第七節 宮清め
「アバ、エルサレムに行ったら、あの羊を捧げてしまわれるのですか? せっかくあんなに一生懸命お世話をしていたのに。」
「世話をしてたから捧げるんだよ。この数日間、じっくり見極めて、傷が無いことは確認したからな。向こうでも買えるっちゃァ買えるが、モノが悪いのに
「じゃあ、………。」
「
「あはははっ!」
突然笑いだした
「どうした
「ふふっ、そうだね、そうだと思うよ。でも私達が着く頃にもいるかどうか分からないね。だからといって急げば間に合うというものでもないだろう。」
なんだ、と、皆口々に残念そうに言うが、その顔は期待に満ちていて光っている。
「そんなんじゃないさ。ただ、頭領は
「は、はい…。」
エルサレムには
だが、目の前で
神殿はユダヤ人の誇りである大王の息子、賢王が作ったものらしい。神殿だけで無く、このエルサレムは彼が造り、ユダヤ人達の略奪と拉致の歴史を見ている。彼らにとって、この土地そのものが、神の身体、神の魂の中なのだ。だからあそこにもこちらにもむこうにも、芋臭い田舎者が、不正に金を取られているとも知らず、生贄を買ったり、両替をしたりしている。ユダヤ人達は、ローマ人はもとより異邦人が嫌いだ。その故に、彼らに触られた銀貨は、皆穢れていると宣うのだ。だからここで、清い銀貨だけを神殿に捧げる。なんとも嫌味ったらしい習慣だ。そんなことを言ったら、自分のように半分異邦人だったらどうするのだ。殺して血を入れ替えるとでも言うつもりか?
「―――どうする?
「ん…え? あ、何でしょう、
くいくい、と、着物の襟を引っ張られて、我に返る。いつの間にか、神殿の前にまで移動していたらしい。ぞろぞろと引き連れられた盗賊団達は、まだ集まっているが、外側はもう綻び始めている。
「
「んー…。えぇと…。誰が行って、誰が残りますか?」
「今回行くのは俺と、
「
「うん、何度も入っているし…。それに、三人もいるのに、この上│
「では、ぼくも
毅然とそういうと、案の
「よし、決まりだ。なんだかんだ言っても、今は祭りの時だ。楽しんでおいで。帰る時になったら、また号令かけるからよ。」
『解散!』
また耳の後ろで頭領の声が響いた。何だろう、と、聞く暇も無く、
「こら
「大丈夫だよ、エルサレムなら地の利があるから。」
「なんでえ、
「え、嘘。」
「私の育ての親が、割礼をしたばかりで母親を亡くした
「そういうこった。ささ、アニィ、久しぶりの兄弟水入らずでさ、何から買いに行きやしょう?」
「こら
意外な過去を聞いて、何だか寂しい気持ちになった。何処まで行っても、やはり自分はローマ兵崩れにしかなれないのか。と、思ったのだ。しかしそれを見透かすように、
「何を気にしているかは聞かないけど、今では君も頭領の息子で、私の弟分だ。何も気にしなくて良い。初めてエルサレムに上ったのだから、案内しよう。」
「! はい!」
手を握り返し、
祭りの参加者としてエルサレムを改めて見てみると、なんとも
「おや! お前さん、あの耄碌の息子じゃないかい?」
ふと野太い男に声をかけられて、驚いて
「
「アニィ、あっしゃ覚えてねェんでさ…。」
ひそひそと囁きあう二人を尻目に、男は近づいてきて、
「ちょっとオレが喰らってる間に、いい男になったじゃねえか。身形もきちんとしてる。乞食からどうやって成り上がったんだ? 後学の為だ、教えてくれよ。」
戸惑っている二人の前に、
「悪いが、彼らはぼく達ローマの眼に適うだけの実力があったとしか言いようが無い。この二人はお前やイスラエル国王よりもずっとずっと栄えある御方にお仕えしている。疾くここを退―――。」
バキッ!
言い切る前に、
「ローマの手先だ! この裏切り乞食め、ぶっ殺せ!」
「そこのガキがローマ兵だ、子供のうちに殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!!」
「殺せ!!!」
自分はなんと愚かだったのだろう。この聖都で、異教徒の人間が歓迎される訳が無い。聖域だからこそ、普段は弱い人間達が、神の力を確信し、暴力と破壊を正当化できるのだ。帝国主義のローマの兵士として、それは今までに何度も見聞きしてきた筈なのに、
「アニィ、下がって!」
「
獣を繋ぐための縄や鞭を持って、何頭もの狼が一匹の子羊を食い尽くすように群がる。
「こら! 止めろ! この無礼者!」
「うるせえ!」
「あぎゃっ!」
槍で叩こうと飛びかかったが、またしても綺麗に放り投げられた。自分を気遣い、手を伸ばして探っては、
怖い。あの渦の中に、自分が主人と定めた人がいるのに、外側にさえ食いつけない。
怖い。あの渦の真ん中で、今でも自分を探している傷だらけの腕があるのに、その腕を手に取ることが出来ない。
怖い。ローマに仇なす者を討ち滅ぼせない自分が、ローマの威光を借りようとした浅はかさがもたらしたこの混乱を鎮められない。
『ちょっと動くな。』
どうしようもなくてますます地面に水たまりを造っていたところに、頭のすぐ後ろから、またしても頭領の声が聞こえた。だがこの言葉の通りにすれば、助かるのだという確信があった。
「この大馬鹿者共!! ここが聖都エルサレムと知っての狼藉かッ!! 救いの為の預言者の書第五十六章七節を知らねえ筈がねえ! 曰く! 『
よく見ると、倒れた男達の頭から血が流れているのだが、その足下には血塗れの銀貨が落ちている。あれが直撃したらしい。あんな小さなものなのに、人の頭を割き、首を抉るだけの力がある事に、そしてそれが自分の長であることに、得も知れぬ感情が吹き出し、肛門が緩む。
「なんだテメェ、偉そうに! テメェの両隣にいるのは神殿娼婦じゃねえのか!」
その時になって、漸く
右に
「俺が強盗だって言うンなら、テメェは何だってこんなことをした! こんなに辺り血みどろにしやがって、聖都が汚れるンならテメェも同罪だ! 何の権利が―――。」
バチン!
頭領が右手を振ると、指の間から飛び出した銀貨が、男の手首を穿った。ぐしゃりと
「
腹をやられたのか、
「誰の権利だと? それは俺の産まれながらの権利だ!」
頭領はそう言って、一歩踏み出し、あの不思議な声も合わせて、大きな名乗りを上げた。
「『遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ! 我が母は主よりの賜り物、我が祖父は慈しみ深き大祭司、祖に大王を持つ者、我こそはバルハヴァ・インマヌエル、天に
それを聞いたほぼ全員が、恐怖に竦み、その場に跪いた。
「だ、大祭司様の…!?」
「嘘だ、大祭司様は嫡男に恵まれなくて、先代の息子も気に入られなかったから、娘婿に跡を継がせたはず…。」
「娘婿はまだ子供がいなかったんじゃ…。」
「じゃあ、あの男は誰だ!」
俄に騒ぎ出した暴徒達を一瞥すると、その気迫にまたも人々は黙る。
『お前等、帰るぞ。』
頭領が耳の裏で号令をかけると、一体どこに隠れていたのか、盗賊団達がわらわらと群衆の中から蟻のように湧いてきた。皆で馬に
「
「お待ちになって!」
二人が乗ってきた馬を呼び寄せようとした時、ふと女の声がした。誰だろう、と、振り向くと、
「………。」
「今、名乗りを上げたのは、わたくしの夫です。わたくしは、貴方の妻です! 聞いて下さい、執事が教えてくれたのです。貴方とわたくしの娘が―――。」
「総員撤収!!!」
女の言葉を待たず、頭領は強引に馬に飛び乗り、他の面子を追い立てて、エルサレムから下った。
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