第十九節 放蕩息子

 一方その頃、ねぐらで頭領は歩く練習をしていた。柳和やなぎわが傍に付きっきり―――と、いう訳ではなく、意外にも柳和やなぎわは、頭領の歩く為の杖を作る事すらせず、その役割を女達に任せていた。その代わり、自分が屈んで、直接竈に息を吹きかけ、火を焚く。頭領が倒れても支えられないし、杖を削りだすほどの体力も視力もない老婆たちが、たんたんと苦菜を切っている間、柳和やなぎわは只管、息を吹き続けていた。それでも気になるのか、時折よろよろと歩く頭領の方に顔を向ける。が、火が消えそうになる事に気づき、また火と向き合った。

「…あ!」

 突然、頭領が嬉しそうな声をあげた。手を離しても立っていられたのか、それとも歩けたのか。作業をしていた女や老人たちが、パッと顔を上げた。頭領の顔は、豊作の麦か葡萄を見た農家よりも、歓びに輝いていた。

「おい、その杖をくれ!」

「頭領、まだ作っている途中です。」

「構わん、早く!」

 頭領が急かすので、女は不思議に思いながらも、杖を渡した。頭領は今の今まで、立つ練習をしていたとは思えない程にしっかりと立ち、しかしよろめきながら、一目散にねぐらから出て行った。顔を見合わせる女達に、作業を続けるように言いつけ、柳和やなぎわが追いかける。柳和やなぎわが外へ出る頃には、頭領はもう随分と歩いていた。走って追いつき、どうしたのかと問おうとしたが、止めた。頭領はあまりにも確信に満ちた顔で、前を向いて余所見もしなかった。自分が何を言っても、頭領には聞こえないだろう。

 と、遠くに人影が見えた。誰だろう、と思っている間に、頭領の歩幅が大きくなる。あっという間に彼等の距離は近づいた。柳和やなぎわも、誰も乗っていない馬を曳いているのが誰か気付く。

真槍しんそう! 若頭わかがし! おじ様! お帰りなさい!」

天眼てんがん!」

 若頭わかがしの後ろに隠れるように歩いていた天眼てんがんに向けて、頭領は今自分が出せる精一杯の速さで歩き出し、一直線に向かった。気を聞かせた若頭わかがしが、そっと天眼てんがんを前に押し出す。天眼てんがんは観念したように、もそもそと言った。

音声おんじょう、私は―――うわっ!」

 だが、全てを言い終わる前に、倒れ込むようにして、頭領が天眼てんがんをしっかりと抱きしめた。

「お帰り、お帰り…! よかった、無事だったんだな。本当に良かった…!」

 髭が濡れるほど泣いて、天眼てんがんが無事に帰って来た事を歓ぶ頭領を、天眼てんがんは宥めた。

音声おんじょう、泣くな、音声おんじょう。こんな裏切り者に、君の涙なんか―――。」

真槍しんそう天眼てんがんは目が見えないんだぞ。馬に乗せて早く帰って来ればよかったのに。今からでも乗せてやれ。」

「アニィ、頭領は怒って無いんスよ。頭領の事を考えるのなら、馬に乗って早く、頭領を横にならせてさしあげやしょ。」

 若頭わかがしが安心したように言うと、天眼てんがんは渋々頷き、真槍しんそう若頭わかがしの二人がかりで馬に乗った。真槍しんそうは頭領も、と言ったが、流石に同じ馬に大人の男二人は乗れそうになかった。すると、いつの間にか柳和やなぎわが、件の巨大な馬を呼びよせていたので、頭領はその馬に乗って、ねぐらに戻った。


 ねぐらに戻ると、ある程度の食事が出来ているらしく、良い匂いがした。老人たちは、天眼てんがんが帰って来た事に喜び、すぐに食卓をより豪勢なものに変えた。女たちは、汚れた天眼てんがんの服を清潔で新しいものに取り換え、汚れた身体を綺麗な布で丁寧に拭いた。くるくると服を脱がされ、くるくると身体を清められ、混乱している天眼てんがんを見て、頭領は自分の席に座る事もなく、ただ食卓の指示を出していた。

「さあ、宴会だ! 天眼てんがんが帰って来たぞ、俺達の下に!」

「万歳、万歳! 宴会だ!」

 どこかに行っていた男達もいつの間にか戻って来て、天眼てんがんの前に、ねぐらの中で一番綺麗な食器を置き、そこに焼肉や葡萄酒をどんどん置いて行った。頭領はよっぽど嬉しかったのか、普段天眼てんがんが座っている岩を自分の岩の近くに移動させ、一人でも座れるように工夫された椅子に座って、ずっと天眼てんがんの手を握っていた。天眼てんがんは目が見えないので、自分がどのように思われているか、触れられないと分からないからだ。

音声おんじょう、どうして宴会なんか開くんだ。私は君を置いて出て行ったのに。」

 頭領は答えた。

「そりゃ愚問というものだぜ。俺以外の誰もが、お前はもう戻らないと思ってたんだ。それが戻って来たんだぜ、どこにも傷を作らずに。」

「仮に宴会を開くとしたら、それは君が行った奇跡についての筈だ、音声おんじょう。」

「あ? 奇跡? 俺が中風になっても歩いた事か? あ、お前は説明する前に出ちまったから―――。」

「何故恍けるんだ、あんな素晴らしい事をしたのに! 私に弟を返してくれたじゃないか、君のものなのに!」

「ふぁ?」

 頭領はきょとんとして、天眼てんがんを見つめた。物を映さないその瞳が、嘘を言っている訳ではない事を読み取り、頭領は痺れる指先で頬を掻いた。

「んー? 俺が歩けたこと…じゃ、ないよな。お前の弟って、若頭わかがしのことだろう? そいつなら、俺の娘を娶って外に出た筈なんだが…。一緒に帰って来たってことは、あららぎの気持ちに関しては、俺達は的外れだったってことじゃないのか? …んー???」

 何の事かな、と、頭領は引き攣った筋肉を強張らせて考え込む。恍けている訳ではなさそうだが、天眼てんがんは納得がいかない。

「それとも何かい、君はあの素晴らしい出来事を、私に語るなと言うのかい。あんなことをするような御方がぽんぽん現れるなら、私は君の子を孕んで産めてるよ!」

「ブーッ!!!」

 その場にいて、天眼てんがんの話が聞こえていた面子が、総じて食べ物や飲み物を吹っ飛ばした。噴き出したのではない。吹っ飛ばしたのである。それくらいには、衝撃的な内容だった。

「ま、待て待て待て天眼てんがん! オマエ、今凄い事言ったぞ、一端落ち着け! いや、落ち着いてくれ! 俺は本当に心当たりが無いんだ!」

 天眼てんがんはまだ何か言いたそうだったが、自分の発言でぐちゃぐちゃになってしまった机を視て良心が痛んだのか、もう何も言わなかった。

 面々、蘭姫あららぎひめはどこに行ったのか、瑠璃妃るりきさきはどこに行ったのかと言ったことを聞きたいような素振りはあったものの、頭領が天眼てんがんの戻って来た嬉しさに和やかでいるのを見ると、事態は重くはないのだろう、と考えた。その日は練習になるから、と言って、頭領は竪琴を奏で、天眼てんがんに歌わせようとしたが、何本もの弦を弾くだけの指先の自制が効かなかった。そこで、頭領はたった一本の弦をしっとりとはじき、天眼てんがんに歌わせた。柳和やなぎわは、いつも着ている飾りや貝殻を取り、衣擦れの音だけで踊る。


なんぢは前より後よりわれをかこみ わが上にそのみてをおきたまへり

かゝる知識はいとくすしくして我にすぐ また高くして及ぶことあたはず

我いづこにゆきて なんぢの聖霊みたまをはなれんや われいづこにゆきてなんぢのみまへをのがれんや

われ天にのぼるともなんじかしこにいまし われわがとこ陰府よみにまうくるとも 視よ なんぢ彼處かしこにいます

我あけぼのの翼をかりて海のはてにすむとも

かしこにてなほなんぢのみてわれをみちびき 汝のみぎのみてわれをたもちたまはん

くらきはかならず我をおほひ 我をかこめる光は夜とならんと我いふとも

汝のみまへにはくらきものをかくすことなく 夜もひるのごとくに輝けり なんぢにはくらきも光もことなることなし

汝はわがはらわたをつくり 又わがはゝの胎にわれを組成くみなしたまひたり

われ なんぢに感謝す われは畏るべく奇しくつくられたり なんぢの事跡みわざはことごとくくすし わが霊魂たましひはいとつばらに之をしれり


神よ なんぢのもろもろの思念みおもひはわれにたふときこといかばかりぞや そのみおもひの総計すべくゝりはいかに多きかな

我これをかぞへんとすれどもそのかずはすなよりもおほし われ眼さむるときもなほなんぢとともにをる


この時ばかりは、天眼てんがんは視えない天井を見上げ、見たことのない星の瞬きを数えるように歌った。天眼てんがんのこの三十二年の生涯の中で、この時ばかりは賛美せずにはいられなかった。それと同時に、今まで当たり前のように音声おんじょうに力を借りていながら、それを自分の物だと勘違いしていたことを思い知らされる。なんと愚かで矮小な自分であろうか。

やがてねぐらに眠りの月が昇り、柳和やなぎわも踊り疲れてその場で眠った。ふう、と、一息ついたところに、頭領が葡萄酒を渡す。

「いや、歌わせすぎたな、悪かった。」

「いいんだ。思い切り歌いたかったから。それくらいに素晴らしい事だったから。」

「ふーん。まあ、敢て聞くような野暮はしねえよ。それよか天眼てんがん、俺の腹心と見込んで、話がある。…倒れていた間の事なんだがな。俺ももう、年貢の納め時らしい。―――神の、声を聞いた。俺は死ぬ。丁度一年後の今日、俺は死刑を執行される。それで、俺は神に取引を持ちかけた。それについての話だ。まだ、誰にも言っていないし、誰にも言うなよ。二人だけの秘密だ。怖がるといけねえから。」

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