第十五節 中風
全てが上手く行ったことを見届け、
半刻ほど前、生気がなく、荒野の岩肌のような色合いになった。まさかまさかと騒がしい仲間達を、どうにか弟が抑えてくれた。
「
「でも、
「私は構わないが、君はいいのかい。
「私が一緒にいて欲しいのです。一人で、アバに何かあったらと思うと、不安で、怖くて、…だから。」
「…わかった、わかったよ。なるべく平素のようにしているから、泣かないで。
衣擦れの音が始まったので、
どのように想像力を働かせても、
しかしそれらは全て杞憂だった。衣擦れの音の仕方から、恐らく腰の周りには僅かに下着を纏って、
嗚呼、
所詮、お前は貴族の子供でしかないのか。石で破壊された母の顔を想像した事があるか。首を括った母の顔を想像した事があるか。淫乱と罵られ、尚も犯される道でしか食っていけない女の末路を想像した事があるか。知っているだろう、
「………。」
「
「わかりやした、アニィ!」
弟は付きっきりの自分に配慮しているのか、努めて明るく答えて、元気よく外へ出て行く足音が響いてきた。そんなことをされなくても、
とんとんとん。
「扉は開いています。恐ろしいでしょうが、この先に私以外の男を入れる訳にはいきませんので、手探りでお入りになってください。」
「私の夫は、この部屋にいるのですか。」
その通りです、と、
「
「そうお言いでないよ、
扉がそっと開き、女が―――
「ああ、貴方、こんなになってしまって…。」
「
「………、
「貴方、此処にいますわ。」
まだ朦朧としているらしく、
だからせめて、
「アバ、まだ寝ていてください。」
「ん…、
すりすり、と、素肌を重ね合わせ、
嗚呼、なんて、幸せそうに笑うんだ。
彼はここでも、いつでも、父親に違いない筈なのに。彼は私を、弟を、仲間を、娘息子だと言って、本当にそのように接している筈なのに。
なんで幸せそうに笑うんだ。何故私たちと笑う時のように笑わないんだ。
「
「アバ? 何を仰ってるんですか?」
「貴方………。大丈夫です、これからはずっと、ずっとお傍に居ります。ですから、彼女の為にも生きてください。」
彼女は
「………?」
「るり、…ひざ、してくんねェか…。昔、………、…に。」
「貴方、貴方。今度は、三人でエルサレムに詣でましょう。次の満月が、過越祭です。だから、だから…。」
「………、るり。あした、…エルサレム、から、しょうにん…が、魚を…もっている、のを、見つける。…その、肝を、目に塗れば…。治る、はずだ………。それで、ここに、いればいい。だから…。………。」
「………貴方?」
「アバ!」
―――元々おれは、生まれた時から目が見えなかったんだ。いつものようにエルサレムで物乞いをしていたら、いつものようにからかう奴らが来たんだよ。そうしたら、いつもは嘲笑う声が続くのに、その声を叱るお声があったんだ。ただ、あまりに突然だったんで、何を言ったかまでは分からなかった。するとその声のお方は、おれに近づいて来て、泥を捏ねておれの目に塗って、シロアムの池で洗えと言った。その預言者の言う通りにしたら、目が明いたんだ。その日は安息日だったんで、律法学者どもにいちゃもんつけられた挙句、どつかれてよ。仕方ないから、ヨルダン川で網を借りて漁をやってみたんだ、仕事なんてしたことなかったからね。ところがどうだい、記念すべき一投目の成果が、この雑魚だ! 貸してくれた漁師はカンカンさ。こいつらがいくらになるのか、どんな金を貰えばいいのか、それすら教えてくれなかったんだ。そしたら、黄色い綺麗な衣を来た天使が、今日は一人だけ客が来るから、こっちの方に行けっておっしゃったんだ。だから今日、初めてのおれの客に、全部やろうって決めてたんだよ。
盲人だったと明るく話す不細工で不衛生な男の演説は、盲目の兄を持つ
そして夜が来て、朝が来た。
夜が来て、朝が来た。
朝食を皆で摂る前、昨日と同じように三人分をより分けるように
「
「
「だっておじ様、
「行ったとしても、
「そーゆうことじゃありませんっ!」
「
その時、どたどたと
「アニィ!
「なんだって!」
お連れします、と、
「
「
「全く…! お前が彼女に逢いたいなんて言うから、どうしたものかと思ったよ。
「ウン、お前より早く来たからな。」
へへへ、と、
「………?
「ウン、そうだ。」
「………? これは?」
「俺の右手だ。」
「………これは?」
「俺の左足だ。」
「………これ。」
「俺の右足。」
「………。」
「それはちんこだ、触るな女の前だぞ。」
「ああ、ごめん。」
ふふっと
なんだろうか。
「…
「あー、それなあ。」
うーん、と、
「どうも、中風になっちまったみてえだ。あんだけ熱出てりゃしゃーねーわな。」
「ちゅうぶ。」
努めて明るく話そうとする
「中風だって!?」
「いたたた! 重い重い! 鳩尾! 鳩尾!」
「中風だって、
「重い重い! 退け
「まあ、山賊の頭なんかやってっからなあ、そりゃ罪の一つや二つ、あるわなあ。」
「だからって…。それなら私達全員が中風にならなきゃおかしいじゃないか。なんで、何で君だけが…。」
「…泣くなよ、
「そんなバカな戦いがあるか。どうして、あれだけの熱病をも跳ね除けたのに!」
「あれだけの熱病で、中風で済んだんだからいいと思ンだがなぁ。なぁ、お前ら?」
「…そうがっかりするな。何、そう遠くない内に元に戻る。そんなことより、次の仕事の話がしたい。悪いが
「頭領、あっしは?」
「悪いな、お前は今日はお預けだ。先に言って、飯の支度を整えておいてくれ。」
「さあ、さっさと行けよ!」
行った行った、と、
「熱の間に考えてたことなんだが…。
「え?」
「…
………。
「エー!?」
「うるさいぞ、
ぺんっと
「それは、どういう意味だい?」
「おいおい、お兄さんよ、まさかあいつが
「そんなことは分かってるッ!!!」
自分で叫んで驚くくらいには、
「
「
「
「だのに君は! 去年あのマグダラ村の婚礼を襲ってから変わってしまった! 奪われたものを思い出して、その温かさにずるずると引っ張り込まれて、私達がそれをどう見ていたか、分かろうとすることさえ忘れてしまった! あまりに彼女が不憫だと思ったから君に教えたのに、君があまりに切ないと思ったから君に教えたのに、君は忘れてしまったじゃないか、家族を持てない私たちの事を!」
「
「この上まだ、何故見せつけるんだ! 私には息子も娘もいない。欲しかったけれど、結婚の準備をする前に母さんは死んでしまった。父親どころか母親も碌に知らない私を、働く事も出来ず道端にパンが落ちていたって分からない私を、一体誰が夫にして、父親にしてくれると言うんだ。君がこの一味を家族のように、息子のように、娘のように愛しているから、私はここで母である事が出来たのに、それを独りで自分だけ父親に戻りやがって、一体これ以上何を切り刻めば、君は戻って来てくれると言うんだ! 私から弟まで奪おうと言うのか、もう私は、君と言う父をあの娘に、君と言う兄をあの女に奪われてしまったと言うのに、君だけが、私の世界を照らす光なのに!!!」
「
「もう好きにしろ。もう私は眼を君に貸さない! 私から何もかも奪って、その身体の儘ゲヘナに堕ちてしまえ! そこでもがいたって、私は助けに行ってやらないし、逃げ道だって教えてやらないから!」
「
「
「
本当に目が見えているかのように、
「頭領…。」
「仕方ないな。
「………。分かりました。」
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