第二章 賢者

第十一節 豊漁

 サリムの町で起こした奇跡は、あっという間に広がった。というのも、その泉の下流にある村々にまで、その日のうちに水が流れたからである。少女の家に招かれた一行は、貧村ながらも裕福な晩餐にありついていた。その晩餐というのがまた騒がしいもので、一体あのからからの泉をどうやって戻らせたのか、否、前まで以上に潤わせたのか、と、下流の村からの客人がごった返していた。天眼てんがんは目が見えない分、基本的には指先と耳で周囲を判断する。いつものねぐらのように、知った声が反響している訳では無く、知らない声が籠もる環境は、すぐに具合が悪くなった。天眼てんがんは頭領をすぐに見つけたが、人混みで行く事が出来なかった。大声を出そうにも、昼間結構歌ったので、喉はまだ痛いし、腹の筋肉も震えている。

「…っ、はぁ、はぁ…。」

 冷や汗が出てきた。身体は睡眠を欲しているのに、けたたましい声がそれを許してくれないし、横になれる隙間もない。ねぐらの宴会では、すぐに横になれるから、一晩中でもつきあえる。だがここではそうはいかない。ただでさえ歌って疲れているのに。

 駄目だ、目が回ってきた。気持ち悪い。酸い葡萄酒が更に酸っぱくなって出てきそうだ。喉から溢れて口の中を満たした時、すっと両手が差し出された。真槍しんそうだった。

天眼てんがんさま、どうぞ出して下さい。あとで洗いますから。」

「うえっ!」

 言い終わるや否や、遠慮無く天眼てんがんはその両手に吐き戻した。少し出したお陰で、大分楽になる。だが楽しく目出度い宴会に水を差され、酔っ払った男の一人が、天眼てんがんに杯を投げた。

「酔っ払いは外に出てろ!」

「なんだとこの野郎!」

「止さないか柳和やなぎわ!」

 頭領は頭領で、堪忍袋の緒が切れた柳和やなぎわを肩に担ぎ、脚を封じてよいしょよいしょと外へ出す。

『外も人だらけだ。真槍しんそう天眼てんがんつれて二階の部屋に連れてったれ。』

「分かりました。…って、聞こえないのか。天眼てんがん様、ご案内しますから、休みましょう。」

「ん…。済まない、肩を貸してくれ。」

「すみません、柳和やなぎわさんに言われるまで気付かなくて…。」

 ああ、だからあの子はここに居ないのか。一人で納得する。

 二階の部屋の入り口にある清めの瓶に、まず天眼てんがんが手をつけ、次に真槍しんそうが手をつけて手を洗った。さすがに三人目がこの水で手を清めるのは気の毒なので、ばたばたと走り回っている、少女の姉らしき人物に、瓶を代えるように頼んだ。

 二階と言っても、屋上に無理矢理壁をつけたような感じで、あまり居心地は良くない。隙間風が吹いてくるのだ。床も凸凹している。元々、屋根として造られていたからだろう。藁の上に無理矢理石を積んでいるらしく、ぐらぐらする所もある。真槍しんそうはなんとか安定しているところを探し当て、そこに天眼てんがんを寝かせた。本当ならば横抱きにして寝かせるのが良いのだろうが、悲しいかな、脚の長さが足りない。

天眼てんがん様、昼間の出来事を、私はローマに居た時に聞いたことがありません。内緒なのですか?」

 ううん、と、天眼てんがんは眉を寄せて考えた。

「というより…。私は、私が預言の王ではないと思うんだよ。」

「エエッ、じゃあ、昼間のことは本当に偶然だと? 偶然天眼てんがん様が水源を掘り当てたと? 干魃が酷い地域なのに?」

「いやいや、確かに、あれは奇跡だよ。でも、私の起こした奇跡じゃない。音声おんじょう―――頭領が起こした、奇跡だよ。」

 目が見えなくても、真槍しんそうが瞠目していることは分かった。

「預言の王は、頭領だ。彼が『そう』と言ったら、『そう』なるんだよ。彼が、私の歌声でここの水源が戻ると言ったら、それは私の歌声でしか、水源は戻らない。本当に力があるのは、頭領だよ。預言の内容は、頭領の出生にも当てはまるんだ。私も頭領に色々、教わったからね。」

「頭領…。少し、その…。」

「彼女から聞いたのは、私も視たよ。でも、それ以上のことは言えないね。私もそんなに詳しいわけじゃないから。でも、もしあのまま大祭司を継いでいたら、預言の王が大祭司としてこの国のユダヤ教の主になったとしたら、きっと凄い革命が起こっただろうね。もしかしたら、今からでも遅くないかもしれないし、私はそう思ってるよ。」

「はあ。」

 視えない未来を思い描くだけで、少し気分が良くなった。いつか彼を讃える喝采をこの耳で聞くことが出来るのだろう。天眼てんがんはそれを信じて疑わないが、真槍しんそうはまだ懐疑的であった。

「そういえば真槍しんそう、君、槍は上手くなっているかい?」

「あの…。お恥ずかしながら、エルサレムの時も、叩くので精一杯で…。マグダラ村の時のようには行かなくて。」

「どうしてだろう。槍が重いのかな?」

「それは…。うう、あの、ちょっと立っていただけますか。」

 真槍しんそうは槍を持って来て、天眼てんがんの手を取り、自分の頭と、槍の穂先の腹を撫でさせた。その落差に天眼てんがんは何も言えなくなる。これは重い。なんてったって、天眼てんがんの目線の辺りに穂先があるのに、真槍しんそうの頭が天眼てんがんの臍の位置くらいにあるのだ。だから乗馬している時は振り回せた槍が、地面に立った時に使えなかったのだ。寧ろこれだけの落差があるのに、百人隊副隊長までよく成り上がれたものである。

「これは、実にもったいないね。よし真槍しんそう、君にも言霊を教えてあげよう。何、聞きかじりのヘブライ語だけど、神のお言葉だ。」

「はあ。」

「イェヒ・キドン。在れ(イェヒ)、槍よ(キドン)、と唱えてご覧。神の御旨によって、君に相応しい槍が与えられるだろう。」

「それは、ぼくの言葉でも出来る事なのですか?」

「出来るとも。頭領の息子分である君が出来ない筈はないさ。無論、出来ると信じていなければ、出来ないだろうけどね。でも信じるだけなら、何も損はしないだろう? それに何より、君にはもう、神の祝福が与えられている。―――その脚が、何よりの証拠だ。その脚は、牡鹿より勝るものだよ。」

「この脚が? でも、ぼくは相変わらず短足です。」

「そうなのかい? でも奇跡は起きた筈だよ。救いの預言者の言葉によってね。―――アーズ・ヴェダレーグ・カーアッヤール・ピッセーアッハ。その時アーズ飛び跳ねるヴェダレーグ鹿のようにカーアッヤール脚萎えがピッセーアッハ。君の脚は元々萎えてなんかいなかった。今では、誰よりも強い脚になってる筈だ。もしなっていないのなら、これからなるだろう。音声おんじょうは私に、言葉による奇跡の力を、貸してくれたからね。」

「そうですか? あんまり実感ないです。」

「繰り返すと良い、この言葉をね。いずれこの言葉が染み入って、真槍しんそうの身体の中で光り輝くだろうからね。」

 頼りにしているよ、と、もう一度頭を撫でようとして、すかっと手が空を撫でる。あれ、と探していると、真槍しんそうの方から頭を擦り付けて来てくれた。

「もうお休みください。この分だと、明日も何かしらの動きがあるかもしれません。」

「ああ、ありがとう。お休み、真槍しんそう。」

「お休みなさいませ、天眼てんがんさま。」

 天眼てんがんはよいしょともう一度寝床に入り、ふう、と溜息を吐いた。閉じられていた瞼が、眠る為に降ろされたのだ。


 翌朝早く、やいのやいのという煩い喧嘩けんか声で目が覚めた。今度は一体何の不満があるんだ、と、起き上がる。気配を探したが、真槍しんそうはもう下にいるようだ。下の様子を窺うと、どうやら口論の現場は台所らしい。柳和やなぎわが何故か参戦している。真槍しんそうは…どこにいるのだろうか、見当たらない。頭領はまだ寝ているようだ。図太い。と言う事は、恐らく有事と言う程でもないのだろう。とはいえ、これだけの大声の争いは自分の安らぎを邪魔してしまう。仕方がないな、と、立ち上がって、壁を伝いながら扉を探し当て、座りながら階段を下りる。だんだん声が鮮明になって行く。

「何で主食がねえんだ!」

「仕方ないわよ! このカンカン照りで非常食もへったくれもなかったんだから! パンが捏ねられる水があるだけマシと思いなさい!」

「おいこらチビっ子! 泉は戻ったんだろ、何で魚の一匹や二匹捕まえて来なかった!」

「いませんでしたよ!!」

 あの案内をしてくれた少女の声だ。どうやら賓客を持成せない事で主人の面子が立たないと喧嘩けんかしているようだ。ああ、面倒くさい。元々山賊稼業をやっている人間と知っていれば、そんな争いも起きまいに―――。漸く一階に着いたところで、頭領が歩いてきた。やっと起きたようだ。

「おはよう、音声おんじょう。どうやら朝食が無いようだよ。」

「飯? パンがありゃ充分だろ。何をそんなに揉めてンだ?」

「村どころか、地域の命綱を回復させた訳だから、面子があるみたいだよ。」

「へっ、山賊相手に面子もへったくれもあるかよ。…柳和やなぎわ真槍しんそうはどこだ?」

柳和やなぎわは台所、真槍しんそうは…ええとね…。」

 少し探ってみる。真槍しんそうは―――水辺だ。これは、昨日の泉だろうか? 潤い始め、茶色く草臥れていた雑草がピンと張っているのを不思議そうに見ている。昨日奇跡を起こせると言葉を教えたが、恐らくまだ半信半疑なのだろう。

「泉にいるみたいだ。昨日の奇跡が不思議みたいだよ。」

「全く、天眼てんがんに出来ねえ事なんざ無ェってのに、それが分からんのかねェ。やっぱりローマ育ちにゃ『王』の預言は難しいか。」

音声おんじょう、何度も言うけど、私は王なんかじゃ―――。」

 その時、柳和やなぎわの悲鳴が聞こえた。突き飛ばされたか巻き込まれたか、倒れたかしたらしい。成程、頭領に良い物を食べさせようとしていたのか。頭領は溜息を吐いて、天眼てんがんの手を握ったまま、台所へ向かった。

「おいこら柳和やなぎわ、何してやがんだ? お前さん達も何だ、喧嘩けんかなんかしてねえでパンの一つや二つ出してくれよ。それか昨日戻った泉の水に塩でもいい。腹が減っちゃ苛々するぜ?」

「お頭様とうさま!」

 足元から柳和やなぎわの声がする。どこか強かにぶつけたらしく、少し涙声だ。よしよし、と跳びついてきた柳和やなぎわを胸に収めると、案内人の少女が言った。

「奇跡を起こした人に、肉も魚もお出しできないとあれば、このサリムの地主としての面子が立たないと言うのです。」

「ンな事言ったって、無えモンを食わせろなんて言わねえよ。そこの窯ン中にある分でいいから、喧嘩けんかしてねえで飯にしてくれよ。」

「そうだ! 確か一昨日、川下のほうに行った漁師の兄弟がいた筈だ。そいつらなら持っているかもしれない。」

 聞いちゃいねえ、と、頭領は溜息を吐いた。そうこうしている内に、同行していた真槍しんそう以外の仲間が起きてくる。天眼てんがんは少し気になり、集中して視てみた。

「駄目だよ、音声おんじょう。彼等の言っている漁師は今こっちに上って来てるけど、ボウズだ。一匹も獲れてない。どころか、納める分の魚が無くて途方に暮れてる。彼等に魚一匹でも要求してみろ、泉に一家でドボンだ。」

「魚はどこにいる? そこに連れてけばいいだろ。」

「うーん…。いるにはいるんだけど、どこにいるか分からない。瓶の中みたいなところにいるのか、すっごくぎっしり詰まった、生きた魚がいるんだけど…。どこだろう、これ。」

 天眼てんがんの眼には、まるで小さな湖ごと生き埋めになったかのような魚の群れが視えていた。窮屈そうだが、魚は生き生きとしている。窮屈そうだと思うのは、恐らく天眼てんがんだけだろう。当の魚たちは、狭苦しい中を悠々自適に泳いでいる。このまま放っておくには勿体ないくらいに良い魚だ。何とかして、視えたあの漁師達に獲らせてあげたい。肩を落として、家に帰れば自分の手で、家族と銀貨とを測る方法を今から考えているのだろう。泉に水が流れてきて、期待もしただろうが、すぐには魚が戻らない事、もし戻っていたとしても、その場に自分達はいないのだから、結局は同じことだ。

 何れにしろ、天眼てんがんには彼等をどうしてやる事も出来ない。

音声おんじょう、この魚、君が竪琴を奏でたら来るんじゃないか?」

「え、そうなの? じゃあちょっと獲ってくる?」

「この雰囲気だと、あの使用人たち、例の漁師達とやらに強引に獲らせる流れだろう。先回りして彼らに獲らせてあげれば良い。少なくとも今日の昼には間に合うのだし。音声おんじょうが彼らを思って竪琴を奏でれば、君の『声』も届くと思うんだ。」

「そっか。んじゃ、ちょっと弾いてくるわ。柳和やなぎわ、なんとか説得しておいてくれ。」

 柳和やなぎわはぐすんとえずいて、頭領に口づけを強請った。はいはい、と、頭領が求めに応じて、足音が遠のいていく。その代わり、柳和やなぎわの繊細な足音が近づいてきた。

「おじ様、宴会場にお連れします。爪楊枝と他の者にも言いつけてきますから、先に寛いでいらして下さい。」

「そうだね、よろしく頼むよ。君なら問題ない。」


 カンカン照りが続いていた昨今、水が下流に残っているんじゃないかと、村長と地主に村を追い出されてから早一週間。昨日になって突然、それまでの日照りが嘘のように川が生き返ったのだが、二日前まで割れていた地面から魚が出てくる筈も無く。綺麗な水こそあるが、魚影は全く見られなかった。このままでは地主に何を持って行かれるか分からない。しかし持ってきた食料の事を考えると、もうそろそろ村に戻らなければ、自分たちが干からびてしまう。肩を落とし、一月ほど前であればそこそこ魚が獲れた位にまで、水だけが戻った川を見ながら、上っていった。

「兄さん、この間産まれた子が男の子で良かったですね。村長の所も地主の家にも、まだ男の子しかいないから。」

「そりゃ嫌味か? 代わりにカカアが奉公に出されるかもしれねえのによ。」

「私もこの間子供を授かったから分かるんです。このご時世、子供の将来を考えると、不安で不安で眠れなくなる。産まれる前からこんななのに、産まれてからじゃあもっと悩みは増える。兄さんは凄いですね、そんな経験をもう何人分経験してるか………。」

「慣れるもんじゃねえよ。ただ、食わせるのに必死で、悩む暇がないだけだ。」

 もう一週間出突っ張りだったが、家族はちゃんと食べられているだろうか。羊の干肉や水、塩やパンなどは足りているだろうか。もしかしたら一匹くらい小魚がと思って待っているのだろうか。帰りたくない。

「おい。」

「なんですか? 兄さん。」

「あん? おれじゃねえぞ。お前じゃないのか?」

「おい。」

「『おい』だなんて不作法な言葉、私が兄さんに言うわけないでしょう。」

「おい、聞け、漁師共。」

 兄弟は辺りをきょろきょろと見回したが、声の主の姿形が見えないことを知ると、ひゅっと短く息を吸い込み、抱き合って震え上がった。

「悪霊だ! 日照りで苦しめるだけじゃ足らないんだ!」

「うわああ!」

「聞け。」「聞け。」「聞け。」

 頭を押さえてその場にしゃがみ込む。その間にも声はずっと響いていた。

「網を川へ下ろせ。そこに魚が居る。」「網を川へ下ろせ。そこに魚が居る。」「網を川へ…」。

 耳元から聞こえてくる声は、こちらの怯えはお構いなく、繰り返される。言う通りにしたら、悪魔の囁きに耳を傾けたと言って、神から断罪されるだろうか。否、それだとしても、この声を無視することだけは、どうしても出来そうに無かった。この声からは畏怖が呼び起こされる。とにかく従わなければ、この声はずっと続くのだ。そう思い、舟が無いので自ら川の中へ入り、腰まで水に浸かると網を投げた。

 すると、水が震えていた。音楽だ。水に入ったことで、音楽が水から聞こえてくる。竪琴のようだが、それらは村娘が踊る時に聞くもののような、素人のそれとは違う。弦の一本一本が、弾かれて零れる音が、一つ一つ、お互いの音を求め合って、共鳴して、それはもう、『聲』だった。ただ荒野に向けて一方的に発せられる声ではない。音は音自身に耳があり、他の音を聞いてそれに応えて音を出している。言葉はないのに、まるで楽しそうに子供が遊び歌をしながら走り回っているような、そんな歌が聞こえる。

「兄さん! 兄さん、網が!」

「お? うお? うおおおおお! 引け引け! 転ぶなよ、急げ急げ、逃がすな!」

 聞き惚れていた時、始めに我に返ったのは弟の方だった。網がどすんと重くなり、水が弾けて顔を覆い、頭の上からも振ってくる。肩に担ぐと、あまりにも網が重くて後ろにひっくり返りそうになった。二人で手を繋ぎ、息を合わせて腰に力を入れ、水の抵抗よりも遙かに強く暴れ回る網を引きずる。川の水ごと岸に上がり、大急ぎで魚籠に突っ込んだ。ぎゅうぎゅうと押し詰めてもまだ足りない。どうやって持っていこう、と、弟が魚を魚籠の中で組み合わせていると、兄は詰め込みきったのを確認し、網を川へ繋げた。魚は勢いよく、外へ逃げ出し、あっという間に見えなくなった。全ての魚を獲りつくせなかったことを馬鹿にするように、一際大きな魚が水面から跳び上がり、二人に水を被せて網を飛び越えて行った。

「兄さん、なんてことを!」

「何言ってんだこの愚弟。あんな量の魚、居たって腐らせちまう。戻る途中の村の連中だって食えやしねえ。奴ら、魚を俺達から買うだけの蓄えなんてねえよ。それに、これだけいるなら数日後には、サリムでも獲れるだろうさ。ここで自惚れちゃいけねえぞ。こいつはあまりにおれのカカアを哀れに思った、主が憐れんで下さったんだ。」

「うーん、確かに突然でしたものね。ではそういうことにしておきましょう。ああでも、最後に抜けてった、あの大きな魚! あれを干物にしたら、一か月は薬にすら困らないでしょうに、勿体無い!」

「馬鹿言え、あんなでかい魚、甕に頭突っ込む事も出来ねぇぞ。この前成人したうちのお転婆といい勝負だぞ、あの大きさ。持て余すくれぇなら、川で増えて貰った方がいい。」

「…うーん…。まあ、そうしておきましょう。ハレルヤ。」

「その通り、讃えよハレルー主を、だ。」


 水と塩と、それから山盛りの小さなパンと、豆のあつものでもてなされていると、ようやく頭領が戻ってきた。手応えあり、と、満足そうな疲れた溜息が聞こえ、天眼てんがんはにこりと笑い、お疲れ様、と労った。

 本当はもう帰っても良かったのだが、頭領は自分の用事が終わらないらしく、結局もう一泊することになってしまった。昼少し前の頃になって、へとへとになった二人の漁師が、魚籠に大量の魚を入れて戻ってきたのを見て、またしても村人が騒ぎ出してしまった。柳和やなぎわ達は自分たちの兄貴分が褒め称えられて悪い気はして居らず、柳和やなぎわなど両側に少年の奴隷を侍らせて夕飯を食う程にふんぞり返って居たが、真槍しんそうは嫌な予感しかしていなかった。こういう一時的な熱狂は、何かの拍子に不幸が起こると、途端に残酷な殺戮者に人を変えてしまう。天眼てんがんもそれを分かっていたのだろうか、葡萄酒を勧められてもそれ程呑まず、見えない瞳で、煽てられて羨ましがられる弟分を、幸せそうに視ていた。

天眼てんがんさま、天眼てんがんさまは、どうしてそのそのお力で、民草を救おうとしないのですか? 彼らは天眼てんがんさまこそ、約束された救い主だと言っているのに。」

 天眼てんがんの隣に座り、真槍しんそうは彷徨っているその両手にパンを握らせた。天眼てんがんはそれをちまちまと噛み千切りながら答えた。

「だって、私の力じゃないもの。音声おんじょうが、私の歌声を気に入って、力を貸してくれているだけだ。それなのに、どうして思い上がる事が出来よう? 音声おんじょうの友情も信頼も裏切ることになる。」

「でも、頭領は天眼てんがんさまの生い立ちが、預言者の言った通りだと言っています。」

「だから、それは頭領も同じ事―――。」

天眼てんがん、不味いことが起きた。真槍しんそうとだけ来てくれ。村の井戸だ。』

 突然、天眼てんがんの耳に頭領の声が届いた。ハッとして、天眼てんがんは辺りを見渡す。見る限り、辺りは自分以外で盛り上がっていて、こっそり出てもバレなさそうだ。天眼てんがんが黙ったのを見て、真槍しんそうは命令を待っている。天眼てんがんはそっと真槍しんそうに耳打ちし、こっそりと会場を出た。後ろで、柳和やなぎわの美しさを褒め称える即興詩が歌われていた。


 真槍しんそうが村の形状を分かっていなかったのと、天眼てんがんの説明不足で、少々時間がかかったが、天眼てんがんは頭領の元に駆けつけた。頭領の雰囲気は張り詰めていて、緊張しているのが分かる。他には誰もいな。

「どうしたんだい、音声おんじょう。」

「…数日前、俺の昔の女が来たの、知ってるだろ、天眼てんがん。…あいつが、神の断罪に遭ったらしくて、村を追い出されてた。あいつは谷の方につれてかれたらしい。」

 そういえば、真槍しんそうは確かに彼女をサリムまで送り届けたのに、ここに来てから一度も彼女に会っていない。真槍しんそうは言っている意味がよく分からないようだった。黙っていなさい、と、天眼てんがん真槍しんそうの頭を撫でて、答えた。

「それで、どうするの。悪霊祓いくらいなら何とかなるかも知れない、でも谷と言うことは―――。」

「そうだ、らいだ。あいつは生まれた時から、左目の色が違ったんだ。この頃その目の周りが酷く膿んでくるッてンで、村の祭司に見せたら、過去の―――俺との事が、裁かれたと言われたらしい。日照りが続いたのも、あいつの所為だと。」

「そんな! だって彼女、今までらいになんかなっていなかったじゃないか。それに彼女はずっと、包帯を顔に巻いていただろう? そうしたなら、日照りで汗を吸って、疥癬で痒くてついた傷が、膿むことだってあり得るじゃ無いか。早急だ、あまりに!」

「ああ、俺もそう思う。もし本当にらいの罰が下ってるなら、抑もあららぎを産んでる筈がねぇ。でも、健康な人間でも谷に入れられたら、遅かれ早かれ本当にそうなっちまう。」

 音声おんじょうは本音では、今すぐにでも冤罪を晴らしに行きたいのだろう。だが、らいは薬が無く、またどうやって伝染するかも分からない。真槍しんそうのいたローマでも、らいの者だけが集められた集落があったと聞いている。実際にそこに税を取りに行くのは、兵士の中でも生まれの卑しい者の仕事だったので、真槍しんそうはよく分からない。ただ、業病と恐れられている割に、あのやせっぽちの兵士はいつまで経ってもらいにならず、目障りだ、と、皆で愚痴りあったのを覚えている。

 頭領として、らいを持ってくる訳にはいかない。だが頭領にとって、救い主である天眼てんがんを連れて行かなければ、彼女を救えない。大いに迷っているのが分かった。

音声おんじょう、もし彼女を救ったとして、その後彼女はどうやって生活する? らいに目がやられていたら、彼女は私のように産まれた時から光が無かった訳じゃないんだ、どうやって日々の生活をする? 彼女に家族はいないんだろう? まさか、うちで引き取るのか?」

「それは―――………。」

 蘭姫あららぎひめの実母を、何故引き取ることに問題があるのだろう、と、真槍しんそうは首を傾げた。

「そんなことをして、もし蘭姫あららぎひめの母親だとバレたらどうする? 私は今だって、君が蘭姫あららぎひめを傍に置いていることに反対なんだ。母親の知らない私達の、母親をユダヤの戒律に殺され、ユダヤの神を父と呼ぶしか無い私達の、そのやるせなさは? 私達を繋ぐ強固で絶対的な絆を、他ならぬ君が穢すことになるんだぞ。」

「………。」

「確かに彼女は、今癩らいじゃないかもしれない。でもらいの谷に暮らしていたなら、いずれ本当にらいになってしまう。そうなる前に下手に外に戻したところで、目の色の違う女を、祭司達が許すとは、私は思えない。また何らかの罪を見つけて、彼女を追い出すぞ。だったら初めから、らいの谷で暮らしていた方が、ずっと幸せかも知れない。あそこには飢えて逃げださないように、必ず食べ物が運ばれる。この村のように、飢饉に悩まされることは無い。」

「………。……天眼てんがん。」

「………なんだい、音声おんじょう。」

「歌だ。お前が歌ってくれれば、それだけであいつは治る筈だ。お前が大王の詩をここで歌ってさえくれれば、あの女の父への信仰が、あいつを癒やす筈だ。」

 頭領ははっきりと言った。気が済む、済まないではない。本当にそうだと確信している。天眼てんがんは、じっと頭領を見据えた。頭領も、じっと天眼てんがんを見つめる。

 天眼てんがんが頷いた。頭領は顔を輝かせ、竪琴を取ってくる、と、屋敷に走って行った。

 天眼てんがんは、自分とは縁の薄い頭領の女を見てみようと、意識を集中させたが、見つけることは出来なかった。つまり、本当に治癒してもしなくても、天眼てんがんには確かめようがない。ああは言ったけど、と、重たい気分になっている天眼てんがんの元に、息を切らせた頭領が戻ってきた。なんという脚の速さだろう。これこそが全て、天眼てんがんへの信頼―――否、信仰を表している。

音声おんじょう、君はああは言ったけど、私はどの歌を歌えば良いのか分からないよ。」

「詩編の一〇三だ。それであいつは治る。」

 天眼てんがんとしては、やんわりと断ったのだが、頭領は分かっているのか分かっていないのか、はっきりと言い切った。確認出来ないのになあ、と、天眼てんがんは気が乗らなかったが、竪琴を構えて、自分が歌うだけで良いとまで言っている頭領を見捨てるほど、非情では無い。天眼てんがんは優しく、子守歌で安心させるような小さな声で、けれども大きな声で、歌った。


 わが霊魂たましひよ 天の父をほめまつれ わがうちなるすべてのものよ そのきよきみなをほめまつれ

 わがたましひよ天の父をほめまつれ そのすべての恩恵めぐみをわするるなかれ

 天の父はなんぢがすべての不義をゆるし 汝のすべてのやまひをいやし

 なんぢの生命いのちをほろびより贖ひいだし 仁慈いつくしみ憐憫あはれみとを汝にかうぶらせ

 なんぢの口を嘉物よきものにてあかしめたまふ かくてなんぢはわかやぎて鷲のごとくあらたになるなり


 慰めにもならないだろうに、頭領はその歌を弾き終えると、天眼てんがんを抱きしめて礼を言った。

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