第九節 排斥
大祭司というのは、一つの家柄から成って居る訳では無いのだ、と、父が教えてくれたという。
紅海を割ってエジプトからユダヤ人を解放した預言者は口下手で、それがあまりに酷いからと神に預言者としての役割を辞退しようとした。しかし神は、彼の生き別れた兄を代理に立てさせ、強引に二人をエジプト脱出の預言者とした。その後、兄の子孫が、代々大祭司の役割を継ぐことになるのだが、この兄からは傍系がいくつも生じたため、今のように多くの大祭司の家系があり、その争いが絶えないのだ、と教えられた。
彼の父である大祭司は、この家が栄えるためには、どうしても男の子が必要なのだ、と、よく呟いていたという。大祭司は男しかなれないからである。その故に、大祭司の家に生まれた―――大王の時代、預言者の兄の家に生まれた女は、他の班をとりまとめた大祭司の家柄から婿を貰わなければならない、その為に選ばれるような、美しく聡明な娘にならなければならないのだ、とも。それによって、お前達の母も、待遇が変わるのだ、とも。その当時の大祭司の家には、母親の違う女ばかりの姉妹が十一人もいた。母親達は我が娘に婿を取らせようと躍起になり、姉妹間の交流は無きに等しかった。母の為にと精を出す者もいれば、そんなことに興味は無いと自分の好きなことに耽る者もいたし、隠れて父の決めた婿以外の男の所に嫁ごうと画策している者もいた。
そんな折だった。
大祭司が、男の子を連れてきた。母親の命を吸い取って産まれたその子を、父は『命の子』、即ちバルハヴァと銘し、嫡男に据えた。
嫡男として厳しく育てられたものの、彼は生来、勇敢で血気盛んであり、乳母や
「これ、
絢爛な大祭司の家を、一人の老人が歩き回っている。服は紫で、上着は豪華な刺繍がされ、帽子を被っている。どうやら正装をしているらしい。美しい着物を着たこまっしゃくれた少女が、老人に言った。
「お父様、お兄様はもう先に、総督の所へお出かけになってますよ。」
「そんなことは分かっておるのじゃ! あの戯け者、指輪を間違えて嵌めて行きよった! わしの後継者なのに指輪も嵌めず、総督に何を宣伝する気じゃ! 武官など、貧村の乞食でもなれるわ!! あやつはわしの跡を継いで大祭司にならねばならぬのじゃっ! …ハッ!? もしや、あの侍女に出したあの娘に会いに行ったのか!? なんたる事じゃ、これ
つかつかつか、と、出て行く大祭司を見送り、少女は金の牛の像の後ろに、顔を突っ込んだ。
「お兄様、おねえさん。もう大丈夫でございます。」
「おっしゃ! な、案外バレないもんだろう?」
「ええ、ええ! こんなにドキドキしたのは初めてよ。すっごくいけないことしてるみたい!」
「いけないことなもんか。同じユダヤ人なんだ、神の御言葉に従い、
「やだ、まだそんなの早いわ。」
「冗談だって。さあ、遊びに行こう。」
「あの、お兄様…。」
「大丈夫大丈夫、お前にお叱りが行くこたないよ、ちゃんと俺は総督の家に行ったんだ。この子を迎えにね! それに父上だって冷たいお方だ。彼女は正真正銘、俺の姉なんだぜ? 父上が片方の瞳の色が変で不吉だとか言って奴隷に出さなければ、この家で一緒に暮らしてたんだ。」
そういって、頬と頬をすり寄せられると、顔がちくちくと引っかかってくすぐったかった。同時に、心もくすぐったくなって、笑みが止まらなかった。剣と馬を操る逞しい掌に手を握られて、二人はこうして、いつも外で遊びに行った。
大祭司の待望の男児だと信じて疑われなかった若君と自分が出会ったのは、ユダヤ総督の宴会場だった。ユダヤ総督とは、ローマが属国イスラエルを統治するのに派遣する軍人で、この時は第四代だった。その邸宅で酌婦をしていた自分を見初め、若君は自分の権力を最大限に使い、会いに来たのだ。まだ髭が生えそろっていない顔は幼さを残していたが、もうとっくに成人は迎えてるとぷりぷり怒った。どうやら剛毛な体質らしく、その肌は酌婦の自分とは対照的に逞しく色濃かった。その胸に包まれると、鳩のようなふわふわとした温もりの中に、確かに安心する匂いがして、木陰でくちづけあい、囁き合うよりも、無言で抱きしめられる方が好きだった。彼は寡黙では無かったが、その故に彼の持つ沈黙という言葉は大いに意味のある言葉で、そんな静かな語らいを経て、やがてはこの人の元へ嫁ぎたい、と、思うようになっていた。異母姉弟ならば、結婚は出来る。
だが、あまりにも身分に差がありすぎた。大祭司の娘として産まれたとはいえ、総督の家に買われた奴隷である自分と、国王に匹敵する二大権力者の一人になる未来を背負った若君との婚姻は、絶望的だった。それでも二人は、囁く愛を慰めたり、夢を語ったりはしなかった。身分を弁えて付き合っていれば、本当に若君が大祭司になった際に、買い取ってくれる、そのように計画を立てていたのだ。二人はその意味で、全く焦っていなかった。
それは凍り付くような冬の事だった。奴隷女達が寝ている部屋で、こつこつ、こつこつ、と、外から音が聞こえるよ、と、別の奴隷女に起こされたのだ。この家の奴隷達は、自分が大祭司の息子と道ならぬ恋をしていることを知っていた。それ故に、無粋な告げ口をする者もいなかったのだ。その壁を叩く音が、若君が来た時の合図と同じだったから、尚のこと奴隷達は不思議に思った。自分がひょっこり顔を覗かせると、雨が降ったかのようにうちひしがれた若君がいた。この寒いのに、上着を一枚も着ていない。どころか、靴すら履いてない。
「若様! どうしたのです、こんな、こんな寝間着のようなお姿で…!」
「………。なあ、もし、俺を愛しているのなら―――立会人も誰もいないけど、今夜、今すぐ、俺の妻になってくれないか。」
「???」
手には、一本の
「若様、大方許嫁の話が本格的になったって事だろう。行ってきな。一晩くらいならごまかしてやる。…行け!」
そうだそうだ、と、他の者も頷いていた。状況が分からないままだったが、若君はもう一度、
「俺を、愛してくれているか?」
そう言ったのだ。その言葉があまりにも胸を縛り上げて天上に吊るす。
しかし冷たい体毛と暖かい肌に顔を埋めて眠った筈なのに、朝方、自分は一人、奴隷部屋に戻されていた。他の奴隷女達が言うには、明け方頃―――つまり自分が寝付いた頃に、若君が抱いて現れ、外は寒いからと戻したのだという。言いしれぬ嫌な予感がしていた。
ところで、実は自分にはもう一人、縁深い男がいた。いたと言っても、それは心を許していたという訳では無い。日常的に自分につきまとってきていた、やはり使用人の男だ。ただこの男は、奴隷では無く、教師としてこの家にいた。否、教師というのは不適切だろうか。ユダヤの地をローマ人が治めるからには、ユダヤの歴史や祭事を理解していなければならない。そう言った者を総督に進言する学者の一人として、その男はこの邸宅に暮らしていたのだ。サドカイ派の律法学者としては、それなりに名の通った、若君の家と同じ学派の出だった。この
「なあ、おい。夕べ、あの大祭司の候補がお前の所に来ただろう?」
厭らしいニマニマとした笑顔を浮かべるので自分はつんとして答えた。
「あの方を侮辱するような事は止めて下さい。」
「侮辱も何も、総督はカンカンだぜ! 今まで大司祭の一番の候補だと思っていたのに、違ったとバラされたんだから!」
「この無礼者!」
挙げた手を捕まれて、強引に両手を腹の前で束ねられた。
「違うというのなら、行って聞いてみろよ。『ご長男のお祝いをさせて下さい』ってな。」
まさか、妾と何かトラブルがあったのだろうか。居ても立ってもいられず、その日の仕事を別の奴隷に代わってもらって、彼の家へ走った。いつも自分と若君を取り次いでくれる少女―――末娘が出てきて、会わせられないけれど、と、一部始終を話してくれた。
三日ほど前、晩餐の席に、一人の女が赤ん坊を連れ、大祭司と共に現れた。大祭司の顔は綻んでいて、てっきり孫が生まれたのかと思ったほどだった。若君もそう思ったらしい。若君が言った。『父上、その方は、私の姉上の一人なのですか。その子は、私の姪ですか、甥ですか。』すると大祭司は突然、若君の中指から指輪を抜き取り、紫の衣を引き裂き、蹴り転がして靴を壊して脱がせた。ご乱心と見た侍女達が、若君の所に集まったが、叔母君―――大祭司の妾達は、大祭司が子供に指輪を嵌めるのを見て、勝ち誇ったように笑った。次いで、二十年以上勤めている使用人達が、ハッと黙り込む。若君が言った。『父上、父上、何をお怒りなのですか。私の指輪と靴と上着を、返して下さい。』。だが大祭司は言った。『お前は要らぬ。わしの
その事は、丁度自分と若君が契りを交わした日の晩餐の席で起こっていた。
あの追い詰められた顔を思い出す。愚鈍ではない彼は、それらの主張と彼らの態度から、整合性のある真実を導き出してしまったのだ。それに気付いてしまうと震え上がって、今にも探しに行きたくなった。だが、総督はそこまで愚鈍では無く、奴隷達もそこまで有能では無く、仕事を抜けて探しに行くことは出来なかった。
もう会えない娘の父親の事を、あの若君が如何しているか、思わなかった日々は無かったが、屋敷に魚を卸す人々が、彼はどこかへ消えてしまったことを告げた。あの人はきっと生きているという儚い望みを抱きながら、娘と二人きり、静かに暮らしていけるなら、と、思っていた。だが、そのようなことは出来なかった。
自分は、大祭司の娘だ。だが、産まれた時、左の瞳の色だけが周囲と違ったため、奴隷に出されたのだ。そんな女が産んだ子供が、ろくな者である筈が無い。誰もがそう思って、高をくくっていた。実際、自分は人よりも眼が悪かった。すぐに仕事が出来なくなり、娼婦をするしかなくなった。魚を買い付けに来ていた屋敷の者に言付け、娘は執事の縁故であるマグダラ村の網元の家に預けられた。娘はあまりに幼く、自分の母親の顔すらも覚えていられる程育っていなかった。娼婦に身を窶した姿を、夫である若君にも、娘にも知られたくないという惨めな境遇を、嘗ての仲間達は尊重し、有事の際にだけ―――例えば娘の誕生日、娘の初恋、そして娘の婚約などの時だけ、知らせてくれていた。
頭領の養父と言うことは、
「ありがとう、坊や。どうか私の娘を、私の夫を、支えて下さいね。」
朝焼けに枯れ木が萌える。左目を隠した女には、まだ太陽が見えていないのだろう。
とんでもない出生の秘密を知ってしまった、と、思いながら。
どうやって二人に接すれば良いのか、と、考え
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