第二十八節 道行
その様子を、
正直、今のこの絶望的な状況から、どのようにして
「…―――ごほっ!」
湿った咳が出る。カッと喉を鳴らし、口の中のものを吐き捨てると、煮凝りのような血の痰が出た。鞭打ちこそされなかったが、自分の腕の中で弱々しく、罅割れた歯で石を咥えた最愛の友の身体が弾かれるのは、身を裂かれるより辛かった。その苦しみで、
「………。おはよ、
「
「うん。」
「お前は、今日死ぬよ。」
「………。うん。」
「お迎えがちゃんと来るらしいから、心配するな。俺がそれまで、ずっと一緒にいるからな。」
「お迎え…?」
「俺はちょいと野暮用があるから、少し遅れて死ぬけど、行く所は同じだ。安心して、先に行っててくれ。」
「ああ、分かったよ。先に行って、君の為の椅子と、宴を手配しよう。上手く出来るか、分からないけど。」
「お前の気持ちのこもったものなら、何でもご馳走さ。………。なあ、
「うん。」
「………、俺は、お前達兄弟を、救ってやれたかなァ…。結局、お前は弟と死別しなきゃなんねえのに…。」
「救ってくれた!」
「救ってくれたとも。私を罪に定めなかった。私を裁かなかった。私の恩寵を信じてくれた。私の愛する弟を愛してくれた! 養母に死なれてからずっと、乞うても乞うても、司祭にもレビ人にも与えられなかった施しを、お前は全部全部、私がねだるより前にくれた! 何度でも言うよ、真なる
「はは…。最後くらい、素直に喜んどくか。…ありがとう、
「ああ、私もだ。弟は、今生の恋のお相手に任すとしよう。だが
「必要なら、向こうから来るさ。」
「そうかもしれない、気丈な人だから。―――ああ、
牢が開かれた。
牢のある総督官邸から、十字架刑が行われるゴルゴダの丘までは、一スタディオン(凡そ一.六キロ)程だが、その道中、十字架の横木を担がなければならない。横木は一番短いもので丁度一キッカル(凡そ三十四キロ)あるが、昨日ズタズタに筋骨を絶たれた
「おい
「良く聞け、この屑共。今この
「
後ろ手に縛られると、一気に辺りを探る力が削がれる。
「よっしゃ! 我が一の友
「
兵士達は嗤ったが、
外は快晴らしく、陽射しが全裸の身体に突き刺さる。血の汗を掻いて脆くなった肌は、陽の光に焼けてひりひりと痛かった。ごと、ごん、ごと、ごと、と、十字架の横木が石や道の凹凸に引っかかる音がする。二キッカル(凡そ六十八キロ)を両肩に背負うのが、どれ位辛いのか、少なくとも横木に触れた事もない
裸足の指先が湿ってくる。
「見ろ、馬の子が人を牽いてるぞ!」
「良く見ろ、あの首輪をしてるのは人間じゃない、
「馬ならもっと気張って歩け、
「馬なら鞭をくれてやれば、もっと早く歩くさ、そら歩け!」
「やっぱりあの
「人の姿をした悪霊め!」
「早くつけろ、十字架に!」
「十字架に! 十字架に!」
「殺せ殺せ、ローマ皇帝の敵だ! 我等の王の敵だ!」
野次がどんどん大きくなり、
『あと一歩、右に来い。俺の左側の横木に触れる。』
「いいのか、
『だってお前、そのままじゃ動けなくなるだろ。まだ歩きはじめたばかりだ。一スタディオンはこの分だと正午までに着くかどうかだぜ。』
「…うん、ありがとう。」
言われた通り、
「男娼│
「今のを見たか、
「あの干物の魚みてぇな瞳は開いてるに違いない! 悪霊の瞳だ!」
「悪霊だ! 悪霊憑きだ!」
「魔術師だ! 我等の神の禁じた魔術を使う冒瀆者だ!」
『黙せよ、ヤ・サーターン。これなる道行は聖なる献身である。臆し拝せよ。王は遜り、地を歩いている。』
今にも
「ヤ・サーターン?
「聞いた聞いた、俺は聞いたぞ。」
「私達が
「では今の声は。」
「決まっている、悪霊が連中を助けようとしたのよ!」
「無駄だぞ、悪魔!」
「私達は神の民なのだ! お前らなどに惑わされるものか!」
「十字架にかかって死ね!」
「十字架にかかって死ね!!」
「消えろ悪魔、地獄に還れ!!!」
と言いつつも、どんな魔術を使われるか分からず、怖かったのだろう。石は飛んでこなかった。だが野次は益々粗野に響き渡り、その敵意や嘲罵が、今や炎の渦として具現化せんばかりだった。
「………チッ。」
「けほ…っ、私は平気だ、
息が震えて、何か言おうとしたのが分かる。聞こえずに顔を近づけると、又しても石が投げられた。今度は避けると
「見たか今の! 奴は
「おお神よ! エルサレムを
「どうか我等を裁かないでください! 私達は見ただけなのです!」
「エルサレムを焼かないでください!」
「おお、おお、おお、神よ!」
「神よ! 神よ! 神よ!」
だが考えてみれば、それがどうしたと言うのだ。自分は彼が玉座に座る道を整えるのだから、自分が生き残る必要など無いのだ。
「もう止めて!!!」
「止めてください、どいて、どいて、どいてってば!!」
突然女の―――ここにはいない筈の女の声が聞こえた。
まさか、まさか、まさか。何故ここに、何故この時に、何故やってきたのだ。呆然とする
「もう止めてください。昨日とはいえ、常人の二倍の八十回も鞭を打って、まだ生きているからと言って、あまりに惨すぎます。」
「なんだ女、お前はこの罪人が客なのか?」
「この人を罪に定めるのなら、貴方方の正義は、ローマもイスラエルもエルサレムさえも全てすべてすべてすべて! 紛い物でございます!! この人は―――。ぎゃんっ!」
「
ああ、やっぱり、やっぱり、やっぱり。
「俺はお前らなんか知らない。金もない。失せろ、
その言葉は酷く落ち着いていて、酷く響いて、とても死にかけの男が放つ言葉には思えなかった。
―――逆に言えば、その場にいた誰もが、
私の娘、妹、姉達よ、私達の為に泣いてはいけない。寧ろ貴方方自身のために泣きなさい。
―――今日、私は死ぬ。もう何も、視てやる事は出来ない。
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