第二十節 変容

 天眼てんがんが戻り、過越祭も終わり、ねぐらには穏やかな時間が戻りつつあった。時々山道でレビ族を襲ったりローマの商隊を襲ったりはしているが、その場には頭領はおらず、専ら天眼てんがんの眼と、頭領の声に従った若頭わかがしが前線に出ていた。当初天眼てんがんは、若頭わかがしの兄と言うことを加味してもこの案に反対するかと思いきや、意外や素直に了承した。若頭わかがしは、アニィが認めてくれたと喜んでいたが、真槍しんそうはその面持が複雑そうなのを見て、天眼てんがんには何か大きな隠し事があるという事に気付いた。

 あれから、蘭姫あららぎひめ瑠璃妃るりきさきの姿はない。頭領は、蘭姫あららぎひめ瑠璃妃るりきさきも確かに仲間で家族だが、だからと言ってねぐらにいるだけが家族ではない、エルサレムや他の町に住めるのなら、その方がいい、と一団を諭していた。ただ、その度に若頭わかがしが席を外すので、これまたやはり何かがあるのだろうと、真槍しんそうは考えていた。

 合わせて考えると、天眼てんがんが戻って来た日、若頭わかがしは何か、蘭姫あららぎひめに無体なことをして、逃げ出したのを、自分と分かれた瑠璃妃るりきさきが保護したのではないだろうか。彼女たちは母子なのだから、おかしい事は一つもない。第一、遠くを見通せる天眼てんがんが、頭領に何も進言していないのだ。彼女達に危機は迫っていないのだろう。

真槍しんそう柳和やなぎわ若頭わかがし天眼てんがんが居ないみたいだから、ちょっと呼んで来い。ちょっと行く所がある。北の端の辺りまで行くから、食料も。」

 日の出より少し前、女達が起き出している頃、珍しくきちんと服を着た頭領が、雑魚寝をしていた三人を起こした。

「ぼくが呼んで来るよ、真槍しんそう若頭わかがし。先にお頭様とうさまと行ってて。」

「じゃあ、食料はあっしが。真槍しんそう、馬を出しといてくれ、あっしとおめぇの分。」

天眼てんがん様は?」

柳和やなぎわさんの馬に乗るさ。―――ばっちゃん! おいばっちゃん! パン余ってねえか、種の入って無い方!」

 柳和やなぎわが粛々と行ったのに、若頭わかがしは大声で食料を掻き集めはじめた。ああ、嫌だ嫌だ。真槍しんそうは溜息をついて、厩に行った。

 厩には、全部で六頭の馬と、六頭の牝羊と、三頭の牡羊と、一匹のろばがいる。この前の過越祭で、子羊は皆エルサレムに持ってったので、厩は少々広い。普段ここの世話をするのは、ねぐらの老爺達の仕事だった。

「おや、真槍しんそう。どうしたのかね。遠駆けかい。」

 今日の当番らしい疣だらけの老爺が、藁を積みながら言った。

「頭領と出かける。すぐに帰ってくると思うけど、北の端まで行くんだってさ。だから今一番元気な馬をくれ。」

 フムフム、と、老爺は何かぼそぼそ馬に話しかけている。馬がふんすふんすと鼻を鳴らすと、老爺は満足そうにうなずいて、次の馬にも同じことをした。はて、ボケてるんじゃなかろうか。

「今日は、この馬が良いだろう。尻尾もつんとしてて、食いっぱりもいい。」

「アンタ達はいつもそれをやるな。馬と会話でも出来るの。」

「まあね、言葉は分からないけど。」

 こういう年寄には成りたくないな、と、真槍しんそうは余計な事を話したと思い、さっさと馬を二頭引いて入口まで戻ることにした。馬の調子が良いのは本当の様で、いつもよりもかぽかぽと蹄が良く鳴っている。気分も良いようだ。年の功だろうか。いや、でも、動物に話しかけるような老人には、やっぱりなりたくない。

 そんなことを考えながら入口に戻ると、既に全員待っていた。若頭わかがしが両手の指を折ったり伸ばしたりして、頭を捻っている。

「えっと、だから、みっかぶんのにしょくなんでさ。それが、ごにんぶんでさ。」

「だから、幾つだって聞いてんだよ。しっかり計算してみろ。」

「えっと、ひぃ、ふう、みぃ、ひぃ、ふぅ、みぃ、これで、むっつでさ。むっつがごこだから…。………頭領、とぉの次はいくつでさ?」

 またやってるのか、と、真槍しんそうは頭を抱えた。こんな事に付き合っていたら、それこそ世界が終わってしまう。

「頭領、馬連れてきました。どこへ行くんですか?」

「モレの山だ。」

「エズレル平野の方ですか?」

「おう、知ってたか、真槍しんそう。」

「あの辺り、町に徴収に行くのに良く通りましたからね。」

「あっちの方には、天眼てんがんの産まれたナザレ村があるんだ。今日はちょっとその少し手前までだけどな。」

 急ぎの用でもあるのだろうか。真槍しんそうとしては馬があるのは歩かなくて済むから楽なのだから、特に言及する事もないだろう。自分の半周り程大きな天眼てんがんを自分の馬に昇らせ、柳和やなぎわは相も変わらず脚だけで馬を御している。一体どんな訓練を積めば、こんなことが出来るようになるのだろう。彼はスパルタ生まれなのだろうか。

「何、じーっと見てるんだよ、真槍しんそう。置いてくぞ!」

「あ、待って! 柳和やなぎわさん! 柳和やなぎわさーん!」

 空の群青色が薄くなっている。


 山とは名ばかりで、そこは丘陵に近い。北をタボル山、南をギルボア山に挟まれた場所で、その間からはナザレの町を始めとする様々な町が見下ろせる。小さな丘だが遮るものはなく、東を見ればガリラヤ湖、西を見れば地中海が臨める。地中海の先に、真槍しんそうの故郷であるローマがある。

 あの強盗事件から、一年以上経ったが、自分を探しに来るローマ人はいない。百人隊長が殺されたのだから、それなりに大事に成っている筈なのだが、所詮その程度の扱いなのかと思うと、こちらの山賊に紛れている方が良かったような気さえする。少なくとも自分はこちらに来てからまだ数えるほどしか人を殺していない。ローマの軍人として生活しているより、今天眼てんがんに仕えている方が、ずっと活き活きと生きているような気がする。

「んー…。」

 丘の先まで来た時、頭領は困ったように唸った。何か目的があったのだろうが、目当てのものが無いのだろうか。

真槍しんそう若頭わかがし、ちょっと馬を降りて、探しモンしてくンねえか。」

「何を探しやしょ?」

「何か。」

「何か!?」

 あまりにもあやふやな指示で戸惑いながらも、若頭わかがしは取りあえず馬を降りて、石や岩を一つ一つ退かして『何か』とやらを探す。天眼てんがんも具体的にどんなものかと言われないと視ようがないらしく、困ったようにきょろきょろと辺りを見回している。何を見るつもりなのだろう。柳和やなぎわも馬をひょいと降りて、辺りを探す。ただ、若頭わかがしが雑草を抜いて探しているのに比べると、柳和やなぎわは大分粗雑で、小さな小石をぽつんぽつんと蹴飛ばすだけだ。

「頭領、何を探しに来たんだ?」

「いや、探しに来たっつーか…。会いに来たっつーか…。呼ばれたっつーか…。」

「けど頭領、辺りの路見えやすけど、人っ子一人いねえですぜ。動物だっていねえや。」

「うーん、俺もそう思う。…いや、でも、多分、此処で合ってる。…多分。」

 頭領にしては随分と歯切れが悪い。真槍しんそうは馬にもたれ掛かり、言った。

「行き違いになったんじゃないですかね? それか、モレの山は広いから、もしかしたらタボル山かギルボア山の方に行っちゃったのかも。」

「うーん…どうかなあ、まあ太陽が出切って何もなかったら、―――。」

 どうするんだろう、と、真槍しんそうは頭領を見ていたが、突然頭領はぱくぱくと口を動かして何も言わなくなった。

「頭領? どうしたんですか?」

「―――、―――、―――。」

「―――、―――、―――。」

 天眼てんがん柳和やなぎわ若頭わかがしは、何も気づいていないらしい。というか、口が動いているのに、声が聞こえないのだ。頭がじりじりと痛む。

「? あーあー、あー、あー…。」

 自分の声は聞こえる。ただ、世界が無音だ。世界は愈々朝を迎えるというのに、突然起こった耳の不調に、真槍しんそうは不安になった。馬にすがりつき、大きな声で叫べば何か聞こえる気がして、何度か叫ぶ。頭領が心配そうに手を伸ばして来たので、その手を払い、巨大な馬の上にいる天眼てんがんの腹に抱きついた。

 その時だった。

 突然、世界が真白になった。すわ、今度は目もおかしくなったかと思ったが、そうではない。くっきりと、目の前は真黒になっている。何か途轍もなく強い光が、この近くで光っているのだ。

「うひゃあ、なんだなんだ! 眩しい!」

おとおと! どこにいる、こっちにおいで!」

「お頭様とうさま怖い!」

 各々怯える三人の声が漸く聞こえて、真槍しんそうはホッとして顔を上げる。目を庇いながら辺りを探ると、淵に立っている頭領の頭に、眩いばかりに、いっそ初めからそこには何も無いかのように白い鳩が、胸に止まっていた。あまりにも頭領の頭がもじゃもじゃなので、巣と間違えたのだろうか。とてもそんな粗野な鳩には見えない。きっとこの鳩は、ローマの愛と美の女神の戦車を牽くと言われる鳩達の、長だろう。

 頭領が何か言っている。ただ、その姿は光が強すぎて、上半身が無くなっているかのようだった。頭領が着込んだ着物でさえ、光っている。

音声おんじょう、何か言っているのか? この状況はどういう状況だ?」

 天眼てんがんはこの途轍もない光を感じ取れているのかいないのか、肩を竦めて恐る恐る尋ねた。

音声おんじょう?」

 その言葉に応えたのは、鳩の方だった。頭領は寧ろ、頭上の鳩を見ているような気がする。

 鳩は歌った。


うつろなるものよ 誰がお前に与えたのか

うつろなるものよ 何故お前は奪われたと嘆くのか 何故お前は気づかないのか

 その魂が出来た時 わたしはお前に福音を告げた

 その耳が出来た時 わたしはお前に賛美の歌を聞かせた

 その瞳が出来た時 わたしはお前にわたしがお前の為に作った世界を見せた

 その指が出来た時 わたしはお前にわたしを賛美する術を与えた

 その脚が出来た時 わたしは友垣と交わる為の力を与えた

  うつろなるものよ

何故嘆くのか 何故わたしがお前に 脚を 指を 瞳を 耳を 魂を 与えたと思うのか

 うつろなるものよ

お前の空ろはわたしの愛を満たすためのものだと気づかないのか

お前の空ろはわたしの業を表すためのものだと気づかないのか

 うつろなるものよ

お前は幸いなる者 伽藍洞の心に我が声を聞く者よ

その脚が 指が 瞳が 耳が 魂が千切れ飛ぼうとも わたしの声はお前に届く


 うつろなるものは幸い その中にわたしの愛が入るのだから


 鳩は歌い終えると、ぱたぱたと羽ばたき、天へ帰った。空ではなく、天に帰ったのだ。光は徐々に薄れ、やがて正常な晴れた朝空に戻った。

「じゃーなー。」

 頭領が背後の太陽に向かって、呑気に手を振っている。あの鳩の方だとすると、とんちんかんな方向だ。

音声おんじょう、今の声は誰だい?」

「ん? んー………。先輩?」

「え、まさか、君の生家の? ご老人がこんなとこまで来てたのかい。」

「んー、そうじゃなくて、…ええと、あー…。うん、取りあえず、うん、目的は果たしたから、もう帰るぞ。」

「エーッ!」

 何か面白い事があると思っていたらしい柳和やなぎわが、露骨に嫌な顔をした。頭領は頬を掻いて笑いながら、ぽんぽんと頭を撫でる。

「でもまあ、今日の事は、俺達だけの秘密な! いずれ話せる時が来たら、俺から言うから。今は皆には言っちゃダメだぞ。」

「むぅぅ…。なら、良いモノが見れたことにします。」

「よしよし、良い子だ。さ、馬を出してやってくれ。」

 柳和やなぎわがにこにことじっと見上げると、頭領は額に口付け、自分の馬に乗った。それを見て、真槍しんそうは今とんでもない経験をしたのにも関わらず、ハァと溜息を吐く。

「どうしたんでぇ、真槍しんそう。」

「ああ…。なんで頭領ばかり…。ぼくだって、そこそこ出来た人間だと思うんだけどな。」

 オマエより、と、言いそうになって、真槍しんそうはその言葉を飲み込む。若頭わかがしは理解していないらしく、突っ込んで聞いて来る。

「ぼくだって、柳和やなぎわさんを護れるのにな。そりゃ頭領の方が腕っぷしも逞しいし、あの石投げの技なんて凄いし、特別な声だって持ってるけど…。あんなもの、魔術と言われたって仕方がないような物なのに。」

「頭領の力は魔術なんかじゃねえぜ、勿論アニィもだ!」

「違う違う、そうじゃなくて、インネン付けられたら逃げ場がないじゃないか。この国は面倒くさいぞ、素晴らしい事があっても、自分たちの神っぽさが無かったら、袋叩きだ。よわっちい民族のくせに。」

「アハァ、そりゃ同感だな。ご先祖サマが一人、偉大であれば、自分は他の家系よりもエラいと思ってら。母ちゃんだって、大事な親なのにな。」

 珍しく若頭わかがしが良い事を言ったな、と、真槍しんそうは東の空を見る。先ほどの美しい光はもう見られないらしい。大きな大きな灰色の雲がもこもこと立ち上っていた。


 ねぐらに戻ると、頭領は天眼てんがんだけを呼び出して、何か話しこんでいた。途中、何度か天眼てんがんの叫び声や、泣き声が聞こえたものの、若頭わかがしが番を仰せつかっていて、誰も二人が何を話しているのか知らなかった。頭領は何でもないとはぐらかしていたし、頭領の人柄と天眼てんがんとの絆を誰もが知っていた為、邪推する者は誰もいなかった。しかし暫く天眼てんがんは一室に引きこもり、その内の三日は呑まず食わずで泣き続けていた。ただ三日目の朝になると、いつも通りの穏やかで朗らかな天眼てんがんに戻り、最早誰も、二人がどのような会話をしたのか、考えることはしなかった。

 ただ、真槍しんそうだけは、天眼てんがんが何にそんなに取り乱したのか、ずっと気になって仕方が無かった。何か不安な事があるのなら、その為の槍なのだから振るわれなければならないし、何か大きな仕事があるのなら、自分も一緒に行って武勲をあげたい。そしてあわよくば、今度こそ柳和やなぎわに、本当の意味で認めてもらいたいと、切実に思う。瑠璃妃るりきさきを迎えに行った時のあの酷い醜態について、何とか雪ぎたい。それはもう、切実に、切実に、である。しかし結果として、そのような事は何もなかった。


 これらの一連の出来事は、真槍しんそうがエルサレムを旅立つ丁度一年前に起こった。



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