第十四節 癩(らい)の谷

 酷い目に遭った。ローマの百人隊に居る時、年若い兵士が精通を迎えたり、逆に年老いた兵士が夢精をしたと皆で冷やかしたりしたことはあったが、こんな恥ずかしい目に遭ったのは初めてだ! よりにもよって自分が敬愛している柳和やなぎわで淫夢を見るばかりか、本人に丸ごと寝言が筒抜けとは! まことにまことに、まことに恥ずかしい事この上ない! この場はどうにか謝り倒すとして、ねぐらに帰ったら一体どんな顔をしていればいいのだ。唯でさえ柳和やなぎわは頭領の左腕と言われて、皆にも認められている。具体的に聞いたことはないが、皆と過ごした時間も長ければ、信頼も置かれている。何といったって、柳和やなぎわの食事は本当に王族、否、王そのものだ。どってりと座って足を揃え、口を開けるだけで、柳和やなぎわの思う通りの物が、思う通りだけ運ばれる。柳和やなぎわは決して、手仕事をしない。する必要が無いのだ。誰もが柳和やなぎわを愛でて惜しまない。そして柳和やなぎわは、それに感謝するような事もしない。それがすべて、当たり前だと言って、満足そうに微笑むのだ。

 そんな、一団の華を穢そうとしたと気づかれてみろ、どんな私刑を積み重ねられて死刑に処せられるか分かったもんじゃないッ!


 馬を駆りに駆って、小高い丘の上で立っている柳和やなぎわの馬に追いつく。何故立っているのかと思ったが、傍に来てみれば理由は簡単で、その目前には断崖絶壁がぼんやりと飲みこむ様に広がっていた。ここがらいの谷だ。らいの病を谷に閉じ込め、この谷には風も碌に吹き込まない。だが淀んだ膿と便と汗の臭いが、むわっと吹き上がって来る。貧乏貴族の奴隷より酷い臭いだ。思わず口の中に、先程飲んだ泉の水がせり上がり、ぺっと地面に吐き出した。

「ここからじゃ、奥方を連れていけない。あっちの風下の方で、谷の入口がある筈だから、そこへまわろう。」

「え、風下? ここよりも臭いんじゃないですか?」

「嫌なら来なくていいんだぞ。お前みたいなスケベ、奥方の前に出すなんて、お頭様とうさまの名が汚れる。」

「そ、それはもういいじゃないですか…。男なら誰でもありますよ、柳和やなぎわさんだってあるでしょう?」

 すると柳和やなぎわは、かっと赤くなって吼えた。

「んなわけないだろ! どうしてこのぼくがそんなことするんだ! おま、お前と一緒にすんな、この短小早漏変態ちんカス包茎野郎!」

 フンッと喉を鳴らし、馬の脇腹を蹴る。後ろから見える耳の部分まで真赤に染まり、身売りされてきた少女のようになって、またしても凄い勢いで馬を駆った。ばかにする割に、ありゃ童貞だなあ、と思いつつ、そんな柳和やなぎわがとても麗しく思った。

 らいは罪の病だとこの国では言われているらしい。母か、父か、それとも祖先の誰かが、重い罪を犯し、その罰が子供に与えられるのだと言う。それをこの国の人々は、小さなころから教えられる。自分の罪は一族の罪だ。だからだれもが、『罪人』を赦さない。きっと本当なのだろう。風下に行けばいくほど、谷に近づけば近づく程、大地が荒れて罅割れ、草木が枯れていただけだったのが、倒れ初めて、ついには無くなって行く。動物の骨すらない。ここには生者はいないのだ。ただ罪と穢れだけがある。

 臭いが強くなっていく。柳和やなぎわはなんとも思わないのか、馬を駆る勢いに衰えはない。真槍しんそうの気が重いのが馬にも伝わっているらしく、時折鞭を強く入れないと、柳和やなぎわの馬に置いて行かれる。ずっと走っているからか、頭が揺さぶられて視界が乱れる。汗も止まらず、何度も目に入った。

休憩しよう、と、言おうとしたところで、柳和やなぎわの馬が止まる。やっとついたか、と、溜息を吐いたのがいけなかった。吐き出した分、大きく息を吸い込んでしまい、ついに我慢できずにどぼどぼと吐き戻す。柳和やなぎわはそれにぺっと臭い唾を吐き出し、目を閉じて深呼吸すると、馬に乗ったまま谷の入口から入り、少しずつ中に進みながら声をあげる。

「頼もう、頼もう! 人を探して迎えに来た! 瑠璃妃るりきさき殿、貴殿の夫がお呼びになっている! 何処においでか!」

 穴倉から、臭いの下になっている包帯と襤褸ぼろ切れの塊がうろうろと出てくる。出てくる、というより、這いずってくる、という方がいいだろう。

らいは進むと足が萎え、目が見えなくなると言う。肌はぼこぼこに膨れて引き攣り、最後には割れた大地のようになり、そこから血と膿が滲んで包帯に張り付く。指は猿や鳥のようになって、死体のように冷たく青白くなり、時には腐り落ちる。夜も昼も目をかっと見開いて、食べ物も飲み物もすべて吐き出し、ものも言えなくなるのだ。聞くだけで病に罹りそうな、狂った病気である。真槍しんそうはとてもじゃないが、入口のぎりぎり外に近づくことしか出来なかった。

「あの枯れた花を持った新顔の事かい? 一番奥にいるよ。目が見えないからね。」

 谷に、罪人の呻くような声が響く。遠目に見える柳和やなぎわは、わかったと返事をして、先に進もうとしたところで―――真槍しんそうが来ていない事に気付いた。

「何してる、真槍しんそう! お前の馬に奥方を乗せるんだぞ! そのために来たんだ、早く来い!」

「え…。」

 真槍しんそうは谷を見上げた。死んでいる様に見える者、ここからでも分かるくらいに蠅に集られている者、見えない目で何かを探している者、身体を引き攣らせ捩らせ苦しんでいる者…。神話の中でしか知らない冥界や地獄でも、ここまで酷くなかった。ここは現世でありながら冥府、生者の世界にある死者の世界、聖なるもののめぐみがある世界に置いて、邪悪な呪いの渦巻く世界なのだ。一歩でも入ったら、出られないような気がして、怖い。それに臭いが臭すぎて気持ち悪い。まじまじと谷の罪人たちを見てしまって、鼻からも目からも気持ち悪いものが入ってきて、強烈な拒否反応が現れていた。

「お前、まさか奥方をお迎えに行くのに、ここに入るのが嫌だとか言うんじゃないだろうな!」

 谷の間に柳和やなぎわの声が反響する。そんな大声で言われて、嫌だと言えるわけがない。自分だって男だ。憧れている人に良い所を見せたい。いや、でも気持ち悪いものは気持ち悪い。谷の間に、言葉にならない野次が飛び交うのも余計に不快感を煽る。

「いや…、その、いやとかじゃ、ないんですけど、でも…。」

「聞こえないぞ、真槍しんそう! 早く来い、奥方を待たせるな! ぼくは先に行くぞ!」

「行きます行きます! お願いだから置いてかないで! 柳和やなぎわさん!」

 少し前も言った台詞を、すがるように繰り返した。こんな不気味で悍ましい死の谷の中を一人で進むなんて冗談じゃない。うめき声に怯える馬を無理矢理歩かせ、柳和やなぎわの後をついて行く。谷は寝床が作られたり、それが崩れたりしてもそれを治さない為、かなり起伏が激しかった。時折やたらと虫が飛んでいる場所が見つかるが、柳和やなぎわは虫を踏み潰して先に言ってしまう。真槍しんそうの脹脛にも臭いが染みつき始めたらしく、虫が付きまとい始めた。一定の時間進むと、柳和やなぎわが声をあげる。病人達はその度に、怠そうにしながらも、まだ先、もっと奥だと答えた。ところが七度目の時、答えが返ってこなかった。

瑠璃妃るりきさき殿、おられるか!」

瑠璃虎尾るりとらのおを賜った、幸福な女でしたらここにおりますが、わたくしのことでしょうか。」

 不規則な衣擦れの音が、少し下から聞こえる。その声は真槍しんそうにとっては久しぶりに聞く、もう聞くとは思えないでいたあの女の物だった。そして柳和やなぎわは、彼女をあの神殿での野次馬の海でしか見ていない。しかしそれでも、自分の言葉に応えた筈なのに、何処にも彼女の姿が見えない。

「妃殿? 何処におられますか?」

 柳和やなぎわは馬から降り、きょろきょろと探す。真槍しんそうも降りて探すべきなのだろうが、臭いが下に溜まっていると思うとどうしても降りる事が出来なかった。柳和やなぎわはそんな事には目もくれず、どこだどこだと色々な穴に顔を突っ込んだ。

「妃殿、妃殿。」

「はい、はい。こちらにおります。まだ不慣れなのです、急かさないでください。」

「失礼いたしました。お待ちしていますので、どうぞおいでください。」

 衣擦れの音が近くなり、岩の隙間から、ひょこっと、目を包帯で覆った女が出てきた。盲人になったのか、それともそうならないように護っているのかは分からないが、取りあえず見えてはいないようで、柳和やなぎわはすぐに彼女の近くに馬を曳いて行った。

「あら? これは何かしら?」

 何もないと思っていた空間に伸ばした手が、柳和やなぎわの馬の美しい毛並みに触れる。柳和やなぎわは眼で、真槍しんそうに彼女を馬に乗せるように促し、答えた。

「ぼくの馬です。ですがこの馬は、少々難しくぼくしか乗れません。連れの者が、お乗せします。」

「お久しぶりです、奥様。」

「あら、その声は。」

 覚えていたのか。真槍しんそうは少し嬉しくなり、一言断ってから、瑠璃妃るりきさきの身体を押し上げて馬に乗せた。瑠璃妃るりきさきの身体はふらふらと揺れて覚束ないので、素早く後ろにのり、手綱を握る自分の腕の中に納める。しかしそうすると、瑠璃妃るりきさきの背中の所為で、真槍しんそうはちっとも前が見えない。

「………。真槍しんそう、悪いことは言わない。おじ様にやってもらっているように、腰を掴んでもらいな。」

「はい………。」

 再び馬から降りて、瑠璃妃るりきさきの腰を誘導し、馬の首の付け根ぎりぎりの所に跨る。腰を掴んでくる力は、まだ暗い視界に慣れていないからか、天眼てんがんよりも強かった。

「さあ、急ぐぞ。お頭様とうさまがお待ちだ!」

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