第十二節 悪霊祓い
一夜が明けてサリムの町を去り、一行はようやく
「善人が全くもって善行だけで生きていないのと同じさ。私達にだって良心がある。人を愛する心があって、神を慕う命があるんだから。」
「
「気配と溜息で、人がその人の瞳を見るように、分かることもあるよ。」
ヘェーッと大きな声で感心しているのを後ろ目に見て、ふんと
「なんだい、あの爪楊枝。おじ様を
「そう言うもんじゃないよ、
「素直だっていうなら、ぼくのお
「言うねえ。」
頭領が面白そうに笑った。
サマリア地方とガリラヤ地方の境目の辺りまで来て、連れてきた男の一人の腹の虫が鳴いた。途端に
村はサリムの村よりも閑散としていたが、飢えた様子はない。井戸の水は清く、ここからだとどの支流が一番近いだろうか、ヨルダン川から流れ込む僅かな恵みが、この村を遜色なく潤していた。
ただ、宿屋に寄ろうとすると、今日は先客がいて、もう部屋は無いと言われてしまった。とりあえず塩を恵んでもらえたので、村の広場の大樹の下に集まり、脚を休ませて塩を舐める。
「こんなカツカツの村から盗るモンねえしな。水だけもらって、早く行こうか?」
頭領はそう言ったが、一行は顔を見合わせた。
「頭領、そりゃないよ。皆腹ぺこなんだ。ちょっと村の外れに居てくれれば、私が乞食をしてくるよ。」
「おじ様が今更そんなことする必要なんてないですよ!」
「でも君に行かせる訳にはいかないよ、
「どっちも却下だ! 俺の家族がなんだって乞食なんかしなきゃなんねえんだ!」
「でも頭領ォ、腹減りました。なんでしたっけ、ほら、大王だっかが、昔麦を食べたりなんだりとか。」
「そうだ! 頭領、確か腹が減った旅人は、麦畑を荒らして良いって、律法にも歴史にもあるって言ったじゃないッスか!」
「ド阿呆! そりゃ安息日の話だろうが! 大体こんな漁村の何処に麦畑があるんだ!」
「
「じゃあ、どうするの。ここでずっと休んでいても良いけど、この樹は果樹じゃないし、その辺の草でも千切って食べるのかい? ―――や、や、や。待てよ待てよ。おい
「さあ?」
当てつけのように、頭領は足下の草を千切って、草笛を吹いた。訳の分からない一行は、何が来るのかと、脇腹を合わせるようにして円形になり、武器を抜く構えをしている。
「これから来るのは、国王の配下にいる兵士長だ。彼は強いぞ、ローマの百人隊長とも互角に渡り合える。でも彼が今ここに居るのは、休暇の為じゃなくて、彼の息子のためだ。彼の家族はエルサレムにいるからね。息子は生まれた時から悪霊に取り憑かれていて、つい数日前に来て今あの宿に泊まっている旅の預言者にも、治してもらえなかったんだ。大方そこの女将に、どっかの馬鹿な竪琴弾きが言ったのさ、『うちの連れなら治せる、奇跡を持って悪霊を追い払える』とね! ―――この無責任男! 私だって今知ったのに!」
「いンやあ、女将が役立たずな客だって愚痴ってただけで。山賊家業でも偶にァ人助けしねえとな。」
あっはっは、と、頭領は悪びれる事なく、まるで奴隷を使いに出しただけのように笑う。冗談じゃ無い、最悪だ、まぐれなのに、と、
「もし、もし! そこの旅のお方!」
「そうら来たぞ、王の子。話を聞いてやれ。」
「お前、いつか私が失敗したら、冒涜者として国王に掛け合ってやるからな。その時ばかりは、私は自分の身の上を祭司たちに言うぞ!」
恨み言を言っても、兵士長は、迷わずに
確かに自分は『王』の子かもしれないが、決して『大王の子』ではないのだから。
「お願い致します! 私の
「顔を上げて下さい、国王の側近ともあろうお方が、私のような生まれの卑しい者に頭を下げるなど!」
目の前にある兜の羽に触れ、上を向くように頬を触り、顔を上げさせるが、視線を感じない。まだ息が荒い。それに加えて、泣いているような気配もする。
「いいえ、いいえ。私の罪が、私の
「でも、私も連れも、サリムの方から歩いてきたばかりで、とても疲れています。とてもエルサレムにある貴方の家まで歩けません。馬を使っても無理でしょう。」
すると、そこに来て漸く兵士長は、
「いつ、私が貴方様を家に呼ぶと? 私でさえ、部下に『行け』と命じれば、その部下は行って、私の命令を遂行します。だから貴方様はただ一言、
つい先日、頭領が同じようなことを言って、自分に歌を歌わせたのを思い出した。あれから何度か試みているが、彼女のことがどうしても見えない。光が眩しく覆っているような、炎の根に包まれているような、そんな感じがして、彼女の姿を視認出来ないのだ。
自信が無い。これほどまでに篤い信仰心があるのに、それを叶えてやるだけの力が、自分にはないのだ。なのに、皆自分こそが『大王の子』であると信じて疑わないのだ。保証も出来ないし、その通りになったかどうかさえ視る事が出来ないのに、そんな無責任なことが言えるわけがない。彼は仕事を抜け出して、どのような処分も覚悟の上でこんな所まで走ってきていることが分かる。何より彼は、つい数日前、やっとの思いで新しい預言者の弟子だという男達に
二度も同じ落胆を味わわせたくない。
「
確かに、この男の息子は生まれながらに罪に定められ、まともに話すことが出来ない。声をかけると悪霊が暴れ回り、この子の頭を壁に打ち付けたり、火の中に突っ込ませようとしたり、川の中に突き落とそうとしているのだ。母親はこの子のために尽くさなければならないのに、元々奪われた妻だからと、これ幸いと家を出て行ってしまった。今彼を世話しているのは、年老いた彼の祖母、つまりこの男の母親だ。母親は自分の息子の横暴を知っていながら止められず、またそのような理性に欠ける男に育ててしまったことを、孫が発狂する度に痛感し、苦しんでいる。この孫一人を縊り殺せば、元気な他の孫、孫嫁、曾孫までもと過ごせるのに、と、悪霊が寝静まっている時、棒を片手に呼吸を荒くし、自分の老いた手を睨んでいる。
そのような苦界にいる事が、口にするより目にするより耳にするより、どれほど恐ろしい事か、
「………。顔を、お上げ下さい、兵士長殿。」
「はい。」
漸く息が整ってきた兵士長は、言われたとおりに顔を上げた。
「私が何かを成すことは出来ません。全て、天の父がお決めになり、
「はい、然様にございます。」
「ですから、私ではなく、貴方が『その方』を信頼し、依り頼むのであれば、愛で在らせられる天の父は、報いて下さるでしょう。」
「大王の子、恐れながら、このように穢れた者を、どうして神が赦しましょうか。」
「神ですら赦さないというのなら、貴方は誰にも赦されることは無いでしょう。ですが世界の誰もが貴方に頭を振って嘲り、ローマ総督に十字架刑を求刑したとしても、神だけは、貴方を赦すでしょう。」
すると兵士長は、腰を低くしたまま、手を合わせた。
「信じます、神の愛を信じます。」
「宜しい。その信仰が、貴方を救う。行きなさい。」
「ありがとうございます!」
満足したのか、兵士長は地面に頭突きをするように跪いて、そして今度は早く元気な息子を見ようと、大急ぎで帰って行った。
その時、
涎を垂らしていた少年が、白くなった目を急に黒くし、服の裾で口を拭い、寝所から立ち上がった。そして階下に歩いて行き、棒を握ってぶつぶつと震えている老婆に両手を差し伸べ、にっこりと笑って言ったのだ。
「お腹がすいたよ、おばあさま。」
「―――ッ!」
堪えていた不安が、一気に押し寄せ、
「おおっと! どうした
「ああ、ああ、上手く行ったよ。初めてじゃないのに、今は分かるんだ。父の力が働いたんだ。そうに違いない。」
「???」
「ありがとう。ありがとう、
「………そっか。よしよし、思う存分胸を貸してやる、溜まったモン出しちまえ。」
大の男が、恥も外聞も無く、泣き叫んでいた。『大王の子孫』であることと、『大王の子』と呼ばれる存在である事は違う。それは
ただ、その預言に
ただ、その預言に救われなければ、愛し合えないくらいに、社会に絶望して憎んでいた。
ただ、その預言によって成就していなければ、赦せないくらいに、母が哀れで報われなかったのだ。
「おい、そこの者。」
「ちょいとちょいと。」
「貴方は、一体どういう風にして悪霊を追い出したのか? ナザレのインマヌエルに師事しているのか?」
ナザレと言えば、
「ナザレのインマヌエルといや、今俺の胸で泣いてるぜ。」
すると、若者二人は顔を見合わせた。明らかに不愉快そうである。
「だが、私達は貴方方を知らない。」
「私達はナザレのインマヌエルに師事しているから、知っている。貴方方は師事していないから、知らない。」
「私達と一緒に来るなら、会わせてやろう。」
まるで律法学者のような偉そうな物言いに、
「へっ! 何処の馬の骨とも分からない奴に、ぼく達の大事なおじ様を会わせるもんか! お前達、さてはあの男の子供を癒やせなかった、偽預言者だな! 負け惜しみは見苦しいぞ! この負け犬!」
止めとけ、と、誰もが言おうとしたが、その前に
「この乞食魔術師共め! 悪霊の力を使って
「何をーっ!」
「いてっ。」
頭領には、何か大きな刃物のようなものが飛んでくるのが見えたのだが、実際に
「あいてて。なんですいきなり、お
「悪い悪い、なんか飛んできたように見えたんだ。ドデカい蝿とはね。まあ、矢の類じゃなくてよかったよ。」
若者達は何も無かったと安心して、ぺっと頭領の顔に唾を吐いて見せた。
「ふ、ふん! ハエが怖いような奴が、悪霊を追い払えるもんか! 二度とするなよ、先生のお名前が穢れる!」
「そうだそうだ。お前達が失敗したら、私達のせいにされる。今後悪霊祓いをするなら、私達の仲間になってからやることだ。勝手なことをするな、
「キイイッ! 噛み殺すぞ! おじ様になんてこと言うんだ!」
ざしっ、ざしっ、と、
「頭領、何してるんですか?」
「ああ、ああ、拭わなくて良い、
「土は汚れていますよ。綺麗な水で洗わなくては。」
「へー、そう考えるんだ。でもこっちじゃ、こうやって治すんだよ。土から人間が創られたからかな? うちの乳母が、よくそうやって治してくれたよ。」
「
「なんて声出すんでェ、
帰る、と、
「大丈夫だとも、
「そ、そうですかねェ…。
「ん?
「なんですか?」
「………いや、何でもないよ。でも
「そりゃだって、あんなに綺麗な人ですもん。女神に愛されたに決まってる。ぼくなんかが話しかけたって答えないのが必然ですよ。」
「まあ、そう言わず。」
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