第十八節 過越祭(中編)
過越祭を執り行うエルサレムの司祭たちは、今年は例年よりもぴりぴりと気を張っていた。それというのも、去年、暴動を勝手に沈めた謎の男の事が気になっていたからである。
あの後、彼等は大祭司の家に向かい、事の次第を伝えた。大祭司の家ではその少し前、マグダラ村に行った時、老翁が強盗に襲われ、新しい嫁も奪われたので、酷く自尊心が傷つけられていた。その所為で、娘婿である今の大祭司も顔色が悪かった。彼等が、『バルハヴァ』と名乗るインマヌエルと名乗った男について尋ねると、大祭司も老翁も、首を傾げて、知らないと言った。ただ、老翁に至っては、彼等が部屋を出た途端に暴れ出したので、何か知っているだろう、ということは、司祭たちの間に広まった。
つまり、この『バルハヴァ』という男を捕えれば、ユダヤ教の頂点であり、並の政治家ならば首を飛ばせるほどの権力を持った老翁に気に入られることが出来るのだ。そんな話を聞きつければ、宗教家だけでなく、政治家もこの人探しに関わろうとする。部屋の中では収まらない程の人数だったので、彼等は神殿の入口で、今年もあの破落戸が来るのではないかと目を光らせながら、話しあっていた。
「しかし、何者だというのだ、その男。あの潔癖な老翁があれほど取り乱す相手なんて、我々の手でどうにか出来るのだろうか。」
「いや、あのラビを使えば、もしかしたら我々は、老翁のお悩みを一気に解決できるやもしれぬ。」
「しかしあやつ、実に頓智の効いた男よな。面倒この上ない! 聖書の決まりの網目を潜って来よる。そんな奴の相手が、彼奴に出来るのか?」
「あの破落戸、老翁の名を知っていた。唯の破落戸ではない筈よ。それなりに知恵者じゃ、先代の大司祭を覚えているのじゃから。」
「あやつに教え込んだ教師は見つからんか。そやつを囮に誘き寄せて…。」
「む、待たれよ、何ぞ来よった。」
祭司と混じって話をしていた議員の一人が、話し合いを中断し、群衆の方を指差した。
「そら、あそこに
「なんだなんだ、
「そこに居ようが、あの黄色い服を着た男といる、
「仕方がない、今日はもう止めよう。お主、気張り過ぎじゃ。神殿娼婦とその産み捨てた
「里帰りはどうだったかね? アリマタヤと言えば最後の士師記の預言者の町、是非とも酒の肴にお聞きしたい。今夜あたりから、換金の取り分が増えるからな。―――あ、こら、待たんか!」
「いい、いい。所詮は田舎者よ、黄色い染料が無いのだ、彼の地元には! そんなことより、大祭司様の所に行こうではないか。何ぞ知っているかもしれぬ。」
議員が血相を変えて飛び出したものの、彼らには議員が言う不思議な男が視えなかったので、その場を後にした。
「そうか、もう、過越祭か…。」
門を潜ると、ローマの回し者が、税金を要求してきたので、道中拾った一アサリオン銅貨を渡した。
神殿の近くまで来た時、
少し、休むか。座り込んでいるのは落ち着かないので、地面に突っ伏し、ころんと丸くなる。地面に伏していれば、強盗は勿論、人がそもそも近づかないのだ。況して乞食で弱っていると思われるのであれば、何も持っていない者を襲う者などいない。休みたい時は、こうしているのが一番いい。眼を閉じると、吸いこまれるように眠りに落ちた。
「起きなさい、起きなさい、│神と共に居られる
ところが、眠ってからどれくらいしたのか、意識の死海に揺蕩っていた
「どなたですか。私はご覧の通り乞食な上に
「神が貴方をご入り用なのです。起きて、立ちなさい。」
「お戯れはおやめください、ご高名なりしラビ殿。私のような業も罪も深い乞食が必要な訳がない。」
「貴方が神を愛していなくても、神は貴方を愛しておられる。だから貴方に命じるのです。」
「…誰も、神を愛していないなどとは申しておりません。お待ちください、今起きますので。」
心底どんな物好きだろうかと、スーッと身体を浮かべ、地面の下から、抜け殻の身体の中に入る。身体を起こすと、目の前に、先程こっそりと跪いたあの貴人が立っていた。思わず跪いて頭を下げようとすると、貴人はそれに待ったをかけ、
「貴方様のような尊い御方は、私のような無力な者ではなく、もっと口やかましくて元気な乞食に施すべきです。」
「いいえ、これは貴方が必要なのです。ついてきなさい、その銀貨で、買わなくてはならないものがあります。」
それなら初めからそれを持ってこれば良い物を、何故か代わりに買わせようとする。という事は、
「人が多くなって来たから、荷物を半分渡しなさい。」
遠慮しようと考えたが、せっかくなので油壺を持ってもらう事にした。ありがとう、と、言う前に、貴人は
「どうしましたか。」
「いえ、何でも。」
―――どうかしたか? ―――いえ、何でも。
二十年近く前、そんな会話を
「? ラビ殿、ここ最近、エルサレムでは雨でも降ったのですか。」
踏みしめる土の感触が変わったことに気付き、
「神は彼を覚えて居られます。貴方が信じるのなら、彼は貴方の下に戻るでしょう。触れて御覧なさい。」
そう言って、貴人は地面にオリーヴ油の入った壺を置いて、手を離した。ゆっくりと膝をつき、その壺の近くに、自分の持っていた葡萄酒の壺を置く。馴れた手つきで地面をぺたぺたと触っていくと、何か固い物に触れた。驚いて手を引っ込め、もう一度触れる。人の様だ。人が倒れている。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
倒れている人は答えない。具合が悪いのだろうか、と、呼びかけながら触れていくと、その指先が感じ取った顔が、よく触れ慣れた者であることが分かった。
「
指先が、肉の抉れた場所に触れる。そこはもう血が固まっていて、ひんやりと冷たかった。そのようなものには、
「
弟の身体を揺さぶっても、冷たく硬くなった弟は答えなかった。けれども呼びかける以外に何をどうすればいいのか分からず、必死に呼びかける。
「
熱い涙が自分の指に触れても、その身体は冷たかった。どうしようもなくそこに死者がいて、
だが、吼えた先の天は、
ただ泣いているだけなら誰でも出来る。だが、自分はこの絶望を覆す人を知っている。この死の支配を打ち破る人を知っている。彼を呼べばいいのだ。彼を救い主と信じるのなら、彼は必ず答えて、私の下に弟を返してくださるだろう。償いはいくらでも、その後に望まれる罰を享受する。とにかく、早く、可哀想なこの子に温もりを与えてやらなくては。
彼ならなんと言うだろう? 『歌え』ときっと言うだろう。だから謳わなければ。死を打ち破る神の賛歌を。
わがたましひよ主を
主はなんぢがすべての不義をゆるし 汝のすべての
なんぢの
なんぢの口を
主はすべて
おのれの
主はあはれみと
屍の弟を慰めるように、囁くように、震える声で歌った。今ここに、
それでも歌を繰り返す都度に、まだ応えてくれない、という絶望感は計り知れないものがあった。涙に呑まれながら、か細く死体の前で歌を歌い続ける様は、相当に不気味で、誰もが気違いだと遠ざけた。況してやその男は後ろ姿だけで、
「う…っ、うう、…
涙に声が呑まれて、
「ごめんよ…、私が、
ふわり、と、微風が
「………?
光の主は答えない。ただ、
「
答えない。だが
「私が間違っていた。君が私を捨ててしまうのではないかと怖かったんだ。君が私を愛さなくなるのが怖かった。君の愛を疑ったんだ。償いなら何でもする。君がそれを怒ってこの子の
「お前は、神の子を知っているか?」
光の主が、漸く言葉を発した。その声は
「知っています。私が逃げてきた主が、その人です。」
「お前は、神の子を信じるか?」
「
「お前は、道を信じるか?」
「
「これは私の愛する子。私はこれを悦ぶ。」
光が、
「うわあ…っ!」
緩やかに降りてくる光の種が、害成すものか、そうでないものなのか、その区別すらつかなかった。あれ程厳かな光の内から顕われたのに、その大きさの前に恐怖が勝り、弟がその種に触れないように自分の身体の下に体勢を入れ代える。弟の身体を抱きしめて、光の種の壁になった。
ふ………。
その時、
「………
ああ、ああ、ああ。やっぱり、やっぱり、やっぱり。
顔に触れると、頭が動く。唇に触れると、カサついたその薄皮の向こうに、命の萌える薫りがする。鼻に触れると、土塊から人になった創造の御業の神秘が駆け巡る。
「
「あ、あにぃ? アニィ、な、なんでここに…?」
質問に応える事が出来ず、
「何だ、お前。」
「失礼、怖がらないでほしい。私はアリマタヤからきている議員。怪しい者ではない、今、ここで起きた奇跡を見ていただけなのだ。」
「奇跡?」
「きみは、今の今まで死んでいた事を、理解しているかね。」
「………。………。あ! ひいさん! アニィ、
そこに来て、漸く弟―――
「学者どもが、
「待て、待て、待ちなさい、落ち着きなさい。今視るから!」
視えなくても分かるくらいに切羽詰った
カッ!
「うわっ!」
「アニィ! 何が視えたの、
「
「………。ああ、それは、間違いない、でも………。」
「でも? でも、何!」
「…どこに居るか、分からない。強いて言うなら、太陽のような、…いや、太陽そのものと一緒に、いるような………。」
「太陽…て、空の?
「いや、地上にいるよ。いるけど、太陽と一緒なんだ。」
「………???」
謎かけのような答えに、
「少なくとも、
「じゃあ、失敗したんだ…。良かった。」
「何があったの。」
そう尋ねると、
「何か騒動に巻き込まれたのかね。」
「おっさん、あっしが死んでる間、何か無かったかい。」
「いいや、特に何も。学者連中がまた何か企んでいたようだが、失敗したらしいから、特に何も。」
「その企みに、巻き込まれた娘はいなかったかい。」
「何か裁判ごっこをしていたらしいが、誰が被告人役で誰が弁護人役だったのかは分からなかったようだよ。何せ凄い人だかりがあったからね。」
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