第十五節 中風

 全てが上手く行ったことを見届け、天眼てんがんはほっと溜息を吐いた。目の前で眠る旧友であり恩人でもある彼は、まだ魘されている。隣に横たわる腰元だけ覆った蘭姫あららぎひめが、汗を指で拭うと、深く呼吸し、小さな消え入りそうな呼吸をしばらく続ける。

 半刻ほど前、生気がなく、荒野の岩肌のような色合いになった。まさかまさかと騒がしい仲間達を、どうにか弟が抑えてくれた。天眼てんがんは、自分たちの祖先である大王が老いて尚生きた理由を思い出し、若いおと女に体温を分けて貰えば、と提案した。すると女たちは自分たちの年齢など忘れて諸手を挙げて群がったが、またしてもそれを弟が抑えた。一連の流れを聞いていたのかどうか、定かではないが、縺れた舌を動かすことも出来ず、彼はずっと、蘭姫あららぎひめを見つめていた。それに気付いた天眼てんがんは、弟に命じて、ねぐらの中で一番奥深く、入口も狭い部屋に頭領を運ばせた。何人もぞろぞろと付いて来ようとしたが、抑える役目は手が塞がっていても出来る。流石は若頭わかがしと呼ばれるだけはある、と、感心しながら、蘭姫あららぎひめだけを連れて、部屋に入れた。弟を外に出してから、天眼てんがんはもう一度、彼の頬に布を押し付ける。天眼てんがんの眼では、汗は見えないのだ。

蘭姫あららぎひめ、私はさっき言った添い寝の役目は、君が一番いいと思っている。この部屋なら、あの入口以外に出入り口はないし、君の身体が見られる事はない。私も外に出て、おとう―――若頭わかがしと入口を見張っているから、君はどうか、服を脱いで寄り添っていてやってくれないか。…頭領も、君の事は特別―――、気に入っているしね。」

 蘭姫あららぎひめがどんな顔をしているのか、天眼てんがんには分からなかったが、頷く時に動いたらしい髪の音が聞こえた。

「でも、天眼てんがん様、私一人では不安です。どうか貴方だけは、ここにいらしてください。」

「私は構わないが、君はいいのかい。めくらとはいえ、男の前だよ。」

「私が一緒にいて欲しいのです。一人で、アバに何かあったらと思うと、不安で、怖くて、…だから。」

「…わかった、わかったよ。なるべく平素のようにしているから、泣かないで。音声おんじょうはこの家族の中で、君だけは特別に愛しているんだから、その君が泣かないでくれ。」

 衣擦れの音が始まったので、天眼てんがんは手探りで壁を見つけ、そこに胡坐をかいてもたれ掛かった。天眼てんがんは女の裸というものを見た事がない。好色な男や粗忽者そこつものが、自分のようにどこかが不自由な女をどのように扱うのかは知っているし、そのような男の眼に映るものがどのようなものかも知っている。だが天眼てんがんの『目』としては、一度たりとも女の裸を見たことはなかったのだ。触れればどのような体温なのか、布を挟まず抱きしめる温もりはどのようなものか、それらは、自分の母親役であった女預言者の老体でしか知らない。若い娘、美しい女と呼ばれたり、形容されたり、評価されうる者を、天眼てんがんは見たことが無いのだ。

 どのように想像力を働かせても、天眼てんがんにとってそういう意味での女の裸と言うものは知識にすらなかった。自分のような、見えなくなるという罰を具現化した男の、それも父親を証明できない男の子供を産みたがる女などいない。別にモノが機能しなくても構わない、と、ずっと思っていたのだ。しかしはて、この状況で、もし自分のモノが機能してしまうようなことがあった場合、弟を入れる訳にもいかないし、どのように彼女を傷つけることなく、事を荒立てず解決するのだろうか。

 しかしそれらは全て杞憂だった。衣擦れの音の仕方から、恐らく腰の周りには僅かに下着を纏って、蘭姫あららぎひめは頭領の腕の中に入り、ぴったりとくっついているらしい。いじらしいものだ。そしてそんな二人の情愛に水を差すような無体な真似を、自分の身体はしなかった。


 嗚呼、音声おんじょう音声おんじょう。なんてお前は残酷なんだ。

 所詮、お前は貴族の子供でしかないのか。石で破壊された母の顔を想像した事があるか。首を括った母の顔を想像した事があるか。淫乱と罵られ、尚も犯される道でしか食っていけない女の末路を想像した事があるか。知っているだろう、音声おんじょう。如何にして妻を体よく捨てるか、議論するあのパリサイ人達よりも地位のある家に育った、我が同胞。我が兄弟。祖先を同じくし、母を同じように亡くした我が同胞よ。このねぐらに、唯一つ、たった一つの家族が成り立つ事を、許す者などいるものか。皆母を亡くしたのだ。皆妻を、夫を持つことなど出来まいと諦めているのだ。私達の悲しい覚悟を知っているお前なら、分かっているだろう、その中に、この私もいることが!


「………。」

 蘭姫あららぎひめ時折音声おんじょうに口付け、唇を通して精気を分け与えようとしているようだった。天眼てんがんの視野の更に向こうから、柳和やなぎわ真槍しんそう、そして顔の上半分を覆った女が、馬に乗って駆けてくるのが見える。

おと真槍しんそうたちが戻ってくる。一緒に連れている顔の隠れた女が、頭領の求めている人だ。部屋の前までお連れしなさい。そうしたら、一人で部屋の中に入ってもらいなさい。」

「わかりやした、アニィ!」

 弟は付きっきりの自分に配慮しているのか、努めて明るく答えて、元気よく外へ出て行く足音が響いてきた。そんなことをされなくても、天眼てんがん音声おんじょうの命はそれ程気になっていない。天眼てんがんもまた、音声おんじょうが、音声おんじょうが教えてくれた『預言の救い主』だと確信している。彼が信じてくれているから、その権能を借りて、自分は奇跡を起こすことが出来得る。だから音声おんじょうが、こんな道半ばどころか薄汚い吹き溜まりで死ぬなどあり得ないのだ。救い主が破れるとしたら、それは長きに渡りイスラエル民族が語り継いできた神との約束が破られる時。その時こそ、神に選ばれた民は滅びる。この世で一等愚かな民族であるが故に、イスラエル民族は未来での救済を約束されていると言う。それをこの一団の中でだれよりも理解している音声おんじょうだ。こんな所でくたばる訳がないのだ。

 とんとんとん。

「扉は開いています。恐ろしいでしょうが、この先に私以外の男を入れる訳にはいきませんので、手探りでお入りになってください。」

「私の夫は、この部屋にいるのですか。」

 その通りです、と、天眼てんがんが応えようとしたところで、蘭姫あららぎひめが身体を起こした。

天眼てんがん様、どなたですか? アバはお休みになったばかりです。御引取願ってください。」

「そうお言いでないよ、蘭姫あららぎひめ。頭領のお求めになっていた御方だ。」

 扉がそっと開き、女が―――瑠璃妃るりきさきが入ってくる。そっと地面に手を付いて、眠る音声おんじょうを探している。瑠璃妃るりきさきの荒れた指先が、音声おんじょうの熱を持った手首に触れた途端、瑠璃妃るりきさきは飛びつくように這って、頭を探り当て、抱きしめた。

「ああ、貴方、こんなになってしまって…。」

天眼てんがん様、この方はアバの何なのですか?」

 天眼てんがんが答えようかと思いあぐねていると、ふんわりとした胸乳の匂いに、音声おんじょうが目を開いた。

「………、瑠璃るり………。」

「貴方、此処にいますわ。」

 まだ朦朧としているらしく、音声おんじょうは幸せそうに目を細めた。蘭姫あららぎひめはそれを見るだけで、瑠璃妃るりきさき音声おんじょうの特別な思い入れのある女であると気付いたが、よもや彼女が自分の産みの親とは気付くはずもなかった。音声おんじょうから見れば、末期に決して出会えまい、出会うまいと思っていた、家族の団欒が今ここに適ったのだ。親友の事を想うのなら、席を外すべきだ。けれども立ち上がれなかった。眼が見えないからではない。見ていたいからだ。自分の眼は、過去と今しか視えないのだから。

 だからせめて、天眼てんがんは気を静め、身を沈めて潜んでいることにした。

「アバ、まだ寝ていてください。」

「ん…、あららぎ、も、いるのか。…こっちに、おいで…。」

 すりすり、と、素肌を重ね合わせ、音声おんじょうの腫れあがっていない方の腕の中に入り、頬に口付ける。ぐったりとした指先が少し動き、蘭姫あららぎひめを抱きしめようとしたようだが、出来なかった。頭を少しだけ傾けて、唇に頬を擦り付ける。


 嗚呼、なんて、幸せそうに笑うんだ。

 彼はここでも、いつでも、父親に違いない筈なのに。彼は私を、弟を、仲間を、娘息子だと言って、本当にそのように接している筈なのに。

 なんで幸せそうに笑うんだ。何故私たちと笑う時のように笑わないんだ。


瑠璃るり、いい…むすめ、を、…ありがとう…。」

「アバ? 何を仰ってるんですか?」

「貴方………。大丈夫です、これからはずっと、ずっとお傍に居ります。ですから、彼女の為にも生きてください。」

 彼女は蘭姫あららぎひめの言葉が聞こえていないようだった。無理もない。二人はお互いを退けることでしか、愛し合えなかったのだ。臨終の床で、言葉を交わすことを、誰が責められようか。

「………?」

 蘭姫あららぎひめは見つめ合う二人が、どうやら訳ありの恋仲だったことに気付き、離れようとしたが、だめ、と、音声おんじょうが首を振った。

「るり、…ひざ、してくんねェか…。昔、………、…に。」

 瑠璃妃るりきさきが言われた通りに頭の方へにじり寄り、手探りで頭を持ち上げ、背中の上部ごと頭を膝に乗せた。ずっと寝たきりだったからか、こき、と、骨が鳴る。その音が、まるで命の枝が折れるかのように、部屋に響く。瑠璃妃るりきさきが膝の上に乗せた音声おんじょうの頭を抱え込み、角度を変えて、何度も接吻くちづけたが、すれ違うようにその唇は上手く触れられなかった。

「貴方、貴方。今度は、三人でエルサレムに詣でましょう。次の満月が、過越祭です。だから、だから…。」

「………、るり。あした、…エルサレム、から、しょうにん…が、魚を…もっている、のを、見つける。…その、肝を、目に塗れば…。治る、はずだ………。それで、ここに、いればいい。だから…。………。」

「………貴方?」

「アバ!」

 音声おんじょうはそのまま、ぱったりと目を閉じたまま、三日間、目を覚まさなかった。


 天眼てんがんの計らいで、なんとか瑠璃妃るりきさきは、音声おんじょうの昔の恋人で、村八分になって乞食に貶められている所を助けた、という名目でねぐらに住むことを認めて貰った。蘭姫あららぎひめの時は、若く美しい娘が入ったと言うことで、目をつぶられていた問題が、ここにきて噴出してしまう。天眼てんがんの憂慮の通りになった。

 音声おんじょうの言った通り、翌日商人の男が、売れ残った雑魚の捨て場所を探している所を、若頭わかがしとその部下の一人が見つけた。男は機嫌がよく、雑魚はほぼすべて、タダで譲ってくれたと言う。若頭わかがしがどうしてそんなに機嫌がいいのかと聞くと、男はこう答えたという。


 ―――元々おれは、生まれた時から目が見えなかったんだ。いつものようにエルサレムで物乞いをしていたら、いつものようにからかう奴らが来たんだよ。そうしたら、いつもは嘲笑う声が続くのに、その声を叱るお声があったんだ。ただ、あまりに突然だったんで、何を言ったかまでは分からなかった。するとその声のお方は、おれに近づいて来て、泥を捏ねておれの目に塗って、シロアムの池で洗えと言った。その預言者の言う通りにしたら、目が明いたんだ。その日は安息日だったんで、律法学者どもにいちゃもんつけられた挙句、どつかれてよ。仕方ないから、ヨルダン川で網を借りて漁をやってみたんだ、仕事なんてしたことなかったからね。ところがどうだい、記念すべき一投目の成果が、この雑魚だ! 貸してくれた漁師はカンカンさ。こいつらがいくらになるのか、どんな金を貰えばいいのか、それすら教えてくれなかったんだ。そしたら、黄色い綺麗な衣を来た天使が、今日は一人だけ客が来るから、こっちの方に行けっておっしゃったんだ。だから今日、初めてのおれの客に、全部やろうって決めてたんだよ。


 盲人だったと明るく話す不細工で不衛生な男の演説は、盲目の兄を持つ若頭わかがしにはよく焼きついた。しかしこの魚売りは、魚籠をどすんと二人に渡し、辟易している二人を置いて、さっさとどこかへ行ってしまったので、預言者について聞く事は出来なかった。しかしとにかく、新鮮な魚を頭領に食わせなければ、と、慌てて持って帰って来た若頭わかがしは、兄の頭領の預言の言葉を聞いて、ぴちぴちと跳ねていた元気な魚を小刀で切り開いた。青々とした緑色の、小指の爪程の臓器が、あまりに綺麗で宝石のようだった。きっとこれが一番貴重で高価なものだ、と、判断し、若頭わかがし天眼てんがんの手に乗せた。

 天眼てんがんはこの肝―――胆嚢を使えば、音声おんじょうの傷は治るだろうと考えたが、奇跡は天眼てんがんの一存では起こらない。自分が希い、音声おんじょうが許可して、初めて奇跡が起こる。であれば、音声おんじょう瑠璃妃るりきさきの目を治す為に用意させたこの胆嚢を、逆に音声おんじょうに使えば、確実に神の怒りに触れるだろう。歯がゆく思いながらも、天眼てんがん若頭わかがしに手伝ってもらい、瑠璃妃るりきさきの目にすりつぶした胆嚢を塗り、土で叩いて、井戸水で漱ぎ、香油を塗って消毒させた。すると、瑠璃妃るりきさきの瞳は、両方とも美しい夜鳥羽色になって開かれた。これは天眼てんがん真槍しんそうしか気づかなかったが、瑠璃妃るりきさきはその時初めて、蘭姫あららぎひめが自分と音声おんじょうの娘であること、彼女は自分の本当の父親を知らない事を理解したようだった。だが、その歓びを最も分かち合いたかっただろう音声おんじょうは、すやすやと眠っているだけで、何も言えなかった。

 そして夜が来て、朝が来た。音声おんじょうが眠りについて二日目の朝だった。

 瑠璃妃るりきさきが皆に礼を言いたいと言い出した。そしてこれからも、頭領の世話をしたいから、仲間に入れてほしい、とも言った。天眼てんがんはそれだけは止めておいた方がいい、と、何度も止めたが、なんというか、血は争えないのか、蘭姫あららぎひめは恋敵の筈の瑠璃妃るりきさきに懐いてしまったのだ。蘭姫あららぎひめの意見を退ける事は簡単だ。天眼てんがんにはそれだけの信任がある。だがそれだけに、音声おんじょうが目覚めた時、沈んでいる蘭姫あららぎひめを見たら、また臥せってしまうのではないかという心配の方が先んじた。仕方なく天眼てんがんは、仲間達にまだ頭領の容体を伝えるのは早い、と、それとなく言葉を濁し、蘭姫あららぎひめと共に部屋に籠るように言った。若頭わかがしは今まで、付き添う蘭姫あららぎひめと不安な心を分け合っていたので、頭領にも会えない、蘭姫あららぎひめにも会えない、となって、益々シュンとしていた。若頭わかがし天眼てんがんから見れば、組織の人間である以前に弟だ。この粗忽者そこつものが一人の女性に特別な気持ちを持っているのは、今は本人以外誰もが知っている。蘭姫あららぎひめが薄々感づいていながら、無反応で通しているから誰も言わないだけだ。蘭姫あららぎひめに涙を拭く手拭いを渡すだけの役を取られたことに、若頭わかがしは少々不満だったようなので、食事を持って行く役を任せる事にした。本来ならそこも天眼てんがんがやりたい位に、三人は大きな腫れ物だったが、部屋の前に置いて、声をかけるだけで戻るようにするところで妥協することにした。それを決めたのが、昼食の前だ。午後になると何とか若頭わかがしを説き伏せて、外へ薬を探しに行かせた。アニィの眼で探せないんすか、とは言わなかった。天眼てんがんがそのようなものが見えていない事は、彼が良く分かっている。夜、日も落ちて暫く、薄暗い中に星がいくつか見える頃になるまで探したが、やはりというか、それらしいものは見つけられなかった。

 夜が来て、朝が来た。音声おんじょうが眠りについて三日目の朝だった。

 朝食を皆で摂る前、昨日と同じように三人分をより分けるように若頭わかがしに言ってから、自分は一人で壁を伝って食卓まで歩いた。頭領のいない食卓で、柳和やなぎわがぺたぺたと歩き回る音がひっきりなしにする。

柳和やなぎわ、そう苛々するものではないよ。」

 蘭姫あららぎひめに嫉妬しつつ、若頭わかがしをいい気味だと思っているのは、恐らく若頭わかがし以外なら誰でも分かる。すちゃ、と、足首が止まったが、すぐにぱたぱたと貧乏揺すりが始まった。

柳和やなぎわ。」

「だっておじ様、瑠璃妃るりきさき殿は、お頭様とうさまがお望みになられた御方ですからそれで。でも彼女をお連れしたぼくが、どうしてあの部屋に行けないんです?」

「行ったとしても、今音声おんじょうはお前に礼を言う事も出来ないんだよ。」

「そーゆうことじゃありませんっ!」

蘭姫あららぎひめに悋気を起こしても仕方ないだろう、こればかりは。大体お前は音声おんじょうの初めの―――。」

 その時、どたどたと若頭わかがしが走って来る音がした。何か音声おんじょうにあったのだ。

「アニィ! 柳和やなぎわさん! 頭領が、頭領が目を覚ましやしたッ!!!」

「なんだって!」

 お連れします、と、若頭わかがし天眼てんがんの手を取るより早く、柳和やなぎわが駆けだした。いつの間にかその傍に真槍しんそうもいる。私も俺もと人が殺到しようとするのを、何とか制し、天眼てんがんも部屋に飛び込んだ。

音声おんじょう!」

 天眼てんがんの目に、音声おんじょうの涙で潤んだ視線が注がれる。伝わってくる呼吸音は静かで、部屋もそれほど暑くない。むっとした毒の雰囲気はしない。熱が引いたのだ。

天眼てんがん、ありがとうな。心配かけた。」

「全く…! お前が彼女に逢いたいなんて言うから、どうしたものかと思ったよ。柳和やなぎわに礼は言ったかい?」

「ウン、お前より早く来たからな。」

 へへへ、と、音声おんじょうが悪戯っぽく笑う。いつもの威厳のある自信に満ちた言動ではなく、その仕草は小柄で子供っぽい。天眼てんがんは腰を抜かすように音声おんじょうの傍らに座り、手を探り当てて握りしめ―――違和感に気付いた。

「………? 音声おんじょう、これは君の手か?」

「ウン、そうだ。」

「………? これは?」

「俺の右手だ。」

「………これは?」

「俺の左足だ。」

「………これ。」

「俺の右足。」

「………。」

「それはちんこだ、触るな女の前だぞ。」

「ああ、ごめん。」

 ふふっと蘭姫あららぎひめが笑った声がする。

 なんだろうか。天眼てんがんには、音声おんじょうがまだ病床のように視える。声は溌剌とは言わないが、いつもの声に戻っている。

「…音声おんじょう、なにかおかしなことはないかい?」

「あー、それなあ。」

 うーん、と、音声おんじょうが唸る。先ほどまで安心して静かだった胸の内が、茨の枯草のようにこんがらがって捩れる。

「どうも、中風になっちまったみてえだ。あんだけ熱出てりゃしゃーねーわな。」

「ちゅうぶ。」

 努めて明るく話そうとする音声おんじょうの声帯が震える。天眼てんがんは子供のように鸚鵡返しをし、ちゅうぶ、ちゅうぶ、と繰り返していたが、ハッとして身を乗り出した。

「中風だって!?」

「いたたた! 重い重い! 鳩尾! 鳩尾!」

「中風だって、音声おんじょう! 嘘だろう、君が一体何の罪を犯したって言うんだ!」

「重い重い! 退け天眼てんがん! 落ち着け!」

 若頭わかがしが肩に手をかけ、ゆっくり引き剥がす。うそだ、うそだ、と、震える天眼てんがんの掌に、若頭わかがし音声おんじょうの手を乗せる。ただ、その指先に力は入らず、血が巡っている事しか分からない。その掌からは確かに人の営みの音が聞こえて来るのに、その血は穢れに支配され、重たく動かない。ぽろぽろ、と、天眼てんがんはその掌を取り、口づけた。

「まあ、山賊の頭なんかやってっからなあ、そりゃ罪の一つや二つ、あるわなあ。」

「だからって…。それなら私達全員が中風にならなきゃおかしいじゃないか。なんで、何で君だけが…。」

「…泣くなよ、天眼てんがん。みっともない。これからはもしかしたら、お前と俺で、二人で一人の頭領かもしれねえぞ? お前が視て、俺が語るようになれば、ねぐらから動かなくたって指揮が出来る。」

「そんなバカな戦いがあるか。どうして、あれだけの熱病をも跳ね除けたのに!」

「あれだけの熱病で、中風で済んだんだからいいと思ンだがなぁ。なぁ、お前ら?」

 音声おんじょうはぐるりと周囲に視線を動かしたようだが、誰もそれに賛同しなかった。

「…そうがっかりするな。何、そう遠くない内に元に戻る。そんなことより、次の仕事の話がしたい。悪いが天眼てんがん真槍しんそうと、それから柳和やなぎわ。三人以外、出てくれないか。俺は元気だからと、他の皆も安心させてくれ。中風のことは俺から話すから、言うなよ。」

「頭領、あっしは?」

 若頭わかがしが身を乗り出す。音声おんじょうは答えた。

「悪いな、お前は今日はお預けだ。先に言って、飯の支度を整えておいてくれ。」

「さあ、さっさと行けよ!」

 行った行った、と、柳和やなぎわが邪魔な面々を追い出す。柳和やなぎわが戦力として数えられることは偶にあるが、若頭わかがしが戦力外なことは珍しい。皆不思議そうにつぶやいていたが、柳和やなぎわが発破をかけると大人しく出ていった。柳和やなぎわが最後の一人の背中が廊下から出て行くのを確認し、扉を閉める。ふむ、と、音声おんじょうはそれに満足し、それでも声を低くして言った。

「熱の間に考えてたことなんだが…。天眼てんがん、お前、若頭わかがし―――おとがもし所帯を持つ事になったら、どうする?」

「え?」

「…あららぎを、嫁がせてやりたいと思うんだ。」

 ………。

「エー!?」

「うるさいぞ、真槍しんそう。」

 ぺんっと柳和やなぎわが脚を蹴飛ばす音がする。天眼てんがんは手を握りしめ、答えた。

「それは、どういう意味だい?」

「おいおい、お兄さんよ、まさかあいつがあららぎに惚れてる事に全く気付いてないわけじゃないだろ。」

「そんなことは分かってるッ!!!」

 自分で叫んで驚くくらいには、天眼てんがんは動揺していた。だが、一度叫んだら、もう止まれなかった。

天眼てんがんさ―――。」

音声おんじょう、君はなんて残酷なんだ。今までずっと、私は君の一番傍にいて、あの汚れた家から私達を助け出して、私の『眼』を信じてくれたのは誰だ? 私を悪霊憑きではなく、大王の子孫だと認めてくれたのは誰だ? 私の視る世界を全て同じように視て、信じてくれたのは? 全部、ぜんぶ、君じゃないか、音声おんじょう!」

天眼てんがん…。」

「だのに君は! 去年あのマグダラ村の婚礼を襲ってから変わってしまった! 奪われたものを思い出して、その温かさにずるずると引っ張り込まれて、私達がそれをどう見ていたか、分かろうとすることさえ忘れてしまった! あまりに彼女が不憫だと思ったから君に教えたのに、君があまりに切ないと思ったから君に教えたのに、君は忘れてしまったじゃないか、家族を持てない私たちの事を!」

天眼てんがん。」

「この上まだ、何故見せつけるんだ! 私には息子も娘もいない。欲しかったけれど、結婚の準備をする前に母さんは死んでしまった。父親どころか母親も碌に知らない私を、働く事も出来ず道端にパンが落ちていたって分からない私を、一体誰が夫にして、父親にしてくれると言うんだ。君がこの一味を家族のように、息子のように、娘のように愛しているから、私はここで母である事が出来たのに、それを独りで自分だけ父親に戻りやがって、一体これ以上何を切り刻めば、君は戻って来てくれると言うんだ! 私から弟まで奪おうと言うのか、もう私は、君と言う父をあの娘に、君と言う兄をあの女に奪われてしまったと言うのに、君だけが、私の世界を照らす光なのに!!!」

天眼てんがん!!」

「もう好きにしろ。もう私は眼を君に貸さない! 私から何もかも奪って、その身体の儘ゲヘナに堕ちてしまえ! そこでもがいたって、私は助けに行ってやらないし、逃げ道だって教えてやらないから!」

天眼てんがん、待て、落ち着け、どこに行くんだ!」

めくらだと思って馬鹿にするな。少なくと中風の男よりは好きな所に行ける! もう知らない。君なんか知るもんか。君なんて知らない! 何でも好きにしたらいい、もう私の届かない所に、皆を連れて行ってしまうんだから!」

柳和やなぎわ、ついて行ってやれ、怪我をしないように。」

 本当に目が見えているかのように、天眼てんがんは立ち上がって外へ飛び出していった。おじ様、落ち着いて、待って、と言った柳和やなぎわの声があっという間に遠くになる。ぽかんと残された真槍しんそうは、どうしたものかと交互に顔を向けたが、結局頭領の枕元に座りこんだ。いくら自分が主に定めた男とはいえ、今はより長い年月を共にした人間が傍にいる方がいいだろう。

「頭領…。」

「仕方ないな。真槍しんそう、お前だけでもいいから、俺の考えを聞いてくれないか。」

「………。分かりました。」

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