第十七節 女

 一方その頃、若頭わかがし蘭姫あららぎひめと宿を取り、少し先に旅の疲れを癒していた。持ち込んだ葡萄酒を、縁の欠けた杯に注ぎ、パンを裂き、焼いた雀を皿に置いて分けた。

「すまねえなあ、ひいさん。あっしがもうちょっと金を持ってりゃ良かったんだけど。」

「いいのよ。戦う若頭わかがしさん、とてもかっこよかったわ。」

 二人が好きあっている事は自明の理であったが、それは賭け事を見ていた民衆にも同じことが言える。

 事の発端は、二人が四人分の宿を取ろうとした時の話だ。四人で丁度満室と言う時に、どこぞの偉そうな、祭司だか何だかの一行が、宿を開けろと詰め寄って来た。身分の割に、その人物は供が二人しか居らず、お忍びであるらしい。であるから、エルサレムにいるだろう仲間の所には泊まれないらしかった。どうせ若い庶民なのだから、高貴で年を食った旦那様に譲れ、と来た。若頭わかがしは当然取り合わなかったが、あまりにも彼等がしつこく、遂には金をこっそり積もうとしているのに気が付き、若頭わかがしの短い堪忍袋の緒が切れた。元々塒ねぐらにいる面々と言うのは、風習に母親を奪われた者たちだ。風習を創りだす側の人間に、くれてやるものなど持っていない。決闘することになり、それでも渋る供の者を挑発して乗せ、見事若頭わかがしは老害共から宿泊権を護ったわけであるが、手酷くやられてしまったのである。

「それにしても、何だったのかしらね、あの祭司様たち。エルサレムでわざわざ宿を取ろうとするなんて。」

「大方、不正か何かして、雲隠れしようとしてたんスよ。それがあっしみてぇなならず者に負けちまって、野宿か夜通し馬を歩かせる羽目にならぁ、気分もいいもんだ。ひいさんもそうだろ?」

「まあ、あのお爺さん、確かにいけ好かない感じだったわ。見ていてなんだか気持ち悪いんだもの。やたらと視線が合って。」

「そりゃいけねえな、追っ払って良かった。ひいさんがあんまり綺麗なもんで、一目惚れしちまったんだろうさ。」

「まあ、若頭わかがしさんも、私に一目惚れしてくれているかしら?」

 ふふっ。

 ………………。はっ。

 いやいやいやいや、と、若頭わかがしは首を大きく振って、杯の葡萄酒を飲み干した。

「冗談じゃねえって、恐れ多い。ひいさんは頭領のお気に入りのお人だ、あっしみてぇな教養のねえ奴に、靴紐を解く値打ちもねえさ。」

 すると蘭姫あららぎひめは、少し顔を赤らめながら、土埃で汚れた爪先で、つんと若頭わかがしの脛をつついた。若頭わかがしは戸惑いごと飲み込むかのようにパンを口の中に突っ込んでいたが、つんつん、と、繰り返し脛をつつかれて、机の下に顔を突っ込んだ。爪先が恥らう掌のように擦りあわされ、つんつん、と、若頭わかがしをつついてくる。

「………。」

 何がしたいのか分からず、若頭わかがしはパンを口に頬張ったまま、机の上に顔を戻した。蘭姫あららぎひめは微笑んでいるだけで、若頭わかがしには少々読み取るのが難解な表情だ。空の杯を煽り、ごくんと首を太くして口の中のものを呑みこみ、もう一度机の下に頭を突っ込む。

 つんつん。つんつん。

「あー…、ひいさん。」

「なあに?」

「その、何だ。エルサレムは…水浴びが出来るようなとこが、無くてだな…。」

「うん。」

「ええと…。えっとな、…つまりな…。」

 若頭わかがしは頭を首ごと捻りながら、目的のものを探す。それは部屋の入口に必ずあるものなのに、窓の付近を見つめて見たり、床の周りをじっと見据えてみたりしたので、中々見つからなかった。やっと、清めの甕を見つけ、そこに自分の服の袖を浸し、蘭姫あららぎひめの前に膝をつく。

ひいさん、綺麗な足してるのに、汚れてちゃもったいねえ。あっしが綺麗にしてやるよ。」

「あら、靴紐、解いてくれるの?」

「え、ええと…。嫌なら、やんないけど…。」

「ふふっ、冗談よ。どうぞ、綺麗にして。」

 おん、と、若頭わかがしは小さく答え、蘭姫あららぎひめの靴紐を解き、爪先に手を添えて袖で拭った。いくら若頭わかがしが素養のない男でも、蘭姫あららぎひめの身体を労る気持ちがあるのなら、その扱い方も自然と慎重になる。汚れがこびりついて取れなくなるような、不潔な男の脚とは違うのだ。少し擦れば、力を入れなくても土埃は落ちてくれた。

ひいさん、痛くねえかい。」

「ええ。…上手よ、若頭わかがしさん。」

「アニィ…じゃ、ない、天眼てんがんさんの身体とか、よく拭いてたからかな。」

「え、そうなの?」

「あの人、産まれる時に目に傷もらってるから、自分のちんこも見た事ねえんだ。だから、身体のどこが良く汚れるのか知らない。痒いとか気持ち悪いとか、そういうのは分かっけど。今でも時々、アニィの身体は拭いてっけど…。最近、そう言ややんねえな、真槍しんそうがやってんのかな?」

「ねえ、天眼てんがんさんて、お兄さんなの? 同じ年くらいに見えるわ。それとも双子? あまりに似てないけど」

「単純に、母ちゃんに引き取られたのが、アニィが先だったんスよ。誕生日とか、もしかしたらあっしの方が早いのかも。」

「でも、素敵ね。私、家族っていなかったから、羨ましいわ。」

「ん? でも頭領が、ひいさんはマグダラ村の網元の所で大事に育てられたって、言ってやしたぜ。」

 んん、と、蘭姫あららぎひめ若頭わかがしの掌の中で爪先をすり合わせ、膝を擦り合わせてもじもじと答えた。

「多分、大事では、あったのだろうけど…。あの家には、もう嫡孫まで揃っていたから、私は婢みたいなものだったわ。いえ、本当にそういう扱いではなかったのだろうけど。村で獲れた魚を売るのを手伝っていた時に、なんとかっていう大祭司の息子が私を見初めたらしくて、沢山のお金を携えて、私を嫁に欲しいって行って来たのよ。そうしないと、具合の悪くなっていた大婆様を罪に定めるって言って。」

「そりゃ酷ェ。だから頭領はあんなことして奪いに行ったんだな。」

「始めは怖かったけど、アバは私に触れる時は、とても優しかったの。ねぐらに連れて行かれた時は、こんな所で大勢のものにされるのかと怖かったけれど、アバは一番に、私に話しかけられる人を制限してくれて、お世話係も柳和やなぎわさんだったから、とてもホッとしたわ。それに―――貴方がいたのだもの、若頭わかがしさん。」

「あっしが。」

「ええ、そうよ。食い意地が張ってて、清々しいくらいだったわ。だからね、あそこでなら、貴方が食べてくれるなら、こんなに優しい山賊さん相手なら、妾暮らしも悪くないかなって思ったのよ。でも実際は、アバは私を本当の娘のように扱ってくれて、本当におかしいのだけど、この国の法律の及ばない所の方が、私は人間らしくいられたわ。」

「へえ、頭領が。」

 多分褒められてるんだろう、と、若頭わかがしは顔を伏せたまま答える。しかし蘭姫あららぎひめから見ると、耳まで赤くなって、分かりやすいことこの上ない。普通に過ごしているならば、もう村の娘を嫁に迎えて、その嫁は子を孕んでいるくらいになっているのだろう。拭くところがなくなった、と、若頭わかがしが立とうとするので、蘭姫あららぎひめは手を伸ばして腰を捕え、ぽふん、と、若頭わかがしの腹部に顔を埋めた。

「ひ、ひいさん?」

「…んー、…ふふっ? ねえ若頭わかがしさん、もうすぐ過越祭ね。おめでたい事は続けば続く程、良い物だわ。そう思わない?」

「あっしは、あんまり続くと、居心地が悪くならぁ。どんなドンデン返しがあるか分かったもんじゃねえから。」

「そうね、人生においてはそう。でも、良い事を起こしたいと思って、その通りになったら、それは嬉しくなあい?」

「うん、嬉しいと思う。」

 ね? と、笑って蘭姫あららぎひめは、腰から背中に指先を徐々に伝わせて行き、ゆっくりと立ち上がりながら言った。

ひいさん?」

「ねえ…。私、貴方が好きなの、若頭わかがしさん。アバはきっと許してくださるわ、私を貴方の妻に、選んで。貴方が他の人を選んで、他の人に選ばれる前に。」

 ほんのり色づいた唇で、吐露するように蘭姫あららぎひめが投げかける。蘭姫あららぎひめの丸い額が近づいて、若頭わかがしは自分の理性と彼女の気持ちを天秤にかけた。直ぐにそれは傾いたので、若頭わかがし蘭姫あららぎひめの頬を支え、口づけた。

「他の女なんざ選ばねえ。あっしが好きなのは、ひいさんだけよ。何を焦ってたんだ?」

「だって、柳和やなぎわさんが…。」

柳和やなぎわさん? 何か言われたのか?」

「…いえ、私の思い過ごしね、きっと。だって貴方は、すぐに私を選んでくれたのだもの。」

 女の勘というものの怖さをつくづく知っている若頭わかがしはそれ以上は何も言わず、蘭姫あららぎひめが座っていた場所に自分が座り、膝の上に乗せて唇で遊ぶ。触れ合う肌が段々厚みを増して、熱を持って、吸いつきあった。


ひいさん、帰ったら、頭領に言おう。あっしが挨拶すっから。」

 蘭姫あららぎひめが笑って、幸せそうに抱きつき―――その瞬間、物凄い勢いで、扉が吹き飛んだ。蘭姫あららぎひめに自分の服を掛け、自分は褌一枚で、ナイフを構える。

「誰でぇ、人が寛いでる時に!」

 バタバタと、棒や剣を持った男達がぞろぞろと入ってくる。追い返そうと若頭わかがしが手を振り上げると、五人以上の男がぐっと押し込め、後ろから上等な着物を着た数人の老人が、何か目をぎらつかせながら入ってくる。彼等は怖がって身体を小さくしている蘭姫あららぎひめを見ると、指を差して、何か言い訳をするかのように叫んだ。

「おい、あの女だ、タレこみにあったのは! 見ろ、服を脱いでいるぞ、この男とは結婚していないのに!」

「姦通罪だ! 姦通罪だ! 淫らな女だ! 捕えろ、あのラビ気取りの前に引きずり出せ! 行け、お前達!」

ひいさんに触るな、この野蛮人!」

 若頭わかがしが、近づこうとした男の左耳を削ぎ落す。あともう少し、男の身長が高かったならば、その刃は確実に首筋を突き破っていただろう。

「ラビ、こいつもひっ捕らえましょう!」

「こんなに暴れる奴が、大人しくしていられるものか! ここで殺せ、女だけ連れていく! その様子なら、まだ姦通の証が身体に残っている筈だ。奴の前で掻きだしてやれ、この女が一番、適材だ!」

 あまりにも猥雑な暴言に、若頭わかがしはかっと目を見開いて、耳を斬りおとされ蹲る男の背中を踏みつけて飛び掛かった。ラビの両肩に脚を巻きつけ、大きく振りかぶって、頭にナイフを突き刺そうと、背中を弓反りにさせた所で、ぽとりとナイフを落とした。男の一人が、若頭わかがしの左脇腹を槍で突き刺したのだ。脚から力が抜け、大きな音を立てて、背中から落ちる。

「止めて! その人を殺さないで! 私、行きます、行きますから!」

 若頭わかがしが覆った裸体を投げ出して、蘭姫あららぎひめは跪いて命乞いをした。ラビたちはにやにやと笑い、殆ど全裸の蘭姫あららぎひめを文字通り、浚って行った。

「ひいさん…ひいさん!」

「おい、この女は『姦通の現場』で取り押さえたんだ。余計な事を吹聴されないように、こいつは外に棄てて置け。もし宿屋の女将が渋るようなら、こいつが殺したことにしておけ。」

 呼吸がおかしい。吸っても吸っても、頭がくらくらして、力が抜けていく。どうやら悪い場所に刺さったようだ。服を着ていなくて良かったと思えるくらいに、血が流れ出る。ラビと行かなかった男の一人が、じっとりと顔を覗き込んだ。

「刺したところが良かったな、こりゃほっといても死ぬぞ。」

「だったとしても、此処に転がしておくわけにもいかんだろう。」

「そこの窓から裏路地に落としちまえばいいよ。そら、足を掴めよ、俺は頭だ。お前は両手。」

 近づいてくる男達の身体を蹴飛ばしたり殴りつけたりしたが、ぽん、ぽん、と、間抜けな音がするだけだった。それなりに鍛えて、重たい筋肉を持っているからか、男達は三人がかりでやっと窓の淵に若頭わかがしの上半身を乗り出させ、両足を持ち上げて頭から落とした。落下した若頭わかがしの身体が折れ曲がっている事を確認すると、男達は自分たちの身体に血が憑いていない事を確認し、宿を出た。

 しかし、三人は所詮ラビたちから見れば、金で雇った破落戸だったので、その日の夜、駄賃で呑んでいる所を、殺人のかどで捕えられてしまった。

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