第六節 過越祭(前編)

 連れ去られてきた花嫁は、意外なことに柳和やなぎわが世話をすることになった。頭領は彼女に、手下達が下賤な振る舞いをすることを禁じ、男衆には、彼女に触れることは勿論、自分から声をかける事すら禁じた。それは真槍しんそうとて例外ではなかったのだ。声をかける事が許されたのは、頭領、天眼てんがん柳和やなぎわ、そして意外なことに、若頭わかがしだった。ただ、若頭わかがしの場合は、彼女の方に気に入られたから頭領が許可した、と言った方が良いだろう。

 彼女は柳和やなぎわと並べばまるで彫刻のような出来映えだったので、男達は誰もがうっとりと見つめていた。が、若頭わかがしはそのように美しいものを愛でる感性がなく、緊張して食べられずに持て余していたパンを見るや、『食わねえなら下せえ』と言って、彼女の答えを待つまでもなく、一口でパンを飲み込み、そのまま礼も言わずに食事を続けたのだ。頭領が怒るよりも早く、彼女は声を出して笑った。彼女が一番始めに心を許したのは、意外なことに若頭わかがしだったのだ。頭領は面白くないようだったが、彼女が笑っているしいいか、と、溜息を吐いて、自分の分のパンを渡し、一緒に食べろと言った。彼女は若頭わかがしとの会話の中で、花が好きなこと、特に、噂でだけ聞いたあららぎと言う花を見てみたいのだ、と、夢を歌った。流石の若頭わかがしもその頃には彼女の美貌に鼻の下を伸ばし始め、アララギが何なのかも分からないまま、きっと手に入れてくる、と宣言した。天眼てんがんも頭領も柳和やなぎわも、勿論真槍しんそうでさえも、すぐに娘―――蘭姫あららぎひめ若頭わかがしに惚れ込んだと気付いたが、真槍しんそうとしては複雑な気持ちだった。

 蘭姫あららぎひめが魅力的で麗しいかどうかは、真槍しんそうの尺度では少々測りがたい。同じ女であったのなら、真槍しんそうは間違いなく柳和やなぎわを指名し、交際を申し込みたいところだ。だが自分よりも粗野な―――具体的にいうと数も禄に数えられない無教養で粗忽な男に、若い娘が恋をしているというのが気に入らないのだ。だって真槍しんそうは、まだ恋人が出来たことがない。一方で柳和やなぎわはというと、彼女の関心が頭領ではなく若頭わかがしに向いているので、分かりやすい程不満はなさそうだった。


 そんな盗賊団の複雑な漣を脇目に、マグダラ村での強奪は、思ったよりも身振りが良かったようだ。しばらくの間、頭領は若頭わかがしを連れてどこか外へ買い物に行き、上等な着物を全員分用意した。無論、真槍しんそうにもだ。最上級とまでは行かないが、野宿生活の人間が着るものでは無いことくらいは分かる。女衆は蔦を編み野原から雀を二匹ずつ集め、男衆はマグダラ村から強奪した羊たちを綺麗に手入れしている。いつかの宴の時とは想像も出来ないくらいに、秩序だって文化的な光景に、一体誰がこの集団を盗賊団と考えるだろう、と、しみじみ思う。そういえば、マグダラ村に行く前に、祭りがどうとか羊がどうとか言っていたような気がする。何のことなのか聞こうとしたが、この準備には天眼てんがんもそれなりに忙しくしているようで、勝って知ったる柳和やなぎわに掻っ攫われてしまい、真槍しんそうはとりあえず、前回のマグダラ村襲撃の際に貰った槍を手入れすることに専念した。


「明日からエルサレムに行くぞ。あららぎも連れてく。」

 夕食時、何でもないように、頭領が言った。その途端、やっほー! と、この世の春のように盗賊団が沸き上がる。ただ一人、ローマ人として育った真槍しんそうだけが、エルサレムに行く意味が分からなかった。天眼てんがんがそっと耳打ちをする。

「年に一度、過越祭というのがあってね。祖先に起こった奇跡を記念するお祭りなんだ。この時はイスラエル中から、エルサレムに人が拝殿に来るんだよ。」

「ああ、そういえばこの時期になると、毎年囚人が一人釈放されていましたね。」

「そうそう、そのお祭りだよ。」

「ですが天眼てんがん様、前回のマグダラ村では、エルサレムの関係者がいたのでしょう? 行っても大丈夫なのですか?」

「私が見た限り、怪我を推してまで偽善を売りに行くような人間ではないから、大丈夫だよ。…ふふ、今彼が何をやっているか、言ってあげても良いよ?」

「遠慮します。」

 真槍しんそうがクスクスと笑うと、柳和やなぎわの視線をものともせず、ぴったりと頭領に寄り添っていた蘭姫あららぎひめが言った。

「あの…。私は、如何すれば良いですか?」

「お前は俺の娘として連れて行く。確かエルサレムにはまだ上ったことがないだろう。」

「ええ…。今年、成人したばかりでしたから。」

「まあ、色々あったが…。それなりに奥深い所まで見せてやれるからな。当日は不本意でも、俺を父と呼べ。」

 すると蘭姫あららぎひめは、その名が示すものが恥じらうように頬を染め、両手で隠した。

「不本意なんかではありません…。嬉しいくらいです。ご迷惑でないなら、ずっとそうお呼びしたい。」

 ぎょっとした柳和やなぎわが、器用に膝から上を伸ばして前のめりになり、会話に食い込んでくる。

「どうしてそうなるんだ! お頭様とうさまはぼくのものだ!」

柳和やなぎわ、何を怒ることがある。俺はこの盗賊団全員の父親のつもりだぜ? 俺等は母親しか知らねえからな。あららぎが呼びたいなら、呼べば良い。」

「では、あの…。アバ(パパ)とお呼びしても?」

「構わねえぞ」

 そう言って頭領は、葡萄酒が満ちた杯を空け、ごろんと身体を横たえた。ぐでっと身体を役西ながらも、まだ手元には食べかけのパンが残っている。柳和やなぎわがあんまりにも悔しそうに蘭姫あららぎひめを睨み、蘭姫あららぎひめはそれに対して清々しいほど気付かないので、天眼てんがんが助け船を出した。

「頭領、歌おう。仕事を終えたのに、まだ一度も歌ってない。柳和やなぎわを踊らせることが出来るのは君の竪琴だけだよ。過越の恩寵を歌おうよ。」

「ん? そうだっけか? そりゃいけねえ、全くいけねえな。あららぎ、お前は会堂に行ったことは? 大王の歌を聴いたことは?」

「いえ、そんな暇は与えられていませんでした。」

「そうか。ならアラム語で歌え、天眼てんがん。多少苦しいだろうが、お前なら出来るだろ?」

「私は構わないとも。君に教えられて何度も覚えたからね、翻訳くらい即興で出来るさ。柳和やなぎわもそれで踊れるよね?」

 天眼てんがんはそうにこやかに答えた者の、柳和やなぎわはまだぶすっとむくれている。これでは埒が空かないか、と、頭領は笑いながら溜息を吐いて言った。

「おい柳和やなぎわ、この前貝殻を取り替えただろ。あれの調子を見せてくれ。必要ならまたナホム村辺りから取ってこなきゃな。」

「ご冗談を。ぼくがお頭様とうさまからの贈り物を、そう簡単にダメにするような盆暗にお思いで? ご覧遊ばしませ、ここいらで一等上等な貝の音を鳴らして見せましょう。」

 柳和やなぎわはあっという間に機嫌を良くし、自信たっぷりにふふんと笑うと、少しだけ開けた場所に、ふわりと鳥が翼を休めるように降り立った。本当に彼は、動作が軽くてふわふわとして、女神から見えない翼を貰っているんじゃないか、と、真槍しんそうはうっとりと思う。柳和やなぎわには人間が持つ骨や筋肉の直線的な動きや、重みが殆ど無いのだ。

「さあ、お頭様とうさま、おじ様。ぼくに楽の音を! ぼくらの父の為に!」

 ぽろん、と、竪琴が初めの音を鳴らす。天眼てんがんが息を吸い込むのに合わせ、楽の音が岩肌を上り、駆け上がって、また飛び込んでくる。


 天の父をほめまつれ 汝等天の父のしもべよほめまつれ 天の父の名をほめまつれ

 今より永遠とこしへにいたるまで 天の父の名はほむべきかな

 日のいづるところより 日のいるところまで 天の父の名はほめらるべし

 天の父はもろもろの國の上にありてたかく その榮光は天よりもたかし

 われらの神天の父に たぐふべき者はたれぞや

 賓座みくらをその高處たかところにすゑ己を ひくくして天と地とをかへりみ給ふ

 まづしきものを塵よりあげ ともしきものを糞土あくたよりあげて

 もろもろの諸侯きみたちとともにすわらせ その他身のきみたちとともにすわらせたまはん

 又 はらみなきをんなに家をまもらせ おほくの子女こらのよろこばしき母たらしめたまふ

 天の父をほめまつれ


 繰り返される、ユダヤに伝わる大王の歌。気まぐれに爪弾く音が変わっても、天眼てんがんは動じない。見えないはずの目を開き、柳和やなぎわの脚捌きに合わせて声は撓り、撓み、弾み、弾け、消える。楽しげに手を叩き、銅鑼どらのような声で歌い、一緒に踊っていた連中も、真槍しんそうがちょっと踊ってみたいと勇気を出し始めた頃には疲れて眠くなり、いつだったかのように、またその場で眠り込んだ。食って寝て出しての生活しかしていない、文明や文化とは無縁のような彼らでも、数日後に控えた過越祭に行くだけの信心はあるらしい。

 天眼てんがんの歌声に眠りをそそられたのは、柳和やなぎわも同じようだった。観客が真槍しんそうを含めて殆ど寝入ったのを確認し、脚を止めて頭領の傍に歩み寄る。真槍しんそうは逆に、幾何学模様のような貝殻の音がしなくなって、ふっと意識が浮上した。しかし起きるには身体はあまりに疲れている。

「お頭様とうさま、ぼくもエルサレムへ連れてって頂けるのですよね?」

「そりゃそうだ。あららぎも一緒だしな。エルサレムではちょっと奥深い所まで行こうか。」

「神殿の中にも連れて行って下さるのですか? ぼくが初めて行った時に仰って下さった通り!」

「そうだな。あの禿が生きてたのは計算外だが、約束は約束だ。ちゃんと一番奥の、ユダヤ人の男にしか入れない場所まで連れてってやるよ。あららぎは女だが、まあ…今まで不憫な生活してたんだし、ちったぁいい目見たって、天の父は怒らないさ。」

「はい! ぼく、ずっとお頭様とうさまのお側にいます。」

「…とと、どうした。あららぎがここにいるのに、起きるぞ。」

「えへっ、だって、お頭様とうさまが浮気なさるのがいけないんですよ。ぼくという左腕がありながら、あんな爪楊枝に目をかけて、この上このぼくに女の世話まで!」

「ああ、はいはい、わかった、わかったよ。ほら、おいで。」

「お休みなさい、お頭様とうさま。愛しています。」

「ああ、俺も愛しているよ、柳和やなぎわ。安心して眠りな。」

 悪戯っ子のような、うふふという笑い声がして、ものの数秒で、すうすうという寝息が聞こえてきた。

 頭領は両脇に、蘭姫あららぎひめ柳和やなぎわを腕枕している状態なのだろうか? 柳和やなぎわ蘭姫あららぎひめという花の間に、頭領というもじゃもじゃの蔦男がいるのか。なんとも不調和な光景だが、目を開けるのも億劫だし無粋な気もするので、想像だけで済ませておくことにした。

「やれやれ、漸くお嬢様を取り戻したと思った矢先にこれだよ。」

「仕方ねえだろ、天眼てんがん。成人したと言ったって、まだガキだ。…子供は子供だよ、いくつになっても、いつになっても。」

 優しげな音色に、心が安らぐ。この空間が心地よいと感じることに素直になっても良いかもしれない、と、真槍しんそうは今度こそ眠りに落ちた。

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