第二章 賢者
第十一節 豊漁
サリムの町で起こした奇跡は、あっという間に広がった。というのも、その泉の下流にある村々にまで、その日のうちに水が流れたからである。少女の家に招かれた一行は、貧村ながらも裕福な晩餐にありついていた。その晩餐というのがまた騒がしいもので、一体あのからからの泉をどうやって戻らせたのか、否、前まで以上に潤わせたのか、と、下流の村からの客人がごった返していた。
「…っ、はぁ、はぁ…。」
冷や汗が出てきた。身体は睡眠を欲しているのに、けたたましい声がそれを許してくれないし、横になれる隙間もない。
駄目だ、目が回ってきた。気持ち悪い。酸い葡萄酒が更に酸っぱくなって出てきそうだ。喉から溢れて口の中を満たした時、すっと両手が差し出された。
「
「うえっ!」
言い終わるや否や、遠慮無く
「酔っ払いは外に出てろ!」
「なんだとこの野郎!」
「止さないか
頭領は頭領で、堪忍袋の緒が切れた
『外も人だらけだ。
「分かりました。…って、聞こえないのか。
「ん…。済まない、肩を貸してくれ。」
「すみません、
ああ、だからあの子はここに居ないのか。一人で納得する。
二階の部屋の入り口にある清めの瓶に、まず
二階と言っても、屋上に無理矢理壁をつけたような感じで、あまり居心地は良くない。隙間風が吹いてくるのだ。床も凸凹している。元々、屋根として造られていたからだろう。藁の上に無理矢理石を積んでいるらしく、ぐらぐらする所もある。
「
ううん、と、
「というより…。私は、私が預言の王ではないと思うんだよ。」
「エエッ、じゃあ、昼間のことは本当に偶然だと?
「いやいや、確かに、あれは奇跡だよ。でも、私の起こした奇跡じゃない。
目が見えなくても、
「預言の王は、頭領だ。彼が『そう』と言ったら、『そう』なるんだよ。彼が、私の歌声でここの水源が戻ると言ったら、それは私の歌声でしか、水源は戻らない。本当に力があるのは、頭領だよ。預言の内容は、頭領の出生にも当てはまるんだ。私も頭領に色々、教わったからね。」
「頭領…。少し、その…。」
「彼女から聞いたのは、私も視たよ。でも、それ以上のことは言えないね。私もそんなに詳しいわけじゃないから。でも、もしあのまま大祭司を継いでいたら、預言の王が大祭司としてこの国のユダヤ教の主になったとしたら、きっと凄い革命が起こっただろうね。もしかしたら、今からでも遅くないかもしれないし、私はそう思ってるよ。」
「はあ。」
視えない未来を思い描くだけで、少し気分が良くなった。いつか彼を讃える喝采をこの耳で聞くことが出来るのだろう。
「そういえば
「あの…。お恥ずかしながら、エルサレムの時も、叩くので精一杯で…。マグダラ村の時のようには行かなくて。」
「どうしてだろう。槍が重いのかな?」
「それは…。うう、あの、ちょっと立っていただけますか。」
「これは、実にもったいないね。よし
「はあ。」
「イェヒ・キドン。在れ(イェヒ)、槍よ(キドン)、と唱えてご覧。神の御旨によって、君に相応しい槍が与えられるだろう。」
「それは、ぼくの言葉でも出来る事なのですか?」
「出来るとも。頭領の息子分である君が出来ない筈はないさ。無論、出来ると信じていなければ、出来ないだろうけどね。でも信じるだけなら、何も損はしないだろう? それに何より、君にはもう、神の祝福が与えられている。―――その脚が、何よりの証拠だ。その脚は、牡鹿より勝るものだよ。」
「この脚が? でも、ぼくは相変わらず短足です。」
「そうなのかい? でも奇跡は起きた筈だよ。救いの預言者の言葉によってね。―――アーズ・ヴェダレーグ・カーアッヤール・ピッセーアッハ。
「そうですか? あんまり実感ないです。」
「繰り返すと良い、この言葉をね。いずれこの言葉が染み入って、
頼りにしているよ、と、もう一度頭を撫でようとして、すかっと手が空を撫でる。あれ、と探していると、
「もうお休みください。この分だと、明日も何かしらの動きがあるかもしれません。」
「ああ、ありがとう。お休み、
「お休みなさいませ、
翌朝早く、やいのやいのという煩い
「何で主食がねえんだ!」
「仕方ないわよ! このカンカン照りで非常食もへったくれもなかったんだから! パンが捏ねられる水があるだけマシと思いなさい!」
「おいこらチビっ子! 泉は戻ったんだろ、何で魚の一匹や二匹捕まえて来なかった!」
「いませんでしたよ!!」
あの案内をしてくれた少女の声だ。どうやら賓客を持成せない事で主人の面子が立たないと
「おはよう、
「飯? パンがありゃ充分だろ。何をそんなに揉めてンだ?」
「村どころか、地域の命綱を回復させた訳だから、面子があるみたいだよ。」
「へっ、山賊相手に面子もへったくれもあるかよ。…
「
少し探ってみる。
「泉にいるみたいだ。昨日の奇跡が不思議みたいだよ。」
「全く、
「
その時、
「おいこら
「お
足元から
「奇跡を起こした人に、肉も魚もお出しできないとあれば、このサリムの地主としての面子が立たないと言うのです。」
「ンな事言ったって、無えモンを食わせろなんて言わねえよ。そこの窯ン中にある分でいいから、
「そうだ! 確か一昨日、川下のほうに行った漁師の兄弟がいた筈だ。そいつらなら持っているかもしれない。」
聞いちゃいねえ、と、頭領は溜息を吐いた。そうこうしている内に、同行していた
「駄目だよ、
「魚はどこにいる? そこに連れてけばいいだろ。」
「うーん…。いるにはいるんだけど、どこにいるか分からない。瓶の中みたいなところにいるのか、すっごくぎっしり詰まった、生きた魚がいるんだけど…。どこだろう、これ。」
何れにしろ、
「
「え、そうなの? じゃあちょっと獲ってくる?」
「この雰囲気だと、あの使用人たち、例の漁師達とやらに強引に獲らせる流れだろう。先回りして彼らに獲らせてあげれば良い。少なくとも今日の昼には間に合うのだし。
「そっか。んじゃ、ちょっと弾いてくるわ。
「おじ様、宴会場にお連れします。爪楊枝と他の者にも言いつけてきますから、先に寛いでいらして下さい。」
「そうだね、よろしく頼むよ。君なら問題ない。」
カンカン照りが続いていた昨今、水が下流に残っているんじゃないかと、村長と地主に村を追い出されてから早一週間。昨日になって突然、それまでの日照りが嘘のように川が生き返ったのだが、二日前まで割れていた地面から魚が出てくる筈も無く。綺麗な水こそあるが、魚影は全く見られなかった。このままでは地主に何を持って行かれるか分からない。しかし持ってきた食料の事を考えると、もうそろそろ村に戻らなければ、自分たちが干からびてしまう。肩を落とし、一月ほど前であればそこそこ魚が獲れた位にまで、水だけが戻った川を見ながら、上っていった。
「兄さん、この間産まれた子が男の子で良かったですね。村長の所も地主の家にも、まだ男の子しかいないから。」
「そりゃ嫌味か? 代わりにカカアが奉公に出されるかもしれねえのによ。」
「私もこの間子供を授かったから分かるんです。このご時世、子供の将来を考えると、不安で不安で眠れなくなる。産まれる前からこんななのに、産まれてからじゃあもっと悩みは増える。兄さんは凄いですね、そんな経験をもう何人分経験してるか………。」
「慣れるもんじゃねえよ。ただ、食わせるのに必死で、悩む暇がないだけだ。」
もう一週間出突っ張りだったが、家族はちゃんと食べられているだろうか。羊の干肉や水、塩やパンなどは足りているだろうか。もしかしたら一匹くらい小魚がと思って待っているのだろうか。帰りたくない。
「おい。」
「なんですか? 兄さん。」
「あん? おれじゃねえぞ。お前じゃないのか?」
「おい。」
「『おい』だなんて不作法な言葉、私が兄さんに言うわけないでしょう。」
「おい、聞け、漁師共。」
兄弟は辺りをきょろきょろと見回したが、声の主の姿形が見えないことを知ると、ひゅっと短く息を吸い込み、抱き合って震え上がった。
「悪霊だ! 日照りで苦しめるだけじゃ足らないんだ!」
「うわああ!」
「聞け。」「聞け。」「聞け。」
頭を押さえてその場にしゃがみ込む。その間にも声はずっと響いていた。
「網を川へ下ろせ。そこに魚が居る。」「網を川へ下ろせ。そこに魚が居る。」「網を川へ…」。
耳元から聞こえてくる声は、こちらの怯えはお構いなく、繰り返される。言う通りにしたら、悪魔の囁きに耳を傾けたと言って、神から断罪されるだろうか。否、それだとしても、この声を無視することだけは、どうしても出来そうに無かった。この声からは畏怖が呼び起こされる。とにかく従わなければ、この声はずっと続くのだ。そう思い、舟が無いので自ら川の中へ入り、腰まで水に浸かると網を投げた。
すると、水が震えていた。音楽だ。水に入ったことで、音楽が水から聞こえてくる。竪琴のようだが、それらは村娘が踊る時に聞くもののような、素人のそれとは違う。弦の一本一本が、弾かれて零れる音が、一つ一つ、お互いの音を求め合って、共鳴して、それはもう、『聲』だった。ただ荒野に向けて一方的に発せられる声ではない。音は音自身に耳があり、他の音を聞いてそれに応えて音を出している。言葉はないのに、まるで楽しそうに子供が遊び歌をしながら走り回っているような、そんな歌が聞こえる。
「兄さん! 兄さん、網が!」
「お? うお? うおおおおお! 引け引け! 転ぶなよ、急げ急げ、逃がすな!」
聞き惚れていた時、始めに我に返ったのは弟の方だった。網がどすんと重くなり、水が弾けて顔を覆い、頭の上からも振ってくる。肩に担ぐと、あまりにも網が重くて後ろにひっくり返りそうになった。二人で手を繋ぎ、息を合わせて腰に力を入れ、水の抵抗よりも遙かに強く暴れ回る網を引きずる。川の水ごと岸に上がり、大急ぎで魚籠に突っ込んだ。ぎゅうぎゅうと押し詰めてもまだ足りない。どうやって持っていこう、と、弟が魚を魚籠の中で組み合わせていると、兄は詰め込みきったのを確認し、網を川へ繋げた。魚は勢いよく、外へ逃げ出し、あっという間に見えなくなった。全ての魚を獲りつくせなかったことを馬鹿にするように、一際大きな魚が水面から跳び上がり、二人に水を被せて網を飛び越えて行った。
「兄さん、なんてことを!」
「何言ってんだこの愚弟。あんな量の魚、居たって腐らせちまう。戻る途中の村の連中だって食えやしねえ。奴ら、魚を俺達から買うだけの蓄えなんてねえよ。それに、これだけいるなら数日後には、サリムでも獲れるだろうさ。ここで自惚れちゃいけねえぞ。こいつはあまりにおれのカカアを哀れに思った、主が憐れんで下さったんだ。」
「うーん、確かに突然でしたものね。ではそういうことにしておきましょう。ああでも、最後に抜けてった、あの大きな魚! あれを干物にしたら、一か月は薬にすら困らないでしょうに、勿体無い!」
「馬鹿言え、あんなでかい魚、甕に頭突っ込む事も出来ねぇぞ。この前成人したうちのお転婆といい勝負だぞ、あの大きさ。持て余すくれぇなら、川で増えて貰った方がいい。」
「…うーん…。まあ、そうしておきましょう。ハレルヤ。」
「その通り、
水と塩と、それから山盛りの小さなパンと、豆の
本当はもう帰っても良かったのだが、頭領は自分の用事が終わらないらしく、結局もう一泊することになってしまった。昼少し前の頃になって、へとへとになった二人の漁師が、魚籠に大量の魚を入れて戻ってきたのを見て、またしても村人が騒ぎ出してしまった。
「
「だって、私の力じゃないもの。
「でも、頭領は
「だから、それは頭領も同じ事―――。」
『
突然、
「どうしたんだい、
「…数日前、俺の昔の女が来たの、知ってるだろ、
そういえば、
「それで、どうするの。悪霊祓いくらいなら何とかなるかも知れない、でも谷と言うことは―――。」
「そうだ、
「そんな! だって彼女、今まで
「ああ、俺もそう思う。もし本当に
頭領として、
「
「それは―――………。」
「そんなことをして、もし
「………。」
「確かに彼女は、
「………。……
「………なんだい、
「歌だ。お前が歌ってくれれば、それだけであいつは治る筈だ。お前が大王の詩をここで歌ってさえくれれば、あの女の父への信仰が、あいつを癒やす筈だ。」
頭領ははっきりと言った。気が済む、済まないではない。本当にそうだと確信している。
「
「詩編の一〇三だ。それであいつは治る。」
わが
わがたましひよ天の父を
天の父はなんぢがすべての不義をゆるし 汝のすべての
なんぢの
なんぢの口を
慰めにもならないだろうに、頭領はその歌を弾き終えると、
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