第八節 夜陰
そんなこんなを見ていながら、頭領は全く
「おい
「…はい、お
どれくらいの間罵詈雑言を聞いていたのか分からないが、やっとの思いで解放された時、既に
「
「はい…。はい、申し訳ありません、頭領。」
「今回は俺の啖呵でどうにか治まったが…。次回からも同じとは限らねえからな。」
「………。あの、頭領。」
「何だ。」
「頭領の…。いえ、何でもありません。」
「もう寝ろ。」
頭領の妻だと名乗ったあの女の事を聞きたかったが、とてもじゃないがそんな雰囲気でも無ければそんな気力も湧かなかった。
ところが、深夜になって、
「ああ、貴方…。本当に会ってくれるなんて…。」
「用件は何だ。お前とのことは、もう綺麗さっぱり終わらせたはずだ。」
取り付く島もない頭領に、女はめげずに話しかけ、僅かに手を伸ばし、近づいて抱擁しようとした。しかし頭領は、それを視線で制止する。
「旦那様に…父に、家を追われて十二年、ずっとずっと、貴方を探していましたのに…。どうしてそのように冷たいことを?」
ここは部外者の自分はいない方が良いんじゃないか、と、一歩後ずさると、ギロリと睨み付けられ、脚を戻した。護衛という名目ではなさそうだが、何故傍に置こうとするのだろう。頭領の顔は、また女の方に向き合い、見えなくなった。
「確かに俺は、十二年前にお前に手を出したが、その後俺の出生を知って、お前も親父殿も捨てただろう。風の噂で身籠ったお前も追放され、ガリラヤ地方くんだりまで流れたという話は聞いたさ。だがだからなんだと言うんだ。見ての通り、今の俺は山賊家業でね。ここにいるガキも、ローマ兵から奪い取った、ローマ人とユダヤ人の合いの子だ。俺の一味は、俺のような出生の者ばかりだ。…お前のように、父親も母親もはっきりしている人間の来る所じゃない。俺達の居場所と生き甲斐を奪わないでくれ。この一味は、自分の母親を辱めて死なせたこのユダヤの社会が憎くて堪らない。赦しはしない。そんなところに、お前のような女が来たらどうなるか、想像できないのか。」
「だとしたら、貴方が皆に勉学を教えて、官僚に成れるくらいの教養を授けて差し上げれば、ユダヤの社会は蔑みませんわ。貴方にはそれだけの知恵があるではありませんか。賢王にも勝るとも劣らない教養が。」
「悪いがその男は、俺の直系の先祖じゃない。…確かにうちの一味は、そんじょそこらの漁師や取税人なんかよりも学はある。いつか必要になった時のために、俺が教えてるからな。だがそれを使って、俺達がユダヤの社会に溶け込もうと試みると思うのなら、お前は俺が思っている以上に莫迦な―――馬鹿な、女だよ。」
それは
一味の人間達は、皆そうやって母を亡くした。その憎悪の行く先は、母を死なせよ、という戒律を生んだユダヤ社会そのものだ。その憎しみを受容し、理解し、共有する事以外に、彼らは救われない。彼らを救うのは、美しい花嫁でも、温もりのある食卓でも、ましてやローマからの解放ですらない。自分の中にユダヤ人の血が繁っている限り、胸を掻き抉るような憎悪からは逃れられない。その憎悪を受容せず、否定する人間とは、風習とは、分かり合えない。分かりたくも無い。連中の逃げ口上も言い訳も正当化も沢山だ。誰か固定の人物を呪うわけでは無い。誰か一人の死を願うわけでも無い。『ユダヤ男』『ユダヤ社会』『風習の構成員』…そう言った、概念を呪うのだ。概念を憎むから、その概念を持つ人間とは分かり合えない。例えこの世から全てのユダヤ人が殺され潰えたとしても、ユダヤの風習は残る。歴史の上に、燦然と輝き、尚後世に渡って残る。その間、決して自分たちの憎しみは刈り取られる事は無いのだ。
頭領はそれを言っていた。自分の知識を与え、知恵を授ければ、彼らは間違いなくユダヤ社会に戻り、一端の生活が出来るだろう。だがそれでは、母を侮辱され死に追いやられたという悲しみも憎しみも、誰も受け止める者がいない。
その道が茨の道である事は、理解している。頭領は自らその道を選んだのだ。偶然教養が身につく環境にいた自分ではなく、多くの一角の才能の無い無能の為に生きることを選んだのだ。
「でも、貴方。それでは皆、悲しいだけです。貴方は、彼らを皆官僚にすることだって出来ましょうに。」
「そうだ。俺達は哀しいんだよ。憐れで、恩寵のない荒野の住人だ。それでも生きていかなきゃならねえ時に糧になるのは、エルサレムを焼き尽くすかのような裁きへの渇望だ。」
「貴方はわたくしと一緒にいるのが、苦痛だったのですか。」
ぽろり、と、女の目元が光った。頭領はすぐに『違う。』と答えた。
「愛しているよ。今だって―――許されるのであれば、お前を妻として、暮らしたい…。だが俺の息子や娘達は、お前を母親とは認めないだろう。ならば俺がお前を娶る訳にはいかない。俺には、今の息子や娘達を捨てるという選択肢はない。」
「貴方は忘れています。貴方にとって今のこの一団がとても大切なものであるということは、良く理解しました。けれども、貴方はそれ以前に、わたくしと貴方の血が通った子の、父親なのです。執事が教えてくれましたわ。わたくしの産んだ娘が、結婚式の日に強盗に襲われ、掠われたのだと。旦那さまは酷い怪我をなさって、召使いも何人も殺されたのだと。せめて、その賊から娘を取り戻すことだけでも、協力して下さい。」
「へ?」
思わず
「その強盗ってなァ、俺だ。俺の家族に、天の父から特別な眼を授かった者がいてね。そいつに頼んで、ずっと俺の子の動向は監視させて貰ったよ。…俺達の娘は、純朴すぎた。まさか、自分の祖父が自分の叔父と結婚させようとしているなんて、思いもしていなかったよ。だから保護した。今でも娘は、俺が父親なんて思いもしていないだろうが―――、女ってなァ、怖いねえ。俺をアバと呼びたいと言ったよ。父親という存在に憧れてただけなんだろうけどな。」
間違いない、
「…本当に? わたくしが貴方の愛によって神から贈られたあの贈り物は、貴方の所にいるの?」
「ああ。今は別の名前で呼ばれているがね。…会うかい? なら時間と場所を設定するが。」
すると女は胸に両手を当てて、大きく、ゆっくりと首を振った。
「貴方の所にいるのですもの、絶対に幸せになれますわ。わたくしは、執事の協力で、あの子の事を見守ることが出来ました。今度は貴方の番です。傍にいて、あの子の幸せのために尽くして下さい。わたくしは、あの子を幸せにしてくれる男であれば、その父親は気にいたしません。だって、あの子のお爺さんも、片方は分からないのですもの。」
「ああ。」
「もう夜が明けますわ。わたくしは身を引きます。どうかあの子を―――よろしく、お願いいたしますね。貴方。」
「神のご加護があらんことを。
ぎょっとして
「良いのですか? その、あの御方は、頭領の奥様で………
「言うんじゃねえ。…父親が知れない男の家を、誰が好き好んで継いでいくものかよ。
そう言って、頭領は
「じゃあ、その…。取り合えず、近い村まで行きましょうか。」
「では、御言葉に甘えて、護衛をして下さいますか。ああでも、出来ればサリムの町まで行きたいのですけど…。」
「分かりました。では此処にお待ちください。馬を駈れば、朝日が昇りきる前には着くでしょう。」
サリムの町は、イスラエル王国の中央部であるサマリア地方の、北東部にある町である。ヨルダン川の西側でもあり、海と川に挟まれ、小さな泉に囲まれた町だ。特にめぼしいものもないし、税の取り立てに行った記憶もないが、どこからでも
行きがてら、女は頭領との事を話してくれた。
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