第二十四節 裏切り

 エルサレムに着くころはもう夕暮れが近く、しかし天眼てんがんは宿を取ろうなどとは考えていなかった。恐らく視える場所全てを探しているのだろう。預かった羊を失くした羊飼いよりも必死になって、天眼てんがん若頭わかがしを探しに行ってしまった。初めこそ真槍しんそうもついて行けたが、その内エルサレムの路地の近道なんかを使われている内に、とうとう見失ってしまった。絹のような夜が、徐々に東の空に重なって行く。まだ星が見えない事が、唯一の救いとも言えそうだった。

「あ、貴方は!?」

「?」

 下町から上町に登った所で、突然声をかけられた。振り向くと、剣を携えたローマ兵が走って来ていた。すわ殺されるか、と、槍を構えた時、その顔に敵意が無い事に気付く。

「ふくたいちょう! 生きておられたのですね!」

「???」

 何のことだろうと逡巡し、『副隊長』と思い至る。と言う事は、彼はまさか、三年前に襲われたあの隊の生き残りなのだろうか。

「もしかして、三年前に山賊に襲われた隊の…?」

「そうです! 何と言う事でしょう、お亡くなりだと皆諦めて、誰も探しにすら行かなかったと言うのに、これは素晴らしい女神の計らいです!」

 そう言えば、隊に何かと戦と美の女神を引き合いに出す鬱陶しい奴が居たことを思い出す。

「あ、ああ。そんなことも、あったなあ。」

「副隊長、今、どちらで何をしていらっしゃるので? 槍はとても立派ですが、とても身形は兵士には見えません。」

 うるせえな、と、思いつつ、ハッとして真槍しんそうは逆に兵士に掴みかかった。

「おい、この辺りに、めくらの男が来なかったか。めくらの癖にさっさかと歩く、小汚い身形なのに、堂々と歩く人だ。」

「それどころじゃないんですよ、今、私達は盗賊狩りの最中でしてね。ユダヤ人の祭司を殺した男が、どんなに余罪を洗って脅しても何も口を割らないんです。と思ったら、どうやら奴は何らかの手段で、奴の親分に助けを求めたらしいんです。それでほら、あと二日で安息日でしょう。だから連中、安息日までに見つけ出せって言って、今ローマ人まで駆り出されてるんです。全く、仕事熱心何だかどうだか。」

 恐らく、若頭わかがし天眼てんがんの眼の力を信じているのだろう。だが、もし本当に若頭わかがし天眼てんがんが見つけたなら―――。

 ………。見つけたなら?

 どうしたら良いのだろう。我を失って探している天眼てんがん若頭わかがしを見つけたなら、恐らく彼は若頭わかがしを救いだすために何でもするだろう。命をもなげうつかもしれない。だが真槍しんそうは、若頭わかがしにそこまでの価値を見いだせない。否、一団の中で、真槍しんそうが命を懸けても良いと思えているのは、天眼てんがん柳和やなぎわくらいだ。二人が自分や、互いの為以外で傷つけられたり、況してや死ぬなんて、真槍しんそうの矜持が許さない。

 なら、早い所若頭わかがしの事を諦めて貰う他ない。だからと言って、頭領を差し出すほど、恩知らずでもないつもりだ。出来れば―――そう、兵士達全てが、エルサレムからいなくなって、その内に二人を連れて脱出できればよいのだ。

「なあ、今日の山賊狩りには、どれくらいの人数が割かれてる?」

「兵士だけじゃなく、金で雇われた群衆もいます。十二軍団くらいはいるんじゃないですかね。」

「彼等を直ぐに集めろ。僕はその山賊の居場所に心当たりがある。」

「流石です、副隊長! 直ぐに笛や狼煙で集めます!」

 兵士が去って行くその後姿に、白い翼が視えた。


 エルサレムは山上にある都市で、周りを山に囲まれている。その山の内の一つが、モレの山だ。丁度一年前、頭領、天眼てんがん若頭わかがし柳和やなぎわで『何か』を見た、あの場所。あの場所は、イスラエルの三分の一は見渡せるだろう眺望のある山だ。『この見える範囲』と言ったところで、十二軍団程度じゃねぐらへの足跡一つ見つけられまい。それくらいに広い世界が広がっているのだ。全くの見当違いの場所であれば、皆嘘だと思うだろう。しかしねぐらは、実際モレの山から見える地域にあるのだから、嘘ではない。頭領の『声』があれば、全員逃げる事など造作もないし、逆に全員追い返すための『声』だってあるだろう。

 真槍しんそうはとにかく、混乱した天眼てんがんが、強盗として掴まっている若頭わかがしを弟だ何だ、恩赦がどうたらと言う場面にならないようにしなければ、と、それに必死だった。これで全員だ、と、言う男達の玉石混合具合を見ると、若頭わかがしのいる賊を根絶やしにしようとする、不気味なまでの執念を感じる。真槍しんそうは、祭司たちが元々『バルハヴァ』という山賊を探すために人手を掻き集めていたことを知らなかったので、若頭わかがしに何故そんな価値があるのか、と、見当違いの感想を持った。

 大軍を率いて、真槍しんそうは馬に乗る事が出来なかった。うっかり乗ると、あまりにも人が多すぎて、馬の後ろ足で蹴り飛ばしそうだという事と、烏合の衆は老若男女集まっているので、人の歩く速度以上を出すことが出来なかったのだ。

 空を覆う絹が麻になり、木綿になったころになって、漸く山の頂が見えてきた。

「ふぅ、ふぅ…。副隊長、この先は何もないですよ。」

「いいや、ハァ、ハァ…。あそこからが、一番分かりやすい。…ハァ、ハァ。」

 息切れをしながらも進む。自分の呼気で遠くかすんだ耳が、歌声を捕えた時、既に『そこ』に人が居る事は誤魔化せないくらいに、くっきりと、彼の姿が見えていた。

 彼は歌っていた。竪琴を奏で、夜の星の光を織るように、祈り、歌っていた。


 我等の父よパテル・ノステルその名がクィー天においてイン・カエリース在るようにエス

聖なるものとなれサンクティフィケトゥルその名はノーメン貴方のものトゥウム

来たれウェニアトその王国はレーグヌム貴方のものトゥウム

 為されよフィーアトその意志はウォルンタス貴方のものトゥア

そうで在れスィークト天においてイン・カエローそしてエト

地においてもイン・テッラ

 我等のパンはパーネム・ノストルム命を繋ぐに必要なだけスペルスプスタンティアーム与え給えダー我等にノービース日毎にホディエ

 そしてエト放ち給えディーミッテ我等をノービース贖罪の義務からデービタ・ノストラ

 同じようにスィークト我等もエト・ノース放とうディーミースィムス我等に贖罪すべき人をデービトーリブス・ノストリース

 またエト導き給うなネー・インドゥカース我等をノース誘惑の中へイン・テンプターティオーネム

 しかしてセド放ち給えリーベラー我等をノース悪からアー・マロー

 其は貴方のもの也やクィア・トゥウム・エスト御国レーグヌムそしてエト権能ポテスタースまたエト栄光はグローリア遥か未来までイン・サエクラ


 真にアーメン真にアーメンそうで在れスィークト

 然りアメーン然りアメーンそうで在るエスト


 不思議な事に、その歌は、ねぐらよりもイスラエルよりも、遥かに真槍しんそうの耳に優しい言葉で歌われていた。つまりは、ローマの言葉だ。あまりにも美しく優しく、簡潔なその歌は、真槍しんそうの率いていた荒くれの心を掴み、その短い歌は、五回繰り返されるまで、誰も何も言わなかった。もしその男が―――頭領が、真槍しんそうを呼ばなければ、六度、七度、と、聞いていたのかもしれない。否、きっとそうだろう。だが、彼はそうしなかったのだ。

「我が息子よ、そこにいないで、此方に来なさい。」

「息子?」

 ざわざわ、と、民衆が顔を見合わせる。真槍しんそうは慌てて、槍を足元に置き、頭領に駆け寄った。

「何してるんです、頭領。こんな所にいないで、天眼てんがん様と、ついでに若頭わかがしをエルサレムから連れ出してください。ローマ人達が若頭わかがしを捕まえて、処刑しようとしているんです。ぼくがこの辺り一帯を家探しさせて時間を稼いでいる内に、人手が薄いうちに。」

「ああ、そうか。そう言う風になったのか。」

「???」

 ふむ、ふむ、と、頭領は何か納得したように何度か頷いた。

「連中に俺を紹介しろ。」

「は…は!? 今納得なさったのでは!? 連中は今、山賊を探しているのです!」

「おう、そうだぞ。だから、紹介しろ。」

「何と紹介するのですか?」

「俺が山賊の頭領だ、若頭わかがしの父親だと」

「馬鹿ですかアンタは。」

 ピシャッと返し、真槍しんそうは顔を近づけてもう一度言った。

「連中は山賊狩りをしているんです。」

若頭わかがしを逃がす為だ。いいから紹介しろ。」

 頭領には何か奥の手があるのだろう。真槍しんそうはじっと頭領を見据え、頷くと、振り向き叫んだ。


「この男が、山賊の頭領だ!!!」


 その言葉が全ての勝利への布石だと言う事を確信し乍ら、真槍しんそうは彼等に頭領を引き渡した。

 夜が来る。闇が、暗闇が、暗黒が、けがれの谷から溢れてくる。真槍しんそうの目を覆い隠し、世界が黒い霧に包まれて、良く見えない。

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