第十節 サマリア
昼頃になって漸く帰ってきた
「頭領、たった今、ぼくに何か仰いましたか?」
「ん? ああ、お前が聞こえたなら、言ったんだろうさ。」
釈然としない言い分に、
「仕事をしている時などに、突然、耳の裏で頭領の声がするのです。これは頭領の声なのですか? それとも頭領を語る悪霊の声なのですか?」
「なんだと爪楊枝! お
「いいっていいって、
「はい、アバ。」
「
二人は頷いた。頭領はよしよし、と、二人の頭を両手で撫でる。
「俺は昔、盗賊団を造る前、何度か強盗に襲われたんだ。太刀打ちできなくて、何度も死にかけて、ずっと祈り続けたんだ。助けてください、助けを呼んで下さい、てな。その内に、俺は舌とは別に、心で、声を出せるようになった。大勢の心に一度に語りかける事もあれば、一対一で、誰にも聞かれずに声をかける事も出来る。俺が知ってる奴だったら誰でもだ。ただ、俺、耳はもらってないんだよな。だからいつも、命令しか出さねえんだ。」
『
「は、はい。」
「?」
今の『声』は、
「まあ、単純に俺の濁声で詩編を歌ってほしくないっていう思し召しかもしれねえけどな!」
「まあ! うふふふふっ!」
「あははは! おい
「アニィ、うたって、アニィ。…あてて。」
「………うん、分かったよ。具合が悪くなったら、すぐに言うんだよ。」
あいさ、と、笑う
わが
ああわが
われらの
かれら
すべてわれを
かれは天の父によりたのめり 天の
されど
わが
優しく暖かい揺り籠のような歌声に、
その日は皆、その歌声を聞いて眠りに就いた。
翌朝、何時ものように無秩序な食欲が飛び交っている朝食の場で、思い出したように盗賊の一人が言った。
「そういえばよ、最近サマリア地方じゃ
「ああ、あっしも聞いた。頭領、最近サマリアだけじゃ無く、北のガリラヤも、不漁なんでさ。お陰で干物の値段のたけぇのなんの! デナリ銀貨一枚分、値段が変わるんで、どこも治安がわるいんでさ。…でも頭領、あっしらはそんなとこにゃ行かねえでやしょう?」
頭領が答えた。
「そうだな。態々貧乏人から奪う必要なんてないしな。でも…サマリアか。ちょっと気になるな。
すると、感嘆の溜息や叫び声で、一気に周りが騒がしくなる。
「またそんな事言って…。新入りも多いんだし、私は嫌だよ。」
「まあまあ、いいじゃねえか、減るどころか増えるんだから。」
「でも、あれはただの偶然だよ? そう何度も―――。」
「ごちゃごちゃうるせえな! 出来るったら出来る! なんたって―――。」
そこまで言って、
「なんたって、
「ホーシャ・ナー、
「ハレルー・ヤ、
「お止しったら! …でもまあ、私が行って満足するなら、それでもいいかな。良いよ、サマリアに行こう。」
そういう
そういえば、
ユダヤ人の王については、
「頭領、具体的にその、預言された王とは、どういう人なんですか?」
サマリア地方へ行く為に行商街道を歩いている時、
頭領が
「聖書に書いてある通りだと、預言者達はいろいろな言い方をしているが―――。まあ、俺が一番気にしてるのは救いの預言者の言葉だな。『この
他にも頭領はいくつか挙げていたようだったが、
「―――で、だ。確かにちょいちょい不明な場所はあるが、概ね
「はぁ…。」
正直聞いてもあまりよく分からなかった。これ以上はユダヤ人の文化の問題だと思ったので、
恐らく頭領は、元々あの女が何処に追放されたのか知っていたのだろう。一行はサリムの村までやってきた。湧き水に溢れ、豊かなガリラヤ湖からの川が引かれているはずが、木の根を食べる男が目立つ渇いた地になっている。そんなに大人数でも無かったのだが、一人が
「
「黙ってろ爪楊枝。おじ様は天のお父様とお話しになっておられる。」
足払いをかけられ、涙目になりながらも立ち上がってその様子を見守る。
「こんにちは、お嬢さん。今から水を汲みに行くんだよね。案内してくれないか。」
「きゃあユダヤ人! 犯される!」
「なんだとこのガキ!」
「
少女が瓶を頭に乗せて
「いいよ。他の人がついてきても良いけど、もしあたしに何かしたら、遠慮無くこの瓶でこのオジサンの頭かち割るからね。」
「ンのガキ…!」
「
頭領に窘められて、
少女と
と、少女と
「
「おう。お前等も少し距離とりながら、ついてこい。」
案の定、頭領と自分たちが近づくと、少女は瓶を頭上に構えながら、距離を取った。頭領は特に気にしていないらしい。地べたに再び膝と手を突いている
「相応しい歌は、どれか分かるかい?」
「詩編四二番だな。」
「分かった。じゃあそれを歌おう。」
ぽろろん、と、あの不格好な竪琴が音を奏で始める。不格好な竪琴に無骨な指、筋肉と体毛の塊という野生の塊みたいなものから、どうしてこうも涙の泉を繁らすような音が出るのか不思議だ。
あゝ神よ。鹿の
わがたましひは
かれらが
渇いた地面のひび割れに、砂が落ちて、次第にひび割れが埋まっていく。
われむかし
次第に地面が黒っぽくなってくる、ざらざらの凹凸が無くなり、地面が滑らかな面積が増えていく。
………? ちょっと待てッ! 泥だと? 目の前には干上がった泉があるだけだったのでは無かったのか。ぎょっとして
あゝわが
わが神よ わがたましひはわが
じゃり、と、音がした。
なんぢの
ごぼごぼと掘れば掘るほど、掘って退かした土よりも多くの水が溢れ出す。
「│さあ《ハヴァー》、│喜び祝え《サメハ》! │心から《ベレーヴ》、│喜び踊ろう《ナーギラー》!」
それは嘗て、
「│讃えよ《ハレルー》│主を《ヤ》! │讃えよ《ハレルー》│主を《ヤ》! │讃えよ《ハレルー》│主を《ヤ》!」
力強く頭領がそう呼びかけると、弾かれたように他の者達も口々に叫んだ。
「ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!」
「│高らかに歌え《ラシェヴァフ》、│賛美の歌を《テヒラー》!」
「ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!」
皆が叫ぶ度に、水の勢いはどんどん増していき、ずぶずぶと
「す、凄い…! こんな、可笑しなことが! ただ歌っただけなのに!」
「万歳! 万歳! 水が戻った! ホザンナ! ホザンナ!
「けほっけほっ…。そんなに騒がないでおくれ、私はただ歌っただけだ。それより喉が渇いたよ。お嬢さん、この水は、私と、その仲間にも恵んでくれるかい?」
少女は笑って、瓶をどぼんと泉に静め、なみなみと瓶に水を満たし、差し出した。
これは、
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