第二十八節 道行

 その様子を、天眼てんがんは視て、ホッと胸を撫で下ろした。もう思い残すことはない。後は自分が定めた王が、玉座に座るのを見届けるだけだ。

 正直、今のこの絶望的な状況から、どのようにして音声おんじょうが『王』になるのか、分からない。分からないが、本人がこうすると言っているのだから、家臣は従うしかあるまい。血の汗で汚れた自分の掌と、出血が膿みはじめた背中を合わせる。ドクッドクッドクッドクッと、早馬に乗っているかのような凄まじい心音が伝わって来た。生命に漲っている訳ではない、だが、音声おんじょうの命は、まだ尽きていなかった。

「…―――ごほっ!」

 湿った咳が出る。カッと喉を鳴らし、口の中のものを吐き捨てると、煮凝りのような血の痰が出た。鞭打ちこそされなかったが、自分の腕の中で弱々しく、罅割れた歯で石を咥えた最愛の友の身体が弾かれるのは、身を裂かれるより辛かった。その苦しみで、天眼てんがんの身の内にもまた、鞭が振り下ろされたのだ。

「………。おはよ、天眼てんがん。」

 めくらと罵られても反論できない程度には、音声おんじょうの眼は虚ろだった。左目は血が入って真赤になっているし、右瞼はしなった鞭が掠めて、真っ二つに裂けている。鞭を受けていない筈の顔は、血と汗と泥でぐちゃぐちゃになって、それらは天眼てんがんがいくら拭っても取れなかった。

天眼てんがん。」

 音声おんじょうは俯せのまま言った。

「うん。」

「お前は、今日死ぬよ。」

「………。うん。」

「お迎えがちゃんと来るらしいから、心配するな。俺がそれまで、ずっと一緒にいるからな。」

「お迎え…?」

「俺はちょいと野暮用があるから、少し遅れて死ぬけど、行く所は同じだ。安心して、先に行っててくれ。」

 天眼てんがんはそれを、先に行って音声おんじょうの為の玉座を整えるのだと理解した。

「ああ、分かったよ。先に行って、君の為の椅子と、宴を手配しよう。上手く出来るか、分からないけど。」

「お前の気持ちのこもったものなら、何でもご馳走さ。………。なあ、天眼てんがん。」

「うん。」

「………、俺は、お前達兄弟を、救ってやれたかなァ…。結局、お前は弟と死別しなきゃなんねえのに…。」

「救ってくれた!」

 天眼てんがんは叫び、背中を反らせる事も考えずに頭を抱きしめた。

「救ってくれたとも。私を罪に定めなかった。私を裁かなかった。私の恩寵を信じてくれた。私の愛する弟を愛してくれた! 養母に死なれてからずっと、乞うても乞うても、司祭にもレビ人にも与えられなかった施しを、お前は全部全部、私がねだるより前にくれた! 何度でも言うよ、真なる神と共に居られる子インマヌエル。君こそが預言された者、油を注がれた救世主マーシーアッハ、父を知らぬ羊の群れの牧者だ。」

「はは…。最後くらい、素直に喜んどくか。…ありがとう、天眼てんがん。もし俺達が、嫁ぐことも迎えることもない身になったら、一番のお前を迎えに行くよ。あららぎにも、もう一緒になってくれる奴がいるからな。」

「ああ、私もだ。弟は、今生の恋のお相手に任すとしよう。だが瑠璃妃るりきさきはどうする?」

「必要なら、向こうから来るさ。」

「そうかもしれない、気丈な人だから。―――ああ、音声おんじょう、もっとお前との信愛を語っていたかったよ。」

 牢が開かれた。


 牢のある総督官邸から、十字架刑が行われるゴルゴダの丘までは、一スタディオン(凡そ一.六キロ)程だが、その道中、十字架の横木を担がなければならない。横木は一番短いもので丁度一キッカル(凡そ三十四キロ)あるが、昨日ズタズタに筋骨を絶たれた音声おんじょうは、その双肩に二人分の横木を背負わなくてはならない。横木はかんな掛けなどはされておらず、木を伐採して四角く整えただけのものだ。ささくれがどんなふうにむき出しの筋肉に突き刺さるのか、固まった膿を剥がすのか、想像しただけで天眼てんがんは赤い汗が滲んだ。

「おいめくら、お前は縛り方を変えるから、ちょっとこっちに来い。」

 音声おんじょうが横木をどうにか担ごうとしていると、天眼てんがんは別の兵士に呼ばれた。来い、と言われても、声が雑多に在り過ぎて良く分からない。縛られた手で探りながら、ゆっくりとその声に近づいた。声の主は、何も言わずに天眼てんがんの縄を解いたかと思うと、後ろを向かせ、後ろ手に縛った。それだけか、と、ぼんやり思っていると、首に縄がかけられた。但し、首を締めてはいない。縄の輪が、ひょいと荷物に掛けるように首にかかっている。

「良く聞け、この屑共。今このめくらの首には、縄をかけてある。引っ張れば自動的に締まる仕組みだ。反対側にも同じ仕組みの輪を、髭の首に掛けてある。つまり、お前達が足並みをそろえなかったり、歩くのに差があり過ぎたり、突然しゃがみこんだりすれば、縄が絞まって息が出来なくなる。この縄は麻だから、一度絞まったら自然には元に戻らない。ゴルゴダの丘までの一スタディオン、きっちり仲良く歩きな。」

音声おんじょう…。」

 後ろ手に縛られると、一気に辺りを探る力が削がれる。天眼てんがんは堪らず、音声おんじょうに語りかけたが、音声おんじょうは震える声で明るく言った。

「よっしゃ! 我が一の友神と共に居られる女傑の子バルサライ・インマヌエル、この神と共に居られる命の子バルハヴァ・インマヌエルこと、音声おんじょう様最後の大一番、よぉく視とけよ!」

めくらに見るも聞くもあるもんかい!」

 兵士達は嗤ったが、天眼てんがんは焦点の合っていない瞳で音声おんじょうを見つめ、頷いた。

 外は快晴らしく、陽射しが全裸の身体に突き刺さる。血の汗を掻いて脆くなった肌は、陽の光に焼けてひりひりと痛かった。ごと、ごん、ごと、ごと、と、十字架の横木が石や道の凹凸に引っかかる音がする。二キッカル(凡そ六十八キロ)を両肩に背負うのが、どれ位辛いのか、少なくとも横木に触れた事もない天眼てんがんでは、その音と、歩みの幅から推測するしかない。

 裸足の指先が湿ってくる。音声おんじょうの血が流れ落ちて、地面を汚しているのだ。

「見ろ、馬の子が人を牽いてるぞ!」

「良く見ろ、あの首輪をしてるのは人間じゃない、めくら乞食だよ!」

「馬ならもっと気張って歩け、片腕かたわせむしの方がもっと早く歩くぞ!」

「馬なら鞭をくれてやれば、もっと早く歩くさ、そら歩け!」

 天眼てんがんは半歩前へ出て、見切った投石を肩で受けた。ぼろりと肩の肉が削ぎ落とされ、骨が見える。

「やっぱりあのめくらは畜生だ、馬をまもったぞ!」

「人の姿をした悪霊め!」

「早くつけろ、十字架に!」

「十字架に! 十字架に!」

「殺せ殺せ、ローマ皇帝の敵だ! 我等の王の敵だ!」

 野次がどんどん大きくなり、天眼てんがんの耳に反響し、方向が分からなくなってくる。音声おんじょうはそれに気づき、そっと語りかけた。

『あと一歩、右に来い。俺の左側の横木に触れる。』

「いいのか、音声おんじょう。もっと野次が酷くなる。」

『だってお前、そのままじゃ動けなくなるだろ。まだ歩きはじめたばかりだ。一スタディオンはこの分だと正午までに着くかどうかだぜ。』

「…うん、ありがとう。」

 言われた通り、音声おんじょうの歩く感覚に合わせて、そっと右へずれると、目ざとくそれを見つけた群衆から、またしても石が飛んできた。今度は音声おんじょうに当たらないと分かったので、すっと天眼てんがんは頭をずらして避けた。

「男娼│めくらが! 気色悪ィことすんな!」

「今のを見たか、めくらの癖に石を避けたぞ!」

「あの干物の魚みてぇな瞳は開いてるに違いない! 悪霊の瞳だ!」

「悪霊だ! 悪霊憑きだ!」

「魔術師だ! 我等の神の禁じた魔術を使う冒瀆者だ!」

 天眼てんがんは震えながら唇を噛んで耐えた。この眼は神より賜った、罪を祝福と栄光に変える眼だ。その価値を全員に分かれとは言わないし、思ってもいないが、それでも自分の誇りをけがされるのは耐えがたい屈辱だった。

『黙せよ、ヤ・サーターン。これなる道行は聖なる献身である。臆し拝せよ。王は遜り、地を歩いている。』

 今にも天眼てんがんが決壊して崩れそうだったのを見通した音声おんじょうが、群衆にまるで権威者か何かのように、その心に声をかけた。群衆は天眼てんがんでも分かるくらいに怯え、頭を庇って小さくなった。

「ヤ・サーターン? 神の敵対者サーターンだと? 今そう聞こえなかったか。」

「聞いた聞いた、俺は聞いたぞ。」

「私達が神の敵対者サーターンなものか。私はこの祭りで祭司に牛を一頭生贄に奉げて見せたぞ、祭司達の誰もが知っている! だから神は我等の味方だ。」

「では今の声は。」

「決まっている、悪霊が連中を助けようとしたのよ!」

「無駄だぞ、悪魔!」

「私達は神の民なのだ! お前らなどに惑わされるものか!」

「十字架にかかって死ね!」

「十字架にかかって死ね!!」

「消えろ悪魔、地獄に還れ!!!」

 と言いつつも、どんな魔術を使われるか分からず、怖かったのだろう。石は飛んでこなかった。だが野次は益々粗野に響き渡り、その敵意や嘲罵が、今や炎の渦として具現化せんばかりだった。

「………チッ。」

 音声おんじょうが小さく舌打ちをしたかと思うと、突然│天眼てんがんは地面に叩きつけられた。首が苦しい。首の上に、横木が崩れて乗っている。それだけでなく、麻紐がぐっと絞まる。けほけほ、と、咳き込むと、麻紐が僅かに首の皮をこそいで、緩んだ。音声おんじょうが倒れたことに気付くのに、少々時間がかかった。地面に顔を近づけると、風が吹き込むような音と、荒い呼吸が聞こえる。

「けほ…っ、私は平気だ、音声おんじょう。苦しくないか?」

 息が震えて、何か言おうとしたのが分かる。聞こえずに顔を近づけると、又しても石が投げられた。今度は避けると音声おんじょうに当たるので、天眼てんがんは動かなかった。衝撃で音声おんじょうの上に上半身が倒れると、二本の横木と天眼てんがんの下敷きになった音声おんじょうが息を詰まらせる。

「見たか今の! 奴は接吻くちづけしたぞ、男同士なのに!!」

「おお神よ! エルサレムをけがれからお守りください!」

「どうか我等を裁かないでください! 私達は見ただけなのです!」

「エルサレムを焼かないでください!」

「おお、おお、おお、神よ!」

「神よ! 神よ! 神よ!」

 天眼てんがんの下で、音声おんじょうは呻く力もなく、今にも死にそうだった。否、群衆の楽しそうな独り芝居が、音声おんじょうから生きる気力を、身体を支える力を奪って行っている様にも思えた。少なくとも後ろ手に縛られた自分では、横木を退けてやることは出来ない。身体を押し付ければ動かせるのかもしれないが、めくらの自分がやっても、逆効果になってしまう。全裸の自分では、音声おんじょうの顔に触れて汗を拭う事すら出来ない。それでも唇が動き、歯が生えているのなら、その麻紐を緩める事が出来るのなら、否、それしか自分に出来る事は無かった。連中はきっと嬉々としてまた石を投げるだろう。

 だが考えてみれば、それがどうしたと言うのだ。自分は彼が玉座に座る道を整えるのだから、自分が生き残る必要など無いのだ。音声おんじょうの身を護る事が出来なくなり、用済みになるその瞬間まで、彼の傍に控えている事こそが、この受難の道程の意味なのだ。

「もう止めて!!!」

「止めてください、どいて、どいて、どいてってば!!」

 突然女の―――ここにはいない筈の女の声が聞こえた。

 まさか、まさか、まさか。何故ここに、何故この時に、何故やってきたのだ。呆然とする天眼てんがんの眼の前に、誰かが走ってくる。恐らく二人だ。その内の一人が、自分の首に手を伸ばし、縄を緩める。同じことをもう一人が音声おんじょうにしたらしく、音声おんじょうは澱みを吐き出すような咳をした。自分の目の前にいる方ではない女の声がする。

「もう止めてください。昨日とはいえ、常人の二倍の八十回も鞭を打って、まだ生きているからと言って、あまりに惨すぎます。」

「なんだ女、お前はこの罪人が客なのか?」

「この人を罪に定めるのなら、貴方方の正義は、ローマもイスラエルもエルサレムさえも全てすべてすべてすべて! 紛い物でございます!! この人は―――。ぎゃんっ!」

瑠璃るり様!!」

 ああ、やっぱり、やっぱり、やっぱり。瑠璃妃るりきさき蘭姫あららぎひめだ。彼女たちはこの一年、探しても探してもいなかったのに、この一番来てほしくない場面に来たのだ。あまりにも勇敢に、あまりにも蛮勇に、あまりにも尊厳を傷つける時に。だが弁明をしようとした瑠璃妃るりきさきの後頭部を、音声おんじょうは強かに、横木で打った。頽れた瑠璃妃るりきさきの顔に、音声おんじょうは一際たっぷりと、唾を吐きかけた。

「俺はお前らなんか知らない。金もない。失せろ、はしため共。」

 その言葉は酷く落ち着いていて、酷く響いて、とても死にかけの男が放つ言葉には思えなかった。

 ―――逆に言えば、その場にいた誰もが、瑠璃妃るりきさきを、強盗の怒りを買った金目当ての娼婦と思い込んだであろう。

 音声おんじょうは後ろ足でなるべく多くの土を蹴りかけ、横木でなすりつけた血を泥で落とせるようにしてやると、無言で歩きだした。それが、彼が頭領として、夫として、父として、彼女達に施せる精一杯だった。天眼てんがんは礼を言いたい気持ちをぐっと抑え、なるべく二人に自分の裸体が恥ずかしく見えないように、歩き出した。

 音声おんじょうはその後、二度倒れたが、いずれも無言で自ら立ち上がり、また、天眼てんがんを呼び寄せ、その首の縄を緩めてやった。音声おんじょうがどうやって緩めたのか、天眼てんがんには分からない。ただ、二人を罵る群衆の声が掠れて、人々が少なくなっても、天眼てんがん瑠璃妃るりきさき蘭姫あららぎひめを始めとした多くのねぐらの女たちが、銘々の物陰から自分達を見つめ、泣いているのが視えた。


 私の娘、妹、姉達よ、私達の為に泣いてはいけない。寧ろ貴方方自身のために泣きなさい。

 ―――今日、私は死ぬ。もう何も、視てやる事は出来ない。

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