第二十三節 殺人者

 過越祭の期間がまだ終わらない頃、若頭わかがしは頭領に許可を得て、再び首都エルサレムへ登った。勿論、蘭姫あららぎひめが居るかもしれないからだ。結婚の意思があったにもかかわらず、仇枕に終わってしまった彼女を、若頭わかがしはまだ探している。エルサレムは七日間の祭りに浮かれていて、毎年いる筈の神殿娼婦や卜占師の類が、妙に多く見えた。神殿や両替商、市場、宿屋も探したが、蘭姫あららぎひめらしき女性を見たという人はいない。偏に若頭わかがしの説明が客観的でなかったせいもあるだろう。こうなったら神頼みだ、と、若頭わかがしはもう一度神殿に戻った。

 目出度い祭りの日だというのに、神殿の祭司たちは殺気立っていて、妙に興奮していた。特に聞き耳を立てていた訳ではなかったのだが、その言葉は囁くように若頭わかがしの耳に入って来た。

「あやつ、どこの家に居るのだ! エルサレム中の宿を探して、あれだけの大所帯が隠れられる訳がない!」

「誰ぞ、金持ちの家に隠れているのやも。」

「それは不味い、実に不味い。エルサレムであれだけの大所帯を迎えられる家なんて、名士に違いない。そやつがあやつの言葉に惑わされていたら―――。」

「何、それならあの時の娘のような姦通の女を連れてこれば良い。今度は姦通でなく、めくらでもつんぼでも、中風でもない、とびきりの罪人を連れていけば、奴も何も出来なかろう。のだから。」

「そんな都合よく、片腕かたわがいるものか!」

「居るとも、らいの谷であれば、手足が腐り落ちる程神に呪われた罪人の一人や二人、居るだろう。らいの女は恥の女だ、子供が産めない。奴に、その女に子供を産ませろと言うのだ。奴もけがれて腐り落ちた胎に入るなんて悍ましい事は出来まい!」

「はっはっは!」

「はっはっは!」

 下品な笑いを生み出す首を、若頭わかがしの右掌が掴んだ。指一本分程、地面から浮かせて、凄む。

「おい、今お前達が話した『女』、今どこに居やがる。」

「ひゃあ、―――ぎゃっ!」

 騒ごうとしたもう一人の祭司に向かって、掴んだ男の首を放り投げて黙らせる。腰を抜かした老骨の一人の鼻先にナイフを突きつけ、ちょんと突く。

「どこに居る!! 答えろ、クソジジイ!!! ひいさんを返せ、あっしのだ!!!」

 握りしめたナイフの柄が軋む。花嫁を強奪し、辱める場を整えた奴らを、今ここで皆殺しにしないのは、彼女の行方が分からないからで―――。

 とんっ。

 その時、全く虚を突いて、背中を押された。前にばかり集中していたからだ。振り向く間もなく、大きく体勢を崩して、前に倒れ込む。手に握ったナイフは手放さず、両手で身体を支えた。右手の感触が気持ち悪い。後ろにも敵が居たのか、と、ナイフを握りなおして立ちあがった、その時、びちゃっと何か生暖かいものが手にかかった。なんだと顔を其方に向けると、胸に細く鋭い穴が開いた祭司が、仰向けに倒れていた。若頭わかがしが倒れた弾みで、ナイフが胸に突き刺さったのだ。だが若頭わかがしはそんなことは気にせず、死体を蹴るかのようにその首根を掴み、がくがくと揺さぶる。血が飛び散り、若頭わかがしの顔を凶悪に仕立て上げた。

「言え!! あっしの女を、ひいさんをどこへやった!!! 言えーっ!!」

 祭司は答えず、揺さぶられて眼球が動き、口から泡と涎と血を垂らして、骨が折れたかのようにぐったりとしている。若頭わかがしが頭に血を上らせている間に、どんどん人が集まってきて、遂にはローマ兵まで現れたが、若頭わかがしは既に死んだ祭司に恫喝を続ける。

「この泥棒! あっしのひいさんをどこやった!!」

 こちらを見向きもしない祭司にかまけている内に、ローマ兵の一人が若頭わかがしの肩を掴み、締め上げた。バタバタと脚を振り回すも、誰か大柄な男がいるらしく、空しく宙を蹴る。

「離せ! こちとらまだ話がついてねぇんでぇ!」

「あ、お前は!」

 部下に若頭わかがしを縛らせながら、隊長らしい男が、若頭わかがしに指を突き付けた。その指に噛みつこうと、若頭わかがしが唸る。

「お前、覚えているぞ、その白痴っぽい顔! 三年前、私達を襲ったあの山賊! 女神の前に漸くお縄だ、神妙にしろ!」

「だれが、ハクチでぇ、ローマのドテカボチャが! あっしがやんのはバクチだけよ、あっしを捕えるんだったら、この祭司共を人攫いで縛りやがれ!!」

「ユダヤ人がローマ人を殺したらどうなるか、思い知らせてやる! おい! すぐさま総督にご連絡申し上げろ! 処刑の準備だ!!」

 尚もぎぃぎぃと喚く若頭わかがしの首を、兵士達が締め上げ、打った。それでも暴れる若頭わかがしの胸を強く叩くと、その途端心の臓がびくんと飛び跳ね、若頭わかがしは意識を保っていられなくなった。


「!!!」

 丁度その時、ねぐら音声おんじょうの腕の中で眠っていた天眼てんがんが、びくんと目を覚ました。夢を見ていた訳ではない。視たから起きたのだ。

おと…?」

 その危機が、今、そこで起きている危機が、嘘偽りなく天眼てんがんの眼に映った確信がある。

音声おんじょう音声おんじょう起きて! おとが、私の弟が!」

 しかし音声おんじょうは、ぐうぐうと眠っていて全く起きそうにない。起きて起きて、と、天眼てんがんは身体を揺さぶるが、やはり起きそうにない。仕方がない、と、天眼てんがんは起き上がり、身支度もせず室を出た。こうなっては、一人だけでも行かなくては。

 しかしねぐらの入口で、真槍しんそうが槍の素振りをしていた。

「あれ、天眼てんがん様、もう御気分は良いので?」

真槍しんそう…。真槍しんそう真槍しんそう真槍しんそう!」

「は、はい!」

「馬を、馬に乗せてくれ。エルサレムに連れてって! 弟が、私の弟が殺されてしまう!!!」

「おとうと???」

 その後も天眼てんがんは何かべらべらとまくし立てていたが、真槍しんそうは抑々│若頭わかがしがエルサレムに行っている事すら知らなかったし、もっというなら、弟と言われて直ぐに若頭わかがしのことだと分かるのにも時間がかかった。真槍しんそう若頭わかがし蘭姫あららぎひめを未だ諦められていないことは知っている。だから時々いなくなるのは、塞ぎこんでいるからだと思っていたし、初めから二人は不釣り合いだと思っていただけに、真槍しんそうは胸が軽くなった。若頭わかがしが打ちのめされているのは気分が良いし、野垂れ死ぬなら野垂れ死ぬで一向に構わない。ただ、天眼てんがんがこんな風に取り乱し、恐慌状態になるのは本意ではない。天眼てんがんをなんとか落ち着かせて、咽び泣く彼を馬に乗せ、走った。あまり騒いでいられては、馬が驚いて使い物にならないからだ。

 エルサレムへと登る山道の入口まで来て、漸く真槍しんそうは誰にもねぐらから出る事を言っていなかったこと位気付いたが、頭領なら不思議な力で察するだろう、と、真槍しんそうは思い至り、そのまま山道を駆け登った。


 案の定、頭領は気づいていた。自分の腕の中から天眼てんがんが飛び出して行ったのは、すぐに分かった。同時に頭領は、あと三日足らずで『その日』だと言う事も、数えて分かっていた。

柳和やなぎわ柳和やなぎわ、おいで。』

 頭領は『声』で、柳和やなぎわを呼び出した。頭領の胸の内とは裏腹に、柳和やなぎわはドタバタと走ってくる。

「お呼びですか、お頭様とうさま。」

「こっちにおいで、柳和やなぎわ。」

 平静を装って呼び寄せると、柳和やなぎわはしとしとと近づいて、隣に跪き、頭領のもじゃもじゃの髭に頬擦りした。頭領は柳和やなぎわの細い肩を抱き、耳の下をくすぐった。

柳和やなぎわ、お前が俺の子に為って、どれくらい経つ?」

「ええ、次の安息日で、丁度五年です。」

「もうそんなになるのか。」

「ええ。お頭様とうさまの下で、ぼくが成人し直すまで、まだ七年あります。」

 その言葉を愛おしそうに噛みしめ、柳和やなぎわは頭領の唇の端を舐めた。

「お前は、俺の下に来て良かったか?」

「当然です。」

「後悔した事は? 山賊の子になった事に。」

「一度たりとも。寧ろお頭様とうさまやおじ様のように気高い義賊の家族にしてもらえて、光栄です。ぼくの数少ない、誇りです。」

「俺はお前を救えたか?」

 すると柳和やなぎわは、少し押し黙った。普通なら頭領が、嫌な事を聞いた、と、引くだろうに、頭領は優しく見つめながら答えを待っている。柳和やなぎわは観念して答えた。

「はい、ぼくはお頭様とうさまに救われたから生まれ変われたのです。巷では救われたくて努力して生まれ変わろうとする滑稽な豚がのさばっている中、学も家柄もないぼくが、誰よりも先にお頭様とうさまに救われたことは、何にも勝る喜びです。だから、貴方についていくし、柳和やなぎわは純潔を貴方に誓うのです。」

「家庭を持つ喜びを捨ててまで、俺に従うか。」

「ぼくの家庭は、お頭様とうさまを家長とするところです。貴方を置いて、誰の所に行きましょう。」

「それに、後悔はないんだな。」

「はい、何も。………お頭様とうさま、なにか、お悩みでもあるのですか?」

「悩み…。悩みねえ、そう見えるかい?」

「はい。この一年、天眼てんがん様も具合がずっと悪かったですし。」

「そうだな、多分、次の安息日が終わる頃には、それも終わるよ。」

「では、解決する日が近づいているんですね。良かった。」

 そう言って柳和やなぎわは微笑み、仔が母にするように、頭を擦り付けた。そして歌うように上目遣いをして、囁く。

「ねえ、ここで寝ても良い? ほんの少しだけ…。」

「いいとも、歌ってあげよう。竪琴が…その辺に。」

 身体を少し反らせて捩じると、使い込んだ竪琴が立てかけられているのに手が触れた。頭領はぽろんと初めの音を弾いて、唄いはじめた。


 ミズ クローム フロム ハレルー ヤ 

聖所にて神をほめたゝへよ 主をほめたゝえよ

 ハレルー エル ベコチョウ 

神をほめたゝへよ その能力みちからのあらはる穹蒼にて

 ハレルー ウー ベル キーアー オズ ジョウ 

神をほめたゝへよ その大能たいのうのはたらきのゆゑをもて 

 ハレルー フ フウィクロ ターヴ 

神をほめたゝへよ そのひいでておほいなることのゆゑによりて

 ハレルー ケ ロッグ ロウ 

神をほめたゝへよ ラッパのこゑを以て

 ハレルー フ フェ テーター ショ ファール 

神をほめたゝへよ さうこととを以て

 ハレルー フ ヴェル ネール ゼヒ ノール 

神をほめたゝへよ つゞみ蹈舞をどりとを以て

 ハレルー フ ヴェ トース マ ホール 

神をほめたゝへよ 絃簫いとたけを以て

 ハレルー フ ヴェニール ゼム ガーヴ 

神をほめたゝへよ のたかき鐃鉢ねうはちを以て

 ハレルー フ ベン ツェ レーシュ アーマ 

神をほめたゝへよ なりひゞく鐃鉢ねうはちを以て

 ハレルー フ ベン ツェ チーレ ゼム ハー 

主をほめたゝふべし 氣息いきのあるものすべて

 コール ハッレー シャ マーテ ハッレル ヤ 

なんぢら 主を ほめたゝへよ

 ハレルー ヤ 

ほめたゝへよ 主を


 それは、大王が遺した詩篇の、最後の歌だった。過越祭という大いなる歓びの期間に、その歌が歌われることは全く不自然ではない。柳和やなぎわは何も疑うことなく、頭領にしな垂れて、午睡に落ちた。

「│ ほめたゝへよ《ハレル―》、│主を《ヤ》。│ほめたゝへよ《ハレル―》、│主を《ヤ》。ほめたゝへよ《ハレル―》、主を《ヤ》………。」

 最後の節を三度繰り返し、頭領は少しの間黙想した。そしてゆっくりと柳和やなぎわを自分の床に寝かせ、自分の上着を上に掛ける。竪琴だけを手にして室を出ると、女達は丁度夜の煮炊きを始めていて気づきそうになかった。頭領はそれに少しホッとして、ねぐらをそっと出た。

 もう、ここに戻って来ることはない。


 さらば、さらば、我が娘、我が息子。お前達の父は、母は、もう戻らぬ。

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