第十六節 律法

 病や生まれ持っての障害は、その者やその先祖が罪を犯した結果である。然るに、もしその病や障害が治ったのであれば、それは神に罪を赦されたと言う事を意味する。よって、それが本当に神から齎された癒しによるものなのかどうか、神殿の祭司たちがそれを見定めなければならなかった。その結果、本当に癒されたと分かったのならば、晴れて全うな一般人として生活する事―――より正確には、健康なユダヤ人男性を始めとする多くの人との交際を許されるのである。

 瑠璃妃るりきさきは生まれつき瞳の色が違い、目が弱かった。らいの谷に追いやられたのも、元々は視力の低下によって目に傷を負い、それが化膿したので、らいと間違われたのだと言う。その事は既に祭司を通じて、いわば国が、瑠璃妃るりきさきは祖先による罪を持つと認定している。これを解くには、祭司に確かに健康になったという宣言をしてもらわなければならない。瑠璃妃るりきさき蘭姫あららぎひめ若頭わかがし、そして真槍しんそうは、その為にエルサレムへ登っていく旅路の上にあった。

 あの後、結局天眼てんがんは戻ってこなかった。柳和やなぎわの馬ですら、見失ってしまったらしい。特別な眼を持っているとはいえ、着の身着のままだ。柳和やなぎわは外へ出る事が少ない為、自然と着ているものも一味の中では綺麗な服を着ている。しかし外に出れば、それは浮浪者がくすねたばかりの亜麻の服でしかない。大体このねぐらから人里まで、どうやって歩くというのか。天眼てんがんが直面している筈の問題に触れるに触れられないまま、四人は旅立たなくてはならなくなった。柳和やなぎわは、お頭様とうさまとおじ様の事は任せて、安心して行ってこい、そして帰って来なくてもいい、と、ぶっきらぼうに言い放った。柳和やなぎわは頭領の考えを聞いていたのかもしれない。その上で真槍しんそうに、帰らない道もあると言ったのだろう。ただ、真槍しんそうは帰ってくるつもりだった。

 真槍しんそうの重たい気分はいざ知らず、若頭わかがしは能天気なものだった。瑠璃妃るりきさき真槍しんそうという他の者の目も気にせず、蘭姫あららぎひめにずっと話しかけている。馬の上に乗る蘭姫あららぎひめは、瑠璃妃るりきさきの背中に肩を預け、若頭わかがしの話をずっと聞いている。それを盗み聞くようにして気にしている瑠璃妃るりきさきも、時々顔を綻ばせた。真槍しんそうは自分だけが事の成り行きの重大さを知っているようで、気分が重くて仕方がないというのに、若頭わかがしは自分より頭領や天眼てんがんの傍にいるのに、それが何だか悔しい。しかし同時に、これは若頭わかがしの可哀想な出来のオツムには難しくて処理できないのだと言う事も分かっているので、それはそれで嬉しい。複雑な気分である。

真槍しんそうさん、真槍しんそうさん。」

「はい、何でしょう、妃殿。」

 思わず、拗ねた本音が出て来てしまう。顔をぱしぱしと叩いて、気を引き締めなければと鼻をふんすと鳴らした。瑠璃妃るりきさきはそれを見て、少し面白そうに笑うと、背中を折って、こしょこしょと耳元で囁いてきた。

「ねえ、貴方から見て、若頭わかがしさんってどんな方? 優しい? 義に篤い? 信心深い? 柔和? 平和を愛するかしら。」

 一体若頭わかがしのどこをどう見れば、そんな希望的で楽観的な問答が出来るようになるのだろう。思わず吹き出しそうになったが、何とか堪える。

「時に、何も考えていないということは、何にも増して知恵になる事もあるかと思います。」

「まあ、ということは、貴方から見てあの人は、考えなしなの? それとも、自分と言うものがないくらいに、神に近づいた方?」

「後者ではありません。断じて後者では!」

 思わず力強く答える。瑠璃妃るりきさきはそれを見て、ぱちぱちと瞬きをしたが、すぐに花が綻ぶように微笑んだ。誰かの妻とは、斯くも美しいのだろうか。

「貴方、若頭わかがしさんが好きなのね。」

「冗談はおやめください。あいつが居なければ、ぼくは今頃ローマの百人隊長にでもなっていますよ。元々ぼくの上司だった隊長は、何にも増して合理主義の事勿れ主義の漁夫ノ利至上主義でしたからね!」

「あら、でも、若頭わかがしさんが居なければ、天眼てんがんさんとは会えなかったのではなくて?」

「それは文字通りの、怪我の功名というものですよ。それに、何か勘違いしてらっしゃるかもしれませんが、ぼくは頭領にお仕えしているんじゃありません。天眼てんがん様の御意向に従っているだけです。今回ぼくがこっちにいるのは、ぼくなんかが天眼てんがん様のお傍にいても役に立たないと分かっているからであって、決して頭領の指示に従っているのではないんです。」

 ぷい、とそっぽを向いた真槍しんそうだったが、瑠璃妃るりきさきが微笑む気配がした。身分が高かったころの頭領の愛した女と言うだけあって、少なくとも真槍しんそうが百人隊にいたころ、買いに行った商売女達よりは、一緒にいて気分がいい。しかしもしかしたらそれは、彼女が『母』だからかもしれない。

「妃殿、あのねぐらは、心地よい物でしたか。」

「ええ、とても。」

「それはよかった。」

 真槍しんそうはそれだけ確認できれば十分だった。後は何も言わず、たった今後ろで会話があったことにすら気づいていない若頭わかがしと、それほどまでに彼に夢中になっている蘭姫あららぎひめを睨みつけることしか出来なかった。

 遠くに、エルサレムが見える。


 前回エルサレムに来たのは、去年の過越祭だ。その時に比べると、随分と人が少ない。あの時は神殿の所にしかいなかったが、考えてみればエルサレムは神殿だけの場所ではないのだ。この前、雑魚を売ったあの元盲人も、ここの一角で物乞いをしていたという。初めこそ、前回のことを理由に襲い掛かられないか心配した真槍しんそうだったが、考えてみれば今の自分はローマ兵の装備を何も持っていない。背も小さいので、子供に見られているかもしれない。槍だけが大人用の一丁前だが、それでさえ子供の玩具に見られていそうだ。

真槍しんそうさん、どこに行けば宜しいのかしら?」

「妃殿は、ぼくが案内します。おい若頭わかがし、前回が前回だ、きちんと案内して差し上げろよ。」

「え、いいの?」

「ぼくに聞くな、頭領からの命令だ。蘭姫あららぎひめにエルサレムを案内してやれって。」

 若頭わかがしは飛び上がって喜び、さっと蘭姫あららぎひめの手を掴むと、走りだして行った。

ひいさん! こっちこっち!」

「待って待って、ちゃんとついて行くから!」

 あんなにベタベタしてて、本人たちは周りに何も察されていないと思っているのだから、恋とは厄介なものだ。遠くはまだ見えないのだろうか、瑠璃妃るりきさきは目を瞬かせ、まだ真槍しんそうが二人を見送っている横で、くいくいと衣を引っ張った。

「さ、若い人たちの事は彼等に任せて、あの人からの託けを済ませてしまいましょう。」

「ああ、すみません。そうですね、行きましょう。」

 過越祭の時ほどではないとはいえ、信仰の中心地だけあって、人は多い。瑠璃妃るりきさき真槍しんそうがふしだらと思われないよう、小さく衣の裾を指で挟んで、案内に従った。

 神殿の入口で、肩に美しい鳩を乗せ、黄色い衣を着た男が、じっとこちらを見ている事に気付いた。その姿は明らかに、大声で祈りを奉げる祭司たちの中にあって異質なのに、炉端に転がる石か何かのように当たり前のようにそこに居る。真槍しんそうはその視線が余りにも不躾なので、睨み返して無視しようとしたが、瑠璃妃るりきさきがくいくいと衣を引いて、聞いてきた。

真槍しんそうさん、真槍しんそうさん。あそこにいる綺麗な御方は、誰ですか。エルサレムには、いつもあのように静かな方が居るの?」

「ぼくが兵士だった頃、神殿の周りには、ああして神に感謝している姦しい司祭ばっかりでした。あの男は明らかに異質です。関わらない方が―――。」

「こんにちは、瑠璃虎尾るりとらのおの夫人。」

 そんなことを言っている内に、黄色い男が瑠璃妃るりきさきに挨拶をして近づいてきた。近くに来ると、男は男らしくがっちりとした体格ではなく、女のようにその身体が薄く、儚い。外で力仕事などしたことが無いと言う事が一目で分かった。瑠璃妃るりきさきはエルサレムで初めて自分に話しかけてくれた男に興味を持ってしまったらしく、こんにちは、と、返す。真槍しんそうは頭が痛くなりつつも、二人の会話を黙って見ていることにした。

「わたくしのことをご存知なの? なら、わたくしの身に起きた素晴らしい事も?」

「私は、貴方にその恩寵を与えた御方に遣わされた者です。」

 はて、ねぐらにこんな男が居ただろうか。色こそ黄色だが、その衣は絹よりも美しく陽の光を受けていて、もしかしたらローマ皇帝に縁する者かもしれない。そんな高貴な男があのねぐらに来たならば、忽ち身ぐるみを剥がされて外にぽいと放りだされるだろう。衣一枚でその高貴さが分かる男の父親は、さだめし偉大なのだろうから。

 しかし瑠璃妃るりきさきは、そんなことには微塵も気づかず、会話を続けた。

「まあ、あの方の?」

「貴方の夫を、貴方の下に遣わした御方が、今、このエルサレムに来ています。もし貴方が、娘御を取り戻したいのなら、上町にある貴方の夫の実家の近く、そこの宮に行きなさい。」

「お知らせくださりありがとうございます。でもあれももう大人です。慕い慕われる殿方が現れてくれたのなら、あれはもう、その人のものです。わたくしは十分、この眼に焼き付けましたので、これからの苦難は、あの方が共に支えてくれるでしょう。」

「では、貴方は彼女の下には戻らないおつもりか。」

「嫁いだ娘の手を煩わせたくありませんし、今の私には夫が居ますから、大丈夫です。ご心配有難う。」

「では、この神殿に入って、すぐ右をご覧なさい。そこには神の路を整えた、最後の預言者の父がいる。他の祭司たちは、貴方を知っているが、彼は今の貴方しか見たことが無いから、貴方の身に起きた恩寵を認めるだろう。」

「ありがとうございます。その通りにします。」

「それから、少年よ。」

「え、ぼくですか?」

 出来る事ならやり過ごしたかった。まるでもう、司祭に罪を赦してもらったかのように嬉しそうな瑠璃妃るりきさきとは対照的に、真槍しんそうは露骨に嫌な顔をした。昔から宗教家の類は嫌いだ。巻物の中にしか生きていなくて、確かに生きていた筈の自分の母を否定し、この世から去らせてしまったからだ。

「貴方方には黄金きんではなく、梔子きのいろの祝福がある。その槍が黄昏に輝く時、貴方は愛によって裁かれるだろう。その時、私は貴方の前にもう一度現れる。」

「はあ…。どうも。」

「行きなさい。貴方たちを待っている人が居る。」

 待たせているという自覚があるなら話しかけなければいいのに、と、真槍しんそうは心の中で文句を言いながらも、短く礼をして、その場から歩き出した。黄色い男は、自分が立っていた場所に戻り、また自分達をじっと見つめ始めた。見物料を取るぞ、と言ってしまいそうだったので、足早に瑠璃妃るりきさきを神殿の中へ連れて行くことにした。

 神殿の中は外の熱を遮断しており、少し涼しいが、何かの煙が充満している。生贄の煙ではなさそうだが、香にしては濃い気がする。いずれにしても鼻が曲がりそうだ。

「お待ちしておりました。瑠璃虎尾るりとらのおの夫人、真理の槍兵よ。」

 突然呼ばれて、悲鳴が舌から胃の中に落ちる。瑠璃妃るりきさきは、まるで驚いていなかったが、真槍しんそうは神殿の臭いに圧倒されていたので、不意を突かれたのだ。

「貴方が、預言者の御岳父?」

「如何にも。」

「貴方に、病の穢れが無くなった事を証明して貰うようにと言われました。やってくださいますか?」

「如何にも。」

「いや、無理でしょう。」

 真槍しんそうが口を挟んだ。預言者の父だという祭司の老人の前に座った瑠璃妃るりきさきは、きょとんとして真槍しんそうを見上げる。真槍しんそうは溜息を吐いて、老人の顔の前で、ひらひらと手を振った。老人は何も言わない。

「ご覧の通りですよ、妃殿。彼もめくらです。いえ、生まれついてのではなく、加齢によるものでしょうか。いずれにしても彼では、妃殿の穢れが無くなった事を証明できません。」

「ですが、あの人の遣わした人がそう言ったのですよ。」

「あの男がどういう身分の者かも分からないのに、これから先、妃殿の一生の在り方を決める大事な祭司を、こんな老いらくにする方が間違えています。きちんとした祭司に認められなかったと、難癖をつけるのが律法学者たちの仕事です。」

「如何にも。槍兵よ、貴方の見識は正しい。ですが、わしはこのお役目を命じられ、それを受け取ったのです。これを成さぬことには、主の前に戻ることなど出来ませぬ。」

真槍しんそうさん、心配してくれてありがとう。でもこれ以上は、御岳父に失礼だわ。申し訳ありません、祭司さま。どうぞお気を悪くしないでくださいね。」

「如何にも。では夫人よ、少し、お顔を触りますぞ。」

 ええどうぞ、と、瑠璃妃るりきさきは顔を突き出した。どうなっても知らないぞ、と、真槍しんそうは溜息を吐き、もう一度周囲を見渡す。いつの間にか祭司たちが集まっていて、何やらひそひそと話しこんでいる。

「何だお前達。彼女は見世物じゃないぞ!」

 真槍しんそうが噛みつこうとした時、瑠璃妃るりきさきを見ていた老人が大きく頷いた。

「如何にも、如何にも! 貴方からは病の穢れが無くなっている。この神殿で捧げ物をして、貴方の帰るべき所へ帰るが良い。」

「はい、ありがとうございます。」

 瑠璃妃るりきさきがホッとしたように朗らかに笑う。すると、祭司たちが拍手をした。てっきり難癖をつけるとばかり思っていたので、真槍しんそうは拍子抜けする。祭司の一人が近づいて来て、座ったままの瑠璃妃るりきさきの額に手を置いた。

「素晴らしい! この祭司は、三日前にこの神殿に復帰してきたばかりの古い私たちの友人です。どんな質問にも答えられる、神について深く学ばれた信仰深い方なのです。仕事を一つだけ任されたと言って、ずっとそこに座っていたのですが、いやはや、その女を祝福する為だったとは! 良い祭司を遣わされましたな。」

「はあ…。とにかく、これで彼女は、穢れの無い身ですから、これからエルサレムで暮らしても問題ありませんよね?」

「無論ですとも。」

「良かったです。では、ぼく達はこれで。」

 とにかく面倒くさそうなので、真槍しんそう瑠璃妃るりきさきの手を引き、捧げ物を買いに行った。

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