第十六節 律法
病や生まれ持っての障害は、その者やその先祖が罪を犯した結果である。然るに、もしその病や障害が治ったのであれば、それは神に罪を赦されたと言う事を意味する。よって、それが本当に神から齎された癒しによるものなのかどうか、神殿の祭司たちがそれを見定めなければならなかった。その結果、本当に癒されたと分かったのならば、晴れて全うな一般人として生活する事―――より正確には、健康なユダヤ人男性を始めとする多くの人との交際を許されるのである。
あの後、
「
「はい、何でしょう、妃殿。」
思わず、拗ねた本音が出て来てしまう。顔をぱしぱしと叩いて、気を引き締めなければと鼻をふんすと鳴らした。
「ねえ、貴方から見て、
「時に、何も考えていないということは、何にも増して知恵になる事もあるかと思います。」
「まあ、ということは、貴方から見てあの人は、考えなしなの? それとも、自分と言うものがないくらいに、神に近づいた方?」
「後者ではありません。断じて後者では!」
思わず力強く答える。
「貴方、
「冗談はおやめください。あいつが居なければ、ぼくは今頃ローマの百人隊長にでもなっていますよ。元々ぼくの上司だった隊長は、何にも増して合理主義の事勿れ主義の漁夫ノ利至上主義でしたからね!」
「あら、でも、
「それは文字通りの、怪我の功名というものですよ。それに、何か勘違いしてらっしゃるかもしれませんが、ぼくは頭領にお仕えしているんじゃありません。
ぷい、とそっぽを向いた
「妃殿、あの
「ええ、とても。」
「それはよかった。」
遠くに、エルサレムが見える。
前回エルサレムに来たのは、去年の過越祭だ。その時に比べると、随分と人が少ない。あの時は神殿の所にしかいなかったが、考えてみればエルサレムは神殿だけの場所ではないのだ。この前、雑魚を売ったあの元盲人も、ここの一角で物乞いをしていたという。初めこそ、前回のことを理由に襲い掛かられないか心配した
「
「妃殿は、ぼくが案内します。おい
「え、いいの?」
「ぼくに聞くな、頭領からの命令だ。
「
「待って待って、ちゃんとついて行くから!」
あんなにベタベタしてて、本人たちは周りに何も察されていないと思っているのだから、恋とは厄介なものだ。遠くはまだ見えないのだろうか、
「さ、若い人たちの事は彼等に任せて、あの人からの託けを済ませてしまいましょう。」
「ああ、すみません。そうですね、行きましょう。」
過越祭の時ほどではないとはいえ、信仰の中心地だけあって、人は多い。
神殿の入口で、肩に美しい鳩を乗せ、黄色い衣を着た男が、じっとこちらを見ている事に気付いた。その姿は明らかに、大声で祈りを奉げる祭司たちの中にあって異質なのに、炉端に転がる石か何かのように当たり前のようにそこに居る。
「
「ぼくが兵士だった頃、神殿の周りには、ああして神に感謝している姦しい司祭ばっかりでした。あの男は明らかに異質です。関わらない方が―――。」
「こんにちは、
そんなことを言っている内に、黄色い男が
「わたくしのことをご存知なの? なら、わたくしの身に起きた素晴らしい事も?」
「私は、貴方にその恩寵を与えた御方に遣わされた者です。」
はて、
しかし
「まあ、あの方の?」
「貴方の夫を、貴方の下に遣わした御方が、今、このエルサレムに来ています。もし貴方が、娘御を取り戻したいのなら、上町にある貴方の夫の実家の近く、そこの宮に行きなさい。」
「お知らせくださりありがとうございます。でもあれももう大人です。慕い慕われる殿方が現れてくれたのなら、あれはもう、その人のものです。わたくしは十分、この眼に焼き付けましたので、これからの苦難は、あの方が共に支えてくれるでしょう。」
「では、貴方は彼女の下には戻らないおつもりか。」
「嫁いだ娘の手を煩わせたくありませんし、今の私には夫が居ますから、大丈夫です。ご心配有難う。」
「では、この神殿に入って、すぐ右をご覧なさい。そこには神の路を整えた、最後の預言者の父がいる。他の祭司たちは、貴方を知っているが、彼は今の貴方しか見たことが無いから、貴方の身に起きた恩寵を認めるだろう。」
「ありがとうございます。その通りにします。」
「それから、少年よ。」
「え、ぼくですか?」
出来る事ならやり過ごしたかった。まるでもう、司祭に罪を赦してもらったかのように嬉しそうな
「貴方方には
「はあ…。どうも。」
「行きなさい。貴方たちを待っている人が居る。」
待たせているという自覚があるなら話しかけなければいいのに、と、
神殿の中は外の熱を遮断しており、少し涼しいが、何かの煙が充満している。生贄の煙ではなさそうだが、香にしては濃い気がする。いずれにしても鼻が曲がりそうだ。
「お待ちしておりました。
突然呼ばれて、悲鳴が舌から胃の中に落ちる。
「貴方が、預言者の御岳父?」
「如何にも。」
「貴方に、病の穢れが無くなった事を証明して貰うようにと言われました。やってくださいますか?」
「如何にも。」
「いや、無理でしょう。」
「ご覧の通りですよ、妃殿。彼も
「ですが、あの人の遣わした人がそう言ったのですよ。」
「あの男がどういう身分の者かも分からないのに、これから先、妃殿の一生の在り方を決める大事な祭司を、こんな老いらくにする方が間違えています。きちんとした祭司に認められなかったと、難癖をつけるのが律法学者たちの仕事です。」
「如何にも。槍兵よ、貴方の見識は正しい。ですが、わしはこのお役目を命じられ、それを受け取ったのです。これを成さぬことには、主の前に戻ることなど出来ませぬ。」
「
「如何にも。では夫人よ、少し、お顔を触りますぞ。」
ええどうぞ、と、
「何だお前達。彼女は見世物じゃないぞ!」
「如何にも、如何にも! 貴方からは病の穢れが無くなっている。この神殿で捧げ物をして、貴方の帰るべき所へ帰るが良い。」
「はい、ありがとうございます。」
「素晴らしい! この祭司は、三日前にこの神殿に復帰してきたばかりの古い私たちの友人です。どんな質問にも答えられる、神について深く学ばれた信仰深い方なのです。仕事を一つだけ任されたと言って、ずっとそこに座っていたのですが、いやはや、その女を祝福する為だったとは! 良い祭司を遣わされましたな。」
「はあ…。とにかく、これで彼女は、穢れの無い身ですから、これからエルサレムで暮らしても問題ありませんよね?」
「無論ですとも。」
「良かったです。では、ぼく達はこれで。」
とにかく面倒くさそうなので、
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