第三章 勇者

第二十一節 過越祭(後編)

 蘭姫あららぎひめ若頭わかがしの許から奪い去られて、一年が経った。季節は再び廻り、過越祭が近づいている。

 あの後、若頭わかがしは何度も頭領に願い出ては、エルサレムへ上り、蘭姫あららぎひめを探しに行った。だが、蘭姫あららぎひめはおろか、あの日真槍しんそうと別れた筈の瑠璃妃るりきさきすら、見つけ出すことが出来なかった。二人はもう、エルサレムに居ないのかもしれない。もしかしたら、美しい蘭姫あららぎひめを提督や大祭司の妾として売ったのかもしれない。若頭わかがしは少ない頭で、考えられる最悪の状況を予想しては、悔しくて地団駄を踏んだ。だが、天眼てんがんも二人の居場所を見ることが出来なかったし、頭領も何も危機感を持っていないようだった。

 頭領の関心は、ねぐらに住む者たちの学を高める事に傾いていた。もしかしたら、若頭わかがしの気を反らそうとしたのかもしれない。だが相変わらず若頭わかがしは、『ろく』と『むぅ』の違いが分からないままであったし、『とぉ』から先を数える事が出来ないままだった。

 その一方で天眼てんがんは、この一年で随分とやつれていった。もしや、彼には蘭姫あららぎひめ瑠璃妃るりきさきの現状が見えているから、その心労ではないか、と、何度も若頭わかがしは詰め寄ったが、天眼てんがんはいつもそれを否定し、自分が嘆いている理由を語らず、それを追求しようものなら、はらはらと泣き出してしまうので、誰も天眼てんがんの心の内を知る事は出来なかった。ただ唯一、天眼てんがんがそのようになったきっかけを作った頭領を除いては。天眼てんがんは宴会などで雑魚寝をしていない時、頭領や多くの成員が自分の部屋として与えられている室に戻って眠っている時、頭領の寝所を訪ねているようだった。一晩中、すすり泣くような声と、優しく愛おしむような竪琴の音色が響くこともあった。天眼てんがんは決して、自分の境遇を嘆く事はない、気丈な人だと皆は思っていた為、天眼てんがんが何か病気をしているのではないか、と、益々心配になるのであった。

天眼てんがん、今年の過越祭の食事は、このねぐらでやろうか。」

 過越祭の七日前だった。もう夕食を終え、女達が片づけをしている。男連中は、其々博打を始めたり、室に帰る準備をしたりしていた。

「え?」

「考えてみりゃ、去年も一昨年も、エルサレムに行ったらごたごたしただろ。過越祭は別に、どこでだって出来るんだ。それに真槍しんそう、お前、結局ここにきて三年経つけど、過越祭のご馳走は終ぞ食ってないだろ。」

 突然話を振られて、真槍しんそうは慌てて頷く。

「そうですよ、天眼てんがん様。このねぐらに居れば安心です。態々無法地帯に行って、大切なお祭りを無碍にされることはないですよ。」

「ああ…。そうだね、そう、その通りだ。」

 天眼てんがんは気を使われていることを察知したのか、薄らと微笑んだ。

「頭領、本来のご馳走というのは、どんなものなんですか?」

「そりゃあ、夜のお楽しみだな。取りあえず、祭りまでの間に、野菜と果物と、蜜を採って来よう。この大切な祭りに、巡礼者から奪うなよ。鴨居の血は羊だけで十分だ。」

 すると、ほぼ全員が笑った。真槍しんそうは解らなかったが、洒落っ気のある冗句だったらしい。


 翌日、真槍しんそう天眼てんがん若頭わかがしと一緒に、野に出て蜜を集める係になった。頭領曰く、蜜は地面の下に、蜂が巣を作っている所にあるのだが、どの巣に蜂が少なく、蜜が多いのか、見分けるのは天眼てんがんの眼しかないとのことだった。通年、天眼てんがん若頭わかがしが行ってきたのだというが、今回真槍しんそうは初めてだという事で、先達として若頭わかがしが着いて来る事になった。屈辱的だ。

「蜂の巣に手を突っ込んで、刺されないんですか?」

「刺されないように、さっと採るんだよ。」

 その時も、天眼てんがんはどこか薄らと笑うだけで、本当に心の底から喜んでいない事は分かった物の、それを指摘した所で真槍しんそうがどうにかできる自信はなかった。どうにかしたいとは思ったのだけれども、それが出来ないのであれば、頭領の計らいに水を差す事もない。

「煙でいぶして、ぱっと採って、さっと採ったら、ぎゅーっとして、布でこすんだよ。」

おと、それじゃあ分からないよ。実際にやってみせなくちゃ。」

「それもそうだ。アハハ。」

 若頭わかがし天眼てんがんの憂いは感じ取っているらしく、なんとか笑わせようと必死になっていた。だが、天眼てんがんはやはり上の空だった。

 蜂が嫌うのは薄荷はっかの煙らしい。若頭わかがしは倉庫の傍の雑草をごっそりと抜いてきた。何だそれはと言うと、それが薄荷はっかなのだという。

「でもそれ、雑草だろ。道端のどこでも生えてるじゃないか。嘘言うなよ。」

「? 薄荷はっかはどこにでも生えてるぜ。どこでも増えるんだ。でも探しに行くのが面倒くさいから、毎年余った薄荷はっかを倉庫の傍に置いとくんだ。するとそっから根っこが生えたり、千切った所がいっぽんからにほんに分かれたりして、どんどん増えるんだ。」

「なんだそりゃ。そんな生き意地汚いのが、人間以外にいるもんか!」

 すると、天眼てんがんが笑った。驚いて二人が天眼てんがんを凝視すると、天眼てんがんは涙を浮かべて、大いに笑っていた。見られていることに気付いているのか、天眼てんがんは言った。

「そうだね、生き意地汚いのは何も悪いことじゃない。薄荷はっかですら、そうやって生きているんだ。私達が多少汚れ役をやってでも、生き延びたいと思うのは、全く不思議じゃない。…うん、不思議じゃない。それは、神から頂いた命をけがすことじゃない。うん、死にたくないというのは、良い事だね。」

 天眼てんがんの心は少し軽くなったようだが、真槍しんそう若頭わかがしには、その言葉の意味が分からなかった。

 真槍しんそうが籠を背負った天眼てんがんの手を引き、若頭わかがしは器用にその後ろを歩きながら、薄荷はっかの束を何個か作っていた。恐らく、一度に燃やす薄荷はっかの量を調整しているのだろう。指で輪を作ったり色工夫しているようだが、数字が数えられれば、少なくともその三倍の速さで全ての薄荷はっかを束ね終えられると思う。何せ、若頭わかがしは片手に、小さな松明まで抱えているのだ。効率の悪いことこの上ない。

真槍しんそう、この近くの地面の下に巣がある。どこかに穴はないかい、そこから蜂が出入りしてる筈だ。」

 天眼てんがんが立ちどまったのは、荒野の隆起が激しい場所で、度重なる旱魃の所為なのか、所々段差が出来ていた。蜂に目を刺されないように気を付けながら、地面の段差を除く。いくつかの割れ目を見つけることが出来たが、虫が出入りしているような痕跡はない。いてもせいぜいが百足だ。蜂の巣の中に百足などいないだろう。

「アニィ、アニィ。こっちじゃねえかな。」

 そうこうしている内に、若頭わかがしが見つけてしまった。真槍しんそうはいの一番に見つけて、天眼てんがんの従者の有能さを教えて差し上げようと思っていただけに、心の中で悪態を吐き、がっくりと項垂れる。天眼てんがんがそちらに行こうと手を伸ばすので、真槍しんそうはすぐさまその手を取り、ゆっくりと若頭わかがしが示す方の、今にも折れて倒れそうな枯木の所へ連れて行く。

「おい若頭わかがし天眼てんがん様は地面の下に巣があるって仰ったんだぞ。」

「木の中を通って、地面の下まで巣が広がってるんじゃないか?」

 ぶるん、と、真槍しんそうは震えあがった。

「どんだけでっかいんだよ! そんな化物、ぼくはぜーったいヤダぞ! ドでかい蜂に刺されて、全身膨れ上がって爆発する!」

「たっぷり採れまさぁ。こりゃ押しつぶすのが楽しみだ!」

 若頭わかがしはちっとも臆さず、薄荷はっかの束を三つ取り、油の染み込んだ埃を詰め込むと、松明の火を移した。じんわりと広がって行く火種を、枯木の隙間にぼんぼんと三つ突っ込む。つんとした薄荷はっかの匂いと同時に、蜜の甘いもこもことした匂い、そして生き物の死ぬ匂いがしたかと思うと、ぶわっと凄い勢いで蜂が飛び出した。

「きゃー!」

「静かに、真槍しんそう。騒ぐと蜂が来るよ。」

 天眼てんがんはその場で膝を折り、身を低くした。真槍しんそうもそれに倣い、膝を折り、卵の中にいるかのように首を折り曲げて峰を両手で覆う。天眼てんがんは蜂の羽ばたきの音で、かなりの量の蜂が飛び出したことを察知し、ゆっくりと頭を覆って小さくなった。その間に若頭わかがしは、後ろから木を蹴り倒し、その中に文字通り山のように大きくなっている蜂の巣を両手で抱え上げた。めり、と、音がして、蜂の巣が折れる。

「おい真槍しんそう! 籠持ってくれ、こいつはでかいぞ! まだ下にあらあ!」

「行けるかバカ! 凄い蜂だぞ!」

「でも真槍しんそう、投げたら蜂がもっと凶暴になるよ。」

「う…っ。刺されますよ、怖いです。」

「大丈夫大丈夫。神がこの蜂の巣を採っていいと、私に示して下さったんだから。そっとお行き。」

 ここで反論すれば、自分の天眼てんがんへの忠誠心を自ら貶めるようなものだ。真槍しんそう天眼てんがんが見えない事を良い事に、がっくりと頭を垂れて、よいしょと籠を貰い、及び腰で蜂の巣を受けとりに向かう。近くで見ると、若頭わかがしの手は既に溢れ出す蜂蜜で黄色っぽく見える。藁を敷き詰めた籠に蜂の巣を入れると、ずしりと粘々した重みが加わり、落としそうになった。もし落としたら、蜂に刺される。もうちびりそうだったが、自分の腹に力を入れて絶えた。若頭わかがしは対照的に、ウキウキと折れた木の中に上半身を突っ込み、木の下まであるらしい蜂の巣を、文字通り掬い上げた。

おとおと! もういいよ、それ以上とったら、蜂が全滅してしまう。」

「あいさー。へへ、大量だぜ、アニィ!」

「わっ! お前まだ蜂が集ってるぞ、天眼てんがん様に近づくな! 刺されるだろ!」

「新鮮なうちに、絞りに行かなくちゃ! おい真槍しんそう、お前片方持てよ、落とす落とす!」

「やだ触りたくない! 刺される!」

「…あはは、あははははっ!」

 やいのやいのと言い争っていると、またしても天眼てんがんが笑った。ずっと塞ぎこんでいた天眼てんがんが笑うのは本当に久しぶりで、そんなに喜んでくれるのなら、多少刺されてもいいか、と、真槍しんそうは半分涙目になりながら、籠をしっかりと握りしめた。


 ねぐらに戻ると、石臼を持った若い男衆が蜂の巣を待っていた。真槍しんそうは彼等に籠を渡すと、大急ぎで外へ飛び出し、水浴びをする川に飛び込んだ。潜れる程の深さなど無いので、ごろごろと水面の上を転がったが、蜂はなかなか取れない。その様子を若頭わかがしは、身体に着いた蜂の蜜嚢を食い千切りながら見ていた。ああはなれないな、と、真槍しんそうは野蛮人の図太さに感心しながら、未だ触角や足の感触の残る上半身を引っ掻き回した。

 気が済んでねぐらに戻ると、肉の焼ける匂いや、蜂蜜の匂いが充満していて、鼻が曲がりそうだった。決して臭い訳ではないが、密度が濃い。もう大分食事は出来上がっているようで、頭領は天眼てんがんを座らせ、何か忙しなく子供達に語りかけていた。

「その時、ユダヤ人達の前に、紅海こうかいという海が現れた。後悔こうかい先に立たずというのはウソだったんだ。」

「アハハ!」

 祭りの起源に関する話らしい。子供達がらんらんと聞いているその傍らで、天眼てんがんは母か何かのような表情で、少しずれた方向に顔を向けていた。若頭わかがしはとんとんと足場を飛び跳ね、天眼てんがんの隣に座る。それに気付いた天眼てんがんが、無言でお帰りと言って、頭を撫でた。何だか悔しくて、真槍しんそうは反対側に座る。

「割れた海は元通りになって………。」

「頭領、全て揃った。祭りを始めよう。」

「おお、これで全部か。」

「ああ、そうだ。男子、女子、女達、男達、老婆、老爺、やもめ、赤ん坊、純血のユダヤ人に、異郷の者、その合いの子、けがれを持って生まれた者。全て十二人ずつ、君の子供達が揃った。」

 頭領は山の裾野のように広がるねぐらの面々を見下ろし、満足そうに頷いた。一番欠けの少ない杯を取ると、全員がそれに倣う。真槍しんそうも訳が分からないなりに、それに倣った。ただ、やはり柳和やなぎわは自分では杯を取らず、隣にいる信奉者のような男に杯を掲げさせていた。

「さて、今さっきチビ共には言ったが、聞かなかった者もいるんで、ちょっと聞いていてくれ。」

 ピュイッと若頭わかがしが指笛を噴く。頭領は笑って、朗々と唄うように言った。

「『わがちから、わが歌は主なり。彼はわが救拯すくひとなりたまへり。彼はわが神なり我これを頌美たゝへん。彼はわが父の神なり。我これをあがめん。

主は軍人いくさびとにして其名そのなは主なり。

彼エジプト王の戰車いくさぐるまと、その軍勢を海になげすてたまふ。エジプト王のすぐれたる軍長かしら等は、紅海にしづめり。

大水おほみづ、かれらをおほひて、彼等石のごとくに淵の底に下る。

主よ、汝の右の手は力をもて、榮光さかえをあらはす。主よ、汝の右の手は敵をくだく。』。

 二千年前、神はエジプトに十のわざわいを用いて、ユダヤ人を解放するようにエジプト王に迫った。十個目のわざわいは、その家の初子、つまり跡継ぎの子供を全て打ち滅ぼすというものだったが、鴨井に血を塗ったユダヤ人の家を、わざわいは過ぎ越された。過越祭はこれを伝える祭りだ。何れお前達が神の計らいに生きる時、子供達にこの事を伝えるんだぞ。―――今は憂世だが、来年こそは我等が心の故郷エルサレムで。いつかお前達が、父と母と同じ食卓に着けるように―――乾杯!」

「かんぱーい!」

 銘々が杯を傾け、葡萄酒を飲み干した。子供達はさっそく、真槍しんそうたちが取って来た蜂蜜で作ったらしい、謎のどろどろした料理を取り合っている。改めて机を見ると、いつもよりも硬そうで平たいパンの他、ゆで卵や、春の野菜のスープ、炒めた苦菜、そして恐らく二頭分は屠った、大盛りの羊の焼き肉。確かに今日が特別な日であることを物語っている。

「今日は明日の分は残してはいけない日だから、焼肉は特に全部、食べて下さいね。」

 女の一人が言ったので、真槍しんそうは遠慮なく、羊の焼き肉を鷲掴みした。

 その日の晩餐は、真槍しんそうが生まれてから最も豪華で、最も愉快で、最も遅くまで続いた、実に実りのある夕食だった。


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