじょうの背中の傷は汗を吸って染み、血は乾燥した空気の熱によって早く固まり、尖った。処刑場の空気は重く、天眼てんがんは自分達を包む視線が変化した事に直ぐに気付いた。だが、此処まで来ると、どこか諦めたような、いっそ清々しいような気分に近く、苦痛ではなかった。

傍に音声おんじょうが居る。音声おんじょうと一緒に処刑される。独りではない。そのことが何よりもの慰めであって、血の汗は引いていった。

「おい、誰だ、こんな悪戯したの。十字架に掛けられないだろ、縄を切れ。」

 天眼てんがんが何か言う前に、縄が切られ、組み上げられた十字架の上に引き倒された。

「いっっ…てえなァ!!! 背中が、えぐ、抉れてんだぞ!!! ちった、ぁ、気ィ使え!」

「喧しい、この馬の子が!」

 鈍い音が聞こえる。音声おんじょうのその言葉は裏返っていて、勇ましく、或いは見物客に見せかけるように、見え透いた虚勢を張っているのが直ぐに分かった。暴れる音声おんじょうを押さえようと、天眼てんがんを適当に縛りつけ、兵士達がそちらに行く。

「おい、本当に八十回打ったんだろうな!? ピンピンしてるぞ、この変態ッ!」

「合いの子の兵士が、皇帝陛下に取り入る為にやったらしいから、適当に数えたんじゃねえか。」

「そんな訳あるかッ!!!」

 弾けるように、天眼てんがんが叫ぶ。天眼てんがんはあの鞭打ちを真槍しんそうがやっていたことも分かっていたし、彼が意図せず音声おんじょうの企みに利用されたことも、それによって深く傷ついたことも分かっている。その上で八十回の鞭打ちを行ったのだ。誤魔化された最後の一回の鞭を、どんな気持ちで振り下ろしたのか、夜の彼の祈りを視ていた天眼てんがんは知っている。

「あの子は―――あの子は、あの子は、総督よりも公正に、刑を執行した!! 撤回しろ、あの子は何も悪くない!」

「おいそこの新入り! あの人殺しのめくらはお前に随分御執心のようだぞ、直々に打ち込んでやれ!」

 鼻息が収まらず、天眼てんがんは首をもたげて睨みつける。なるべく彼を見ないように。

「………。」

「ぎゃああっ!! 痛ェっつってんだろ、もっろひんほうに打ちやァれ!」

「おい誰か! こいつの口塞いでくれ! うるさくて手元が狂ったら、掛けた後重みで手首が千切れる!」

 注目を集めるように、音声おんじょうは騒ぎ立てている。天眼てんがんは自分を見下ろす彼に、目を閉じて微笑みかけた。

「心配はいらないよ。こうなることは、一年前から知っていたんだ。…今は、覚悟が決まっている。もう何も怖くない。音声おんじょうが人の眼を集めている内に、お前の任務をおやり。」

「………、天眼てんがん様。一人では…、ぼく一人では、ここからお連れする事は出来ません。」

「逃げる事は考えていない。…真槍しんそう、私がここで死ぬようにと、私の定めた私の主が仰っているのだ。手伝っておくれ。」

 ぼた、ぼた、と、天眼てんがんの顔に大粒の熱い雨が降る。

「はい、お手伝い申し上げます。どうか、少しでもお苦しみになられませんよう…。」

 真槍しんそうが震える手で、釘を打ちこむ場所を、釘の先端で突きながら探している。下手に時間をかければ、粗雑な兵士にとって代わられる。急いでやらなければ、頭領が引き寄せている内に。

 悲鳴は上がったのかもしれない。けれども真槍しんそうは聞こえなかった。小指の先ほども狂わせてはいけない、刑吏ではない人間が十字架刑を行っていることがバレないうちに、打ちきらなくてはならない。

ヌーメンが遣わせし神と共に居られる子インマヌエル、我をゆるしたまえ。私は何をすればよいのか、分からないのです。」

「私がやれと言ったことを、どうして咎めよう。早くやっておしまいなさい。これ以上時間がかかっては、お前の為にならないよ。」

 真槍しんそうは釘を放り、両手首と、重ねた両足を思い切り、槍で貫いた。じわじわと釘を打つなんて残酷な事は出来ない。真槍しんそうは彼等を救うであろうと天使に預言された槍で、一気に骨肉を破壊し、槍が突き刺さった横木と縦木の位置に、釘を打った。刺して抜いた傷からは大量の血が吹き上がり、四肢の主要な機能が失われ、ただ苦しむ為だけに胴体に付随している。

「おい、何やってる、新入り!」

「―――釘が、入らなかったので、穴をあけたのです。私一人では、この十字架を建てかけられません。手伝ってください。」

「うるせえ、こっちの暴れ馬で手いっぱいだ、勝手にやれ! 罪状書きつけるの忘れるなよ。」

 言われると、真槍しんそうは十字架の縦木の横に、粗末な板を見つけた。浅く早い呼吸を繰り返しながら、天眼てんがんは尋ねた。

「な、な、なにで、しぬって?」

「………。『祭司殺しの男娼│めくら』と、書かれています。」

 また真槍しんそうが泣くのが分かった。この札を壊すことは簡単だが、それをする勇気がない。総督へ楯突けば、頭領や天眼てんがんのように殺されてしまう。ねぐらにも戻れない。真槍しんそうはそれがどうしても怖かった。この三年間、父親が分からない売女の息子だと罵られず、嫉妬される事もなく、嫉妬し焦がれる幸せをくれた者達を、既に裏切っているのだ。彼等は頭領を引き渡したことを赦しはしないだろう。ならば、ローマに逃げ帰れという安っぽい悪魔の囁きが、どうしても真槍しんそうは退けられなかった。

天眼てんがん様、ぼくがずっとお傍にいます。天眼てんがん様が息を引き取られるまで、寝ずにずっと、槍をお奉げしています。」

「ふ、ふ…。とり、あえず…。はやく、はじめてくれ。」

 ―――そして、早く終焉おわらせて。

 そんな天眼てんがんの声が聞こえた気がした。

 真槍しんそうがロープを使ってゆっくり十字架を堅穴にすぽりと引きずりいれると、ガキッと奇妙な音がして、天眼てんがんの腕が伸びた。脱臼したのだ。

「く…っあ゛、あ゛ぁ…。」

 両腕に力が入らず、強引に上げられた腕が、天眼てんがんの胸を下から引っ張り上げる。ならば脚に力を入れて、背伸びをすれば苦しくなくなるが、その都度足首の釘が、脚の筋肉を引き千切る。それでも立たなければ、息が出来ない。天眼てんがんは脂の混じった汗も一緒に書きながら、上を向いて喉を真っ直ぐにしようとした。涙か汗か、それとも傷から流れているだけなのか、天眼てんがんの十字架の下は、既に真赤に血で汚れている。

 真槍しんそうがじっと天眼てんがんを見上げ、涙を浮かべていると、隣でも大きな音がした。頭領の十字架が立てかけられたのだ。頭領はもう、何も叫ばなくていいことが分かったのか、何も言わなかった。ただ、立て方が上手だったのだろうか、頭領の肩は伸びているが、外れてはいないようだった。

「おん、おんじょ、は?」

「大丈夫です、まだ生きておられます。」

 違う、と、天眼てんがんは首を振った。真槍しんそうとて、全く意図が分からなかったわけではない。ただ、その罪状書きはあまりにも惨くて、頭領の素顔を知っている真槍しんそうは、その言葉を言えなかった。言えば、他ならぬ自分でさえ、頭領を裁いてしまう。頭領の尊厳を破壊してしまう。母を辱めた父の神ではなく、母を護らなかったローマの女神を選んでも良いと言った、あの人を乏しめてしまう。

「しんそ。」

「嫌です。言えません。言いたくありません。どうか、せめて、ご自分の眼でご覧になってください!」

「…めが、」

「え?」

 天眼てんがんが、僅かに顔を傾けた。黒い瞳が本来在る場所に、天眼てんがんは黒を持たない。天眼てんがんの瞳は、花の中心のように白い。だが今その瞳には、目の血管が破裂したことで出来たらしい、赤黒い影が、いくつも出来ている。その内の一つは、まるで本物の眼球以上に眼球らしく、ぐるぐると定まらずに動いていた。

「なにも、みえな…い…。」

 その言葉が、真槍しんそうが思っている以上に、天眼てんがんに死が近づいている事を意味していた。真槍しんそうはそれならせめて、何の疑問も持たないで、何も気にせず、苦痛すらも気にせずに居れるように、その罪状書きを読んだ。

「………。『獣と姦通し、大祭司を騙した、馬の息子』と、書かれています。」

「………。―――…。」

 天眼てんがんは何か言ったようだが、真槍しんそうは聞き取れなかった。聞き耳を立てようとした時、誰かがまた、この処刑場にやって来た。

「おい、そっちの二人は終わったんだろう! こっちも手伝ってくれ、王様のお通りだよ!!!」

「さあ王様、こちらに寝そべって下さいな。何せ神殿を壊して三日で建て直すんだから、今のうちにしっかり寝とかなくちゃあ。」


 ローマの裁きをも裁く神よ、私は貴方に寄り頼む。永久に彼等を辱めないでください。

 貴方の義を以て彼等を助け、彼等を救いだしてください。私に耳を傾けて、彼等をお救い下さい。

 私の為に逃れの岩室をくれた、彼等を救う剣と盾になってください。彼等は神の瞳、神の声だからです。

 イスラエルの神よ、悪しき者の手から彼等を救い、不義なる彼等の父、残忍なるユダヤ社会の支配から、彼等を救いだしてください。

 我が主の神よ、貴方は彼等の若い時からの、彼等の希望、彼等の主です。

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