第二十節 変容
あれから、
合わせて考えると、
「
日の出より少し前、女達が起き出している頃、珍しくきちんと服を着た頭領が、雑魚寝をしていた三人を起こした。
「ぼくが呼んで来るよ、
「じゃあ、食料はあっしが。
「
「
厩には、全部で六頭の馬と、六頭の牝羊と、三頭の牡羊と、一匹のろばがいる。この前の過越祭で、子羊は皆エルサレムに持ってったので、厩は少々広い。普段ここの世話をするのは、
「おや、
今日の当番らしい疣だらけの老爺が、藁を積みながら言った。
「頭領と出かける。すぐに帰ってくると思うけど、北の端まで行くんだってさ。だから今一番元気な馬をくれ。」
フムフム、と、老爺は何かぼそぼそ馬に話しかけている。馬がふんすふんすと鼻を鳴らすと、老爺は満足そうにうなずいて、次の馬にも同じことをした。はて、ボケてるんじゃなかろうか。
「今日は、この馬が良いだろう。尻尾もつんとしてて、食いっぱりもいい。」
「アンタ達はいつもそれをやるな。馬と会話でも出来るの。」
「まあね、言葉は分からないけど。」
こういう年寄には成りたくないな、と、
そんなことを考えながら入口に戻ると、既に全員待っていた。
「えっと、だから、みっかぶんのにしょくなんでさ。それが、ごにんぶんでさ。」
「だから、幾つだって聞いてんだよ。しっかり計算してみろ。」
「えっと、ひぃ、ふう、みぃ、ひぃ、ふぅ、みぃ、これで、むっつでさ。むっつがごこだから…。………頭領、とぉの次はいくつでさ?」
またやってるのか、と、
「頭領、馬連れてきました。どこへ行くんですか?」
「モレの山だ。」
「エズレル平野の方ですか?」
「おう、知ってたか、
「あの辺り、町に徴収に行くのに良く通りましたからね。」
「あっちの方には、
急ぎの用でもあるのだろうか。
「何、じーっと見てるんだよ、
「あ、待って!
空の群青色が薄くなっている。
山とは名ばかりで、そこは丘陵に近い。北をタボル山、南をギルボア山に挟まれた場所で、その間からはナザレの町を始めとする様々な町が見下ろせる。小さな丘だが遮るものはなく、東を見ればガリラヤ湖、西を見れば地中海が臨める。地中海の先に、
あの強盗事件から、一年以上経ったが、自分を探しに来るローマ人はいない。百人隊長が殺されたのだから、それなりに大事に成っている筈なのだが、所詮その程度の扱いなのかと思うと、こちらの山賊に紛れている方が良かったような気さえする。少なくとも自分はこちらに来てからまだ数えるほどしか人を殺していない。ローマの軍人として生活しているより、
「んー…。」
丘の先まで来た時、頭領は困ったように唸った。何か目的があったのだろうが、目当てのものが無いのだろうか。
「
「何を探しやしょ?」
「何か。」
「何か!?」
あまりにもあやふやな指示で戸惑いながらも、
「頭領、何を探しに来たんだ?」
「いや、探しに来たっつーか…。会いに来たっつーか…。呼ばれたっつーか…。」
「けど頭領、辺りの路見えやすけど、人っ子一人いねえですぜ。動物だっていねえや。」
「うーん、俺もそう思う。…いや、でも、多分、此処で合ってる。…多分。」
頭領にしては随分と歯切れが悪い。
「行き違いになったんじゃないですかね? それか、モレの山は広いから、もしかしたらタボル山かギルボア山の方に行っちゃったのかも。」
「うーん…どうかなあ、まあ太陽が出切って何もなかったら、―――。」
どうするんだろう、と、
「頭領? どうしたんですか?」
「―――、―――、―――。」
「―――、―――、―――。」
「? あーあー、あー、あー…。」
自分の声は聞こえる。ただ、世界が無音だ。世界は愈々朝を迎えるというのに、突然起こった耳の不調に、
その時だった。
突然、世界が真白になった。すわ、今度は目もおかしくなったかと思ったが、そうではない。くっきりと、目の前は真黒になっている。何か途轍もなく強い光が、この近くで光っているのだ。
「うひゃあ、なんだなんだ! 眩しい!」
「
「お
各々怯える三人の声が漸く聞こえて、
頭領が何か言っている。ただ、その姿は光が強すぎて、上半身が無くなっているかのようだった。頭領が着込んだ着物でさえ、光っている。
「
「
その言葉に応えたのは、鳩の方だった。頭領は寧ろ、頭上の鳩を見ているような気がする。
鳩は歌った。
うつろなるものよ 誰がお前に与えたのか
うつろなるものよ 何故お前は奪われたと嘆くのか 何故お前は気づかないのか
その魂が出来た時 わたしはお前に福音を告げた
その耳が出来た時 わたしはお前に賛美の歌を聞かせた
その瞳が出来た時 わたしはお前にわたしがお前の為に作った世界を見せた
その指が出来た時 わたしはお前にわたしを賛美する術を与えた
その脚が出来た時 わたしは友垣と交わる為の力を与えた
うつろなるものよ
何故嘆くのか 何故わたしがお前に 脚を 指を 瞳を 耳を 魂を 与えたと思うのか
うつろなるものよ
お前の空ろはわたしの愛を満たすためのものだと気づかないのか
お前の空ろはわたしの業を表すためのものだと気づかないのか
うつろなるものよ
お前は幸いなる者 伽藍洞の心に我が声を聞く者よ
その脚が 指が 瞳が 耳が 魂が千切れ飛ぼうとも わたしの声はお前に届く
うつろなるものは幸い その中にわたしの愛が入るのだから
鳩は歌い終えると、ぱたぱたと羽ばたき、天へ帰った。空ではなく、天に帰ったのだ。光は徐々に薄れ、やがて正常な晴れた朝空に戻った。
「じゃーなー。」
頭領が背後の太陽に向かって、呑気に手を振っている。あの鳩の方だとすると、とんちんかんな方向だ。
「
「ん? んー………。先輩?」
「え、まさか、君の生家の? ご老人がこんなとこまで来てたのかい。」
「んー、そうじゃなくて、…ええと、あー…。うん、取りあえず、うん、目的は果たしたから、もう帰るぞ。」
「エーッ!」
何か面白い事があると思っていたらしい
「でもまあ、今日の事は、俺達だけの秘密な! いずれ話せる時が来たら、俺から言うから。今は皆には言っちゃダメだぞ。」
「むぅぅ…。なら、良いモノが見れたことにします。」
「よしよし、良い子だ。さ、馬を出してやってくれ。」
「どうしたんでぇ、
「ああ…。なんで頭領ばかり…。ぼくだって、そこそこ出来た人間だと思うんだけどな。」
オマエより、と、言いそうになって、
「ぼくだって、
「頭領の力は魔術なんかじゃねえぜ、勿論アニィもだ!」
「違う違う、そうじゃなくて、インネン付けられたら逃げ場がないじゃないか。この国は面倒くさいぞ、素晴らしい事があっても、自分たちの神っぽさが無かったら、袋叩きだ。よわっちい民族のくせに。」
「アハァ、そりゃ同感だな。ご先祖サマが一人、偉大であれば、自分は他の家系よりもエラいと思ってら。母ちゃんだって、大事な親なのにな。」
珍しく
ただ、
これらの一連の出来事は、
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