第二十六節 刑罰

 イスラエルの刑罰は、全て律法として聖書に記述されている。しかし、それはあくまでもイスラエルの中だけでの話であって、現在ローマの属国であるイスラエルの刑罰は、ローマの刑罰を受ける事になる。その中でも、鞭打ちの刑は最も標準的な刑であり、四十回という回数は、イスラエルの律法で定められた最大回数である。山賊稼業である事から抜け出さない限り、何れは来たる運命だったと言えるだろう。それにしたって、通常は数え間違いを危惧するのと、『御恩情』で三十九回なのだが、それが護られた処刑を見たことが無い。少なくとも音声おんじょうが、それを観察できる地位に居たころは。

 刑罰の前に死んではならないと、音声おんじょうの顎と唇に、粗雑ながらも手当てが施された。汚れた古着を裂いて作った包帯は、すぐに血と水を吸って張り付き、徐々に熱が出始めた。岩肌の獄の中は、昼間太陽が射しこまないので温もりが残っておらず、夜が深まるにつれ、全裸の天眼てんがんは寒さに凍えた。音声おんじょうの腰には縄が巻かれ、その縄は天眼てんがんの両手に繋がっている。音声おんじょうは両手が塞がり上手く歩けない天眼てんがんの傍により、剥ぎ取られなかった自分の下着の隙間に抱き入れた。

「大丈夫だって、天眼てんがん。今は過越祭の期間だ。この期間には罪人を一人恩赦する事が決められているから、若頭わかがしは解放してやれる。」

 音声おんじょうは最早、天眼てんがんが死の恐怖に怯える事を慰めなかった。天眼てんがんは尋ねた。

音声おんじょう、これでいいのか。これで間違っていないのか。お前はどの段階で死ななければならない?」

「安心しろ、皆が思うよりは生きる予定だ。」

「私はここに来た事は後悔していないとも。お前が私と共に死ぬと知っていて、その杯を呑む決意をしたのだから。私の定めた私の王が、『来い』と言って行くのだから、何も恐れてはいない。」

「そうか。」

「でもあの子は、頭が悪い。兄の私が言うのも難だが、未だに数が数えられないし、律法だって覚えちゃいない。あの子には王が必要なんだ。その王とはお前だ、音声おんじょう。」

「………。」

音声おんじょう、私が視える事は、まだ誰も気づいていないようだ。私は拷問されても、口が割れない、見えていないのだからね。だから今からでも逃げてくれないか。私の為じゃない、私の弟のためにだ。」

「………。」

「さっき下された刑罰は、私が負うから。私を王だと、預言の御子だと思うのなら、行ってくれ。」

「………、天眼てんがん。」

 服の袖で天眼てんがんの涙を拭きながら、産まれたままの姿で自分に繋がれた哀れな罪人ざいにんの名を呼ぶ。罪人は答えず、ただはらはらと涙を流すばかりだ。死なないで、とも、生きて、とも言わない。言って、何と答えられるか分かっているからだ。

天眼てんがん、俺はお前を始めてエルサレムで拾った時、神に祝福された存在というものがこんなにも美しいのかと思ったよ。今にして思えば、お前の中に流れるローマの血が、イスラエル人ばかりの中で異色に見えたのだろうがな。隣でキャンキャン吼える若頭わかがしがいて、より一層お前は儚く見えた。自分の女も護れなかった俺が、護っていい―――護るべき存在だと、すぐ分かった。」

「…でも、私達の暮らしを見て、お前の生きる道も変わってしまった。」

「家を追い出されて荒んだ生活してたんだ、どの道何れは山賊だろうよ。でもそうだな、お前の弟が、馬鹿なりにお前のために這い上がろうとしてるのを見て、それを助けなきゃなっていうのは、思ったな。」

「私達に出会わなければ、お前はきっといつか本当に出世して、今の大司教なんて存在しなかったろうに。」

「こっちの人生を選んだんだ、後悔があるとしたら―――あららぎを産ませちまったことだな。」

「?」

 顔を上げた天眼てんがんの額に、冷えて硬くなった指先が触れる。

瑠璃るりを他の男に盗られたくなかった、それだけで産まれた執念の娘だ。馬の孫だと知られないように、熱病の時に居てくれたんだろう。…次死ぬときは、お前と一緒だ。ありがとうな、すまねえ。」

音声おんじょう…、私は―――。」

「あー…。やばい、血が足らねえな…。少し寝かせてくれ。明日からは死の行軍だからな。」

「うん…うん、ゆっくり寝てくれ。私がみてるから。」

 次に眠りにつく時は、永久の眠りだろうから。


 朝が来て、音声おんじょうが目覚めるよりも前に、兵士がやって来た。兵士はめくらと倒錯者だと聞いていたので、どんな酷い臭い現場になっているかと戦々恐々としていたが、別の意味で悲鳴を上げた。

 両手を縛られ、全裸に剥かれた男が、頭から血を浴びた様に真赤になっていたのだ。それなのに血の匂いはせず、寧ろ臭いは奴隷部屋の一角のように、汗臭かった。ガタガタと震えながら爪を噛んでいるその様を見て、処刑が怖くて気が触れたのだろうと、兵士達は顔を見合わせた。

「んふぁ…? どうした、天眼てんがん。怖かったか。…いててっ。」

 ヨイショ、と、音声おんじょうが身を起こす。あまりにも堂々としているので、兵士が竦む程だった。

「お前、魔術師なんだってな。」

「あん?」

「だから怯えないのか、今日の夕方には、お前は背中が剥けた上に十字架刑だ。お前は魔術で逃げ果せるんだろう。」

「ん? 出てっていいのか? なら堂々と出てくぞ、うちのも連れて。」

 ちっとも怯まないので、兵士はつまらなそうに顔を見合わせ、二人を引っ立てた。

 総督の前に来ると、天眼てんがんは気配を察知して、音声おんじょうの二の腕に触れた。音声おんじょうが大丈夫、と、顔を背けて頬擦りする。その眼は、怯える天眼てんがんを愛おしむ慈愛に満ちていて、彼が目を向けるべき裏切り者―――総督の隣に立つ真槍しんそうには向けられていなかった。

「槍兵よ。」

「はい。」

「お前はこの山賊共を捕えるのに尽力してくれた。私もそれを認めよう。しかし、それだけではローマの議長達は認めないし、これからお前をローマに戻すにしても、どの隊長も兵士も、お前を受け入れまい。だが、この場でお前が私の意の汲む所を皆に示せば、誰もがお前は生粋のローマ人だと、皇帝陛下に知らせるだろう。」

「はい、寛大な措置痛み入ります。」

 真槍しんそうは手に、槍を持っていなかった。代わりに、革の鞭を持っていた。その鞭には鉄の球が編み込まれており、時々それが無いかと思うと、鋭く裂けた動物の骨が編み込まれている。

『心配すんな。ゴルゴダまで、一緒だからな。』

「おんじょ―――。」

「では、鞭打ち刑を執行する! 前へ出よ!」

 二人を繋いでいた縄ごと、広場に引っ立てられる。音声おんじょうは穏やかな顔をして、眼を閉じていた。真槍しんそうを見ないでいる為だ。しかしそんなことまで思いもよらない真槍しんそうは、それが酷い拒絶に見えた。天眼てんがんを全裸にして血塗れにして、自分は涼しい顔をして、言われるがままに上裸になり、膝をつく。天眼てんがんがそっとその隣に寄り添うように座った。縄を解かれていないから、離れられないのだ。

「総督、執行書には、髭の方に四十回ずつ、実質八十回と書かれています。あの裸のめくらを退けてください、彼に鞭が当たります。」

「いいや、あれも罪人だ。あの髭の方がめくらの案内をしているのだ。鞭を振るわれないからと言って、民衆の前にいないのでは罰にならない。故にこのまま執行せよ。」

 それ以上は、真槍しんそうは何も言えなかった。鞭を両手で持ち、震えながら呼吸を整える。目の前には、剛毛とは思えない程滑らかな背中に浮かぶ、小さな古傷の数々。その小ささと細かさに、彼のそれまでの生き様が見えた。

「どうした、槍兵。早にやれ。」

「その、…くつわを、下さい。八十回も打つのですから、途中で弾みで舌を噛んでしまうかもしれません。」

 すると、群衆の中から、拳程の平石が投げられた。ごん、と、天眼てんがんの額に当たり、血が流れる。兵士の一人がやってきて、その石を音声おんじょうの口に突っ込んだ。苦しそうなくぐもった声がし、何とかそれを咥える。丁度、獣が肉の塊に噛みついているような、そんな図になっていた。

「ぐ…ぅ…。」

 舌が押されて苦しいのか、音声おんじょうが唸る。もう真槍しんそうには、鞭を振るわない口実が無かった。重たい鞭を握り直し、真槍しんそうは大きく振りかぶり、一振り目を振り下ろした。

「ッ!!!」

音声おんじょう!」

 ふー、ふー、と、荒い声がする。右肩にざっくりと、骨が引っかかって避ける。傷の淵は、鞭の中に編みこまれた鉄球が叩き潰した。冷や汗が、音声おんじょうの顔の輪郭に巻きついた汚れた布を湿らせる。たった一撃、振り下ろしただけなのに、背中がてらてらと汗で光った。こんな状態では、二十回すら持ちそうにない。

「どうした槍兵、二振り目を入れぬか。」

「申し訳ありません、思ったより鞭が重かったのです。―――今、やります。」

 二振り目を反対から振り下ろすと、血飛沫が掛かった。重たい金属音と、荒い呼吸、触れた肌から伝わる振動が恐ろしくて、天眼てんがんはぎゅっと音声おんじょうの二の腕に縋りつき―――石を投げられた。

「気色の悪い、離れろ! この男魔術師め!」

「男娼│めくらが、奴隷と同じ死に方が出来るだけでもありがたいと思え!!」

「喧しい! 神聖な裁きの場だぞ、暴徒は全員―――こうするぞ!!」

「!!!」

 真槍しんそうが三振り目の鞭を、打ち上げると、弾みで音声おんじょうの身体が大きく前に傾き、それを天眼てんがんが支えた。民衆が興奮して、何か余計な物を今のように投げ込まれたら、訴状に無い苦しみが加わってしまう。真槍しんそうはずるずると鼻水を啜り、我武者羅に鞭を振るった。それは槍を振り回すように、剣を振り回すように、人を殴るように、さりとてそれらのどれよりも凶悪な武器で行われた。真槍しんそうは血を浴び、恩人の言う通りにしただけの自分の愚かな過去を踏みにじるように、夢中で鞭を振るった。何故あの時、頭領の言葉をもっと吟味しなかったのかと。

 ガチッ!

 ふと、手応えが変わった。真槍しんそうは少し冷静になって、音声おんじょうの後ろ姿を良く見た。両肩と、両脇腹が歪に割けて抉れて凹み、白い骨が見えて、それらに皹や傷がついていた。

「そ、総督、私は、私は今、何回目でしょうか?」

「二十回は行っていないと思うが、それくらいであろう。」

 二十回!? たった二十回でこんなにもボロボロになってしまうのか!?

 真槍しんそうは恐ろしくなって尋ねた。ただでさえ黒ずんだ視界が、暗くなっていく。

「総督、この罪人は十字架に掛けるのに、このままでは肩が壊れてしまいます。」

「ならば、背中と、腰と、脚を打てばよかろう。」

 あっさりと返され、真槍しんそうは希望を失う。きちんと狙わなくては、音声おんじょうの苦しみが増す。なるべく万遍なく、同じ場所を傷つけぬように、しかしあと六十回も打つのだから、びっしりと打たなければならない。

「総督、私は数を八十まで数える自信がありません。私が何回打ったのか、声に出して数えて頂けませんでしょうか。」

「ふむ、そうだな。数を誤魔化すと本当に死にかねん。良かろう、数えてやるから、思う存分振るが良い。次の鞭打ちを、二十回目として数えはじめよう。」

 鞭を打つ事だけに集中しなければ、どうなるか分からなかった。真槍しんそうはじっくりと悍ましく痙攣して震える肉の筋を見つめ、慎重に、鞭を振り下ろした。


 三十回目。肩甲骨の間、脊髄が露出。肩への鞭打ちを断念。

 四十回目。吐血し前へ崩れる。水を掛け、目を覚まさせると、自ら落ちた石を咥える。

 五十回目。右背中部分の皮膚が大きくまくれ、肋骨が露出。背中への鞭打ちを断念。

 六十回目。石を離し再度失神。水を掛けても目を覚まさない。顔を三度叩き、目を覚まさせる。足腰に力が入らず、もう一人の罪人に前から抱えさせる。再度民衆から野次、投石。

 六十五回目。右脇腹、肋骨の下から臓器露出。一時刑を中断し、刑吏による応急手当。これ以上の腰への鞭打ちは、筋骨の損傷甚だしく、自立困難と判断。腰への鞭打ちを断念。

 六十八回目。四十回目時よりも激しく喀血及び左臀部より大量出血。一時刑を中止し、葡萄酒にて止血を試みる。血の勢いが弱まったので、刑を再開。

 七十回目。もう一人の罪人より恩赦の請願。三度民衆から投石、暴動の恐れありとして三名捕縛。総督、もう一人の罪人の恩赦請願を退け、刑を中断させた罰として鞭打ちの刑を三回追加命令。

 七十六回目。呼吸困難につき石を落とし、失神。刑を一時中断。刑吏による給水により意識を取戻し、刑を再開。

 八十回目。傷の無い頭部からの出血。刑を一時中断。刑吏による診察によると、血の汗につき、刑の継続に問題なし。刑を再開。

 八十三回目。槍兵と総督の数の数え方に差分有。これを八十二回目とされる。

 改め、八十三回目。鞭打ちの刑全過程終了。出血酷く、このままでいれば死亡する確率は非常に高かったが、罪人が総督を罵り、総督は激高した為、両者への十字架刑を決定。但し、刑吏の判断で一晩身体を休める事を決定する。また、もう一人の罪人も又投石の際の怪我の出血が酷かった為、身体を休める事を提言。総督これらを了承し、二人を牢へ戻す。


 神が遣わせし神と共に居られる子インマヌエル、我をゆるしたまえ。

 私は何をすればよいのか、分からないのです。

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