第八節 夜陰

 ねぐらに戻ってからは、女達が若頭わかがしの傷の手当てをし、天眼てんがんは祈ると言って室の一つに閉じこもってしまった。当然ながら柳和やなぎわにこっぴどく叱られた真槍しんそうは、蘭姫あららぎひめ若頭わかがしを手当てする女衆の中にいたこともあって、酷く沈んだ。自分が怪我をしてここに連れ去られてきたあの時、天眼てんがんによって治療されたことは、何にもまして光栄だと言うことは分かっているし、それは今もそう思っているが、やはり男としては、女に介抱されたいという願望があるものだ。

 そんなこんなを見ていながら、頭領は全く真槍しんそうを責めなかった。何かを深く考えていて、何も言わない。目つきも、誰を責めているとも、誰を擁護しているともなく、深く深く考え込んでいる。あの妻を名乗る女の事なのだろうが、真槍しんそうにはどうしようもなかった。延々と続く柳和やなぎわの怒りを受け止めながら、段々と頭がぼんやりしていくのを感じる。少なくとも今回の一件のきっかけは確かに真槍しんそうだったが、真槍しんそうとてその後の出来事を、ぽけっと見ていた訳ではないのだ。真槍しんそうがただ臆病だっただけで、槍だってちゃんと持っていたし、それを使って撃退しようとして跳ね返されたのであって、決して何もしなかったのではない。

「おい柳和やなぎわ、もうそれくらいで勘弁してやれ。それ以上言っても、真槍しんそうには届かないよ。」

「…はい、お頭様とうさま。…けっ、この未熟者。いつでも出てって良いんだからな」

 どれくらいの間罵詈雑言を聞いていたのか分からないが、やっとの思いで解放された時、既に若頭わかがしの顔色は良くなっており、天眼てんがんも祈りから戻ってきて、すうすうと眠る若頭わかがしの手を握り、横になっていた。涙によって赤く晴れた目元は、傷跡と合わせて酷く痛々しい。自分の言葉の過ちが生んだ大きすぎる代償に、胸が潰れる思いだった。

真槍しんそう、エルサレムではああいう暴徒は珍しくない。お前が何を見聞きしたのかは聞かないが、もう二度と同じ過ちを犯すなよ。」

「はい…。はい、申し訳ありません、頭領。」

「今回は俺の啖呵でどうにか治まったが…。次回からも同じとは限らねえからな。」

「………。あの、頭領。」

「何だ。」

「頭領の…。いえ、何でもありません。」

「もう寝ろ。」

 頭領の妻だと名乗ったあの女の事を聞きたかったが、とてもじゃないがそんな雰囲気でも無ければそんな気力も湧かなかった。


 ところが、深夜になって、真槍しんそうは頭領にそっと起こされた。すわ敵襲か、と、槍を取ったが、そうではないらしい。ただ槍を持ってこい、と、無言のまま言うので、言う通りにしてねぐらの洞窟から出た。夜の寒気に包まれ、ひらひらと布が立っている。否違う、あれは女だ。昼間の、あの中年の女だ。

「ああ、貴方…。本当に会ってくれるなんて…。」

「用件は何だ。お前とのことは、もう綺麗さっぱり終わらせたはずだ。」

 取り付く島もない頭領に、女はめげずに話しかけ、僅かに手を伸ばし、近づいて抱擁しようとした。しかし頭領は、それを視線で制止する。

「旦那様に…父に、家を追われて十二年、ずっとずっと、貴方を探していましたのに…。どうしてそのように冷たいことを?」

 ここは部外者の自分はいない方が良いんじゃないか、と、一歩後ずさると、ギロリと睨み付けられ、脚を戻した。護衛という名目ではなさそうだが、何故傍に置こうとするのだろう。頭領の顔は、また女の方に向き合い、見えなくなった。

「確かに俺は、十二年前にお前に手を出したが、その後俺の出生を知って、お前も親父殿も捨てただろう。風の噂で身籠ったお前も追放され、ガリラヤ地方くんだりまで流れたという話は聞いたさ。だがだからなんだと言うんだ。見ての通り、今の俺は山賊家業でね。ここにいるガキも、ローマ兵から奪い取った、ローマ人とユダヤ人の合いの子だ。俺の一味は、俺のような出生の者ばかりだ。…お前のように、父親も母親もはっきりしている人間の来る所じゃない。俺達の居場所と生き甲斐を奪わないでくれ。この一味は、自分の母親を辱めて死なせたこのユダヤの社会が憎くて堪らない。赦しはしない。そんなところに、お前のような女が来たらどうなるか、想像できないのか。」

「だとしたら、貴方が皆に勉学を教えて、官僚に成れるくらいの教養を授けて差し上げれば、ユダヤの社会は蔑みませんわ。貴方にはそれだけの知恵があるではありませんか。賢王にも勝るとも劣らない教養が。」

「悪いがその男は、俺の直系の先祖じゃない。…確かにうちの一味は、そんじょそこらの漁師や取税人なんかよりも学はある。いつか必要になった時のために、俺が教えてるからな。だがそれを使って、俺達がユダヤの社会に溶け込もうと試みると思うのなら、お前は俺が思っている以上に莫迦な―――馬鹿な、女だよ。」

 それは真槍しんそうにも少し分かる気がした。

 真槍しんそうの母もまた、強姦されて望まぬまま真槍しんそうを産み、そして早世した。自殺だったのか、心労だったのか、その意味するところは分からない。そしてここにいる盗賊団の一味は、先日強引に仲間になった蘭姫あららぎひめ、そして頭領の気に入りである柳和やなぎわ以外に、見目の麗しい者はいない。そして若頭わかがしのように、頭が良くない者の方が多い。つまりここにいる一味は、出来損ないの、何の天賦の才も与えられていない落ちこぼれだけで構成されている。本来ならば父親から家業を教わり、三十路の声を聞き始める頃に許嫁を貰い、家庭を持ち、娘が十二になれば、嫁に出す。そんな人生が当たり前のように与えられ、それ故に社会に溶け込むことが出来る者。逆に言うと、それ以外の方法では生きていけない者達だ。覚えても覚えても、数を七から先に数えられなかったり、『むっつ』と『ろっこ』の違いが分からなかったり、それでも一人前に飯炊きや麦を刈り取ることは出来る、そんな者達だ。だがユダヤの社会は、そのような者達の父親を知らないと、落ち穂一本分け与えなかった。無論、理不尽な暴力の末子供を産む羽目になった彼らの母にもだ。

 一味の人間達は、皆そうやって母を亡くした。その憎悪の行く先は、母を死なせよ、という戒律を生んだユダヤ社会そのものだ。その憎しみを受容し、理解し、共有する事以外に、彼らは救われない。彼らを救うのは、美しい花嫁でも、温もりのある食卓でも、ましてやローマからの解放ですらない。自分の中にユダヤ人の血が繁っている限り、胸を掻き抉るような憎悪からは逃れられない。その憎悪を受容せず、否定する人間とは、風習とは、分かり合えない。分かりたくも無い。連中の逃げ口上も言い訳も正当化も沢山だ。誰か固定の人物を呪うわけでは無い。誰か一人の死を願うわけでも無い。『ユダヤ男』『ユダヤ社会』『風習の構成員』…そう言った、概念を呪うのだ。概念を憎むから、その概念を持つ人間とは分かり合えない。例えこの世から全てのユダヤ人が殺され潰えたとしても、ユダヤの風習は残る。歴史の上に、燦然と輝き、尚後世に渡って残る。その間、決して自分たちの憎しみは刈り取られる事は無いのだ。

 頭領はそれを言っていた。自分の知識を与え、知恵を授ければ、彼らは間違いなくユダヤ社会に戻り、一端の生活が出来るだろう。だがそれでは、母を侮辱され死に追いやられたという悲しみも憎しみも、誰も受け止める者がいない。

 その道が茨の道である事は、理解している。頭領は自らその道を選んだのだ。偶然教養が身につく環境にいた自分ではなく、多くの一角の才能の無い無能の為に生きることを選んだのだ。

「でも、貴方。それでは皆、悲しいだけです。貴方は、彼らを皆官僚にすることだって出来ましょうに。」

「そうだ。俺達は哀しいんだよ。憐れで、恩寵のない荒野の住人だ。それでも生きていかなきゃならねえ時に糧になるのは、エルサレムを焼き尽くすかのような裁きへの渇望だ。」

「貴方はわたくしと一緒にいるのが、苦痛だったのですか。」

 ぽろり、と、女の目元が光った。頭領はすぐに『違う。』と答えた。

「愛しているよ。今だって―――許されるのであれば、お前を妻として、暮らしたい…。だが俺の息子や娘達は、お前を母親とは認めないだろう。ならば俺がお前を娶る訳にはいかない。俺には、今の息子や娘達を捨てるという選択肢はない。」

「貴方は忘れています。貴方にとって今のこの一団がとても大切なものであるということは、良く理解しました。けれども、貴方はそれ以前に、わたくしと貴方の血が通った子の、父親なのです。執事が教えてくれましたわ。わたくしの産んだ娘が、結婚式の日に強盗に襲われ、掠われたのだと。旦那さまは酷い怪我をなさって、召使いも何人も殺されたのだと。せめて、その賊から娘を取り戻すことだけでも、協力して下さい。」

「へ?」

 思わず真槍しんそうは間抜けな声を出した。だが想定内だったのか、頭領は何も言わなかった。一呼吸置いて、頭領は答えた。

「その強盗ってなァ、俺だ。俺の家族に、天の父から特別な眼を授かった者がいてね。そいつに頼んで、ずっと俺の子の動向は監視させて貰ったよ。…俺達の娘は、純朴すぎた。まさか、自分の祖父が自分の叔父と結婚させようとしているなんて、思いもしていなかったよ。だから保護した。今でも娘は、俺が父親なんて思いもしていないだろうが―――、女ってなァ、怖いねえ。俺をアバと呼びたいと言ったよ。父親という存在に憧れてただけなんだろうけどな。」

 間違いない、蘭姫あららぎひめのことだ。

「…本当に? わたくしが貴方の愛によって神から贈られたあの贈り物は、貴方の所にいるの?」

「ああ。今は別の名前で呼ばれているがね。…会うかい? なら時間と場所を設定するが。」

 すると女は胸に両手を当てて、大きく、ゆっくりと首を振った。

「貴方の所にいるのですもの、絶対に幸せになれますわ。わたくしは、執事の協力で、あの子の事を見守ることが出来ました。今度は貴方の番です。傍にいて、あの子の幸せのために尽くして下さい。わたくしは、あの子を幸せにしてくれる男であれば、その父親は気にいたしません。だって、あの子のお爺さんも、片方は分からないのですもの。」

「ああ。」

「もう夜が明けますわ。わたくしは身を引きます。どうかあの子を―――よろしく、お願いいたしますね。貴方。」

「神のご加護があらんことを。真槍しんそう、彼女を街まで送っていけ。大方、星一つで来たんだろうからな。」

 ぎょっとして真槍しんそうは縮み上がった。

「良いのですか? その、あの御方は、頭領の奥様で………蘭姫あららぎひめの―――。」

「言うんじゃねえ。…父親が知れない男の家を、誰が好き好んで継いでいくものかよ。あららぎは関係ねえ。お前を呼んだのは、お前がローマ人でもあるからだ。…さっさと送り出せ。振り向くんじゃねえぞ。」

 そう言って、頭領はねぐらに引っ込んでしまった。どうしたものか、と考えるまでもない。街まで送るだけなら、馬は要らない。彼女も徒歩で来たのだろう。真槍しんそうはぎこちなく歩み寄り、女に言った。

「じゃあ、その…。取り合えず、近い村まで行きましょうか。」

「では、御言葉に甘えて、護衛をして下さいますか。ああでも、出来ればサリムの町まで行きたいのですけど…。」

「分かりました。では此処にお待ちください。馬を駈れば、朝日が昇りきる前には着くでしょう。」

 サリムの町は、イスラエル王国の中央部であるサマリア地方の、北東部にある町である。ヨルダン川の西側でもあり、海と川に挟まれ、小さな泉に囲まれた町だ。特にめぼしいものもないし、税の取り立てに行った記憶もないが、どこからでもねぐらに戻るように馬は訓練されているので、真槍しんそうは安心して馬を連れてきた。

 行きがてら、女は頭領との事を話してくれた。 

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