第四節 誘惑

 前言撤回。手柄なんかいらない、すぐに帰りたい。

 真槍しんそうが盗賊団の一員になった夜、夕食の時間、それはもう、酷い物だった。真槍しんそうとてその名を貰う前―――つまりローマ人としてローマに過ごしていた頃の話だが、軍人だった祖父に何かと頼みたい小物というものは実に沢山いた。祖父は特に偉い将軍ではなかったが、男の機能は抜群に良かったので、結婚をしていない娘だけで十二人、孫娘だけで十二人はいるほどで、おまけに娘達は皆美人だった。年の頃合いもばらばらだったので、どんな軍人が「是非嫁に」と言っても、「じゃあこの辺りを」と、選ばせる余裕があったのである。無論、娘達、つまり真槍しんそうの叔母達は、皆良家に嫁ぎ、幸せな結婚をして何人も子供を設けていた。

 祖父は平民の貧しい家に産まれたが、才能と運に恵まれ、また人徳もあった。その故に将軍にまでのし上がることが出来たが、卑しい生まれの者に仕えたいという者は居らず、将軍という地位も、祖父の師が皇帝に何年も掛け合って漸く手に入れた地位だった。祖父は銀のさじを奪い取るわけではなく、自ら作り出し、そして自分の子供達には銀のさじを咥えさせて、この世に産まれた命を育てたのである。

 ということは、逆の人間も存在する。即ち、祖先の女神の分かる家柄でありながら、人望がなく、才能の展望もない、そんな野心と見栄の塊のような軍人達だ。彼らは自分の子か孫に、祖父の優秀な血筋を入れれば、きっと我が一族からも英雄が出るに違いない、と、考えていた。その為、実家にはいつでも、その為の宴が開かれていたのである。そして娘達も、より良い家柄に嫁ぐために、詩に歌に舞に化粧にと励んだ。最も良い家柄―――即ち、ローマ皇帝の妻の座を狙っていたのである。

ところが、姉妹の中でたった一人、そんなことに目もくれず、日がな一日市場をぶらつく変わり者の娘がいた。真槍しんそうの母である。

 彼女は天眼てんがんの言う通り、祖父の三番目の娘であり、商売好きの闊達な娘だった。将来は貿易商人の妻になり、様々な国と取引したい、だから勉強は、品定めに必要になる化粧で十分、と、幼い頃から勉学に励んでいた。姉妹達は、そんな母が好ましくも恥ずかしかった。皇帝の妻になる娘の家族は、完璧でいなければと考えていたからである。そんな母の努力は報われ、母は良い貿易商人との縁談が決まった。姉妹達は勿論喜び、嫁に行っていた姉や妹も、子供達と夫を連れて祝いに来た。母はその宴の翌日には、行商に行った。

 三ヶ月後、母は戻ってきた。その腹に、夫を惨殺した男の子供を宿して。

 産まれた子供は、一目で彼が純血のローマ人ではないことが分かった。ユダヤ人の優れた記憶力、ローマ人の蛮勇、大王の子孫らしい信仰の篤さ、ローマ商人の子らしい論理的思考を受け継いでいた。早熟だった子供は、早くに将軍にかけられた。九歳の時将軍に正式に兵士にしてもらい、三年の月日を経た。無能不能には無用の長物である見栄や面子を撥ね除け、血を吐かなくなり、唇が逆剥けず割れなくなり、爪が剥がれなくなり、どんなに荒れても爪の形が狂わなくなり、そうして漸く、百人隊長の副長にまで上り詰めた。貴族連中へのおべっかも覚えたし、雌犬の為の愛の詩も勉強したし、青瓢箪から古強者まで、決闘は全て受け、時には再挑戦して、全て勝利してきた。そうした野心だったのだ。


 その矢先に、これだ! なんたる下品! なんたる醜悪!


 零れる酒に酸っぱい葡萄酒、水だか小便だか見分けのつかない水たまりの上に寝そべる奴、末成貴族の真似事をして嘔吐を繰り返す奴、その上下卑た笑い声の岩村に響くことこの上ない。なんたる有様、なんたる事だ。真槍しんそうのローマの実家それなりに品のない宴会が開かれていたが、それとは比べものにならない。作法も気遣いもあったもんじゃない。これは実に酷い。

真槍しんそう、無理をせず、休むと良い。そろそろ君を浚った若頭わかがしが戻ってくる。奴め、市場で占い女と踊っていたから、今はすこぶる期限が悪いよ。酷く降られたんだ、金がなかったから!」

 あはは、と、天眼てんがんは笑うが、真槍しんそうは笑えなかった。べろべろに酔っ払った、如何にも賊という雰囲気の男が、ぐらりと首を折り曲げて、ふにゃふにゃと言った。

「女と言えわ、とぉりょぉ、あのひぃさんはどーしたんで? …おぼぇ。」

「うげ! 何すんだ! 俺の着物汚すな!」

 吐瀉物を引っかけられた別の賊は上着を脱いで、水たまりの水に浸し、ごしごし拭いて口の中に上着を突っ込んだ。別の賊が、その上着を摘まんで引き抜いて、パシパシと叩く。

「ひいさん、とは?」

「おいお前、まさかあの娘に惚れたんじゃねえだろうな。」

深く酔っていながらも、頭領は眼だけをぎょろりと向けて凄み、右手で腰の下に散らばって小石を弄ぶ。それだけで、何人かの盗賊が怯んだ。真槍しんそうも、初めて会った時に足下で石礫が砕けたのを思い出し、漏れそうになる。しかしそれを天眼てんがんが諫めた。

「落ち着きな、頭領。君のお嬢様は式に備えて準備中だ。まだあの村にいるよ。夫になる男はまだ見つかってない。だから彼女は、ちゃんと処女だよ。」

「当たり前ェだ、どんだけ手古摺ったと思ってる。間一髪だったぜ、あの色欲魔! エルサレムだったら穢れの谷に突き落としてクソ塗れにしてやるところだ。」

「まあいいんじゃないか、相応しい惨めな末路だと思うよ、私は。君は良い主人だ。…とと、若頭わかがしが戻ってきたようだよ。労ってやりなよ。」

「そうすっかぁ。お前ェら、仲良くやれよ。」

 天眼てんがんは潰れてしまった視界に、その様子を見ているかのように話をしていた。一同が頭領を送り出すと、彼とは別の方向から―――洞窟の奥から、しゃらんしゃらりと絹と貝殻の音が近づいてきた。この盗賊団には女も同じ位にいる。彼女達はどうやら外へ働きには行かず、洞窟の中で炊事をしているようだった。言われてみると、醜女が多い気がする。美貌や才知で、まともな生活を手に入れられない者を、頭領が拾ったのか、それともそういう女達だけが残ったのか。どちらにしろ、あまり鼻のある世界ではない。

 だからこそ、その音の主は一等輝いていた。

 割れ目から差し込む僅かな月の光、旅人の列のように灯された大量の灯りを貝殻が七色に反射している。その人物はボロボロになった紫の衣を纏っていたが、その破れて薄くなった生地すら色っぽく、その高貴の色に相応しい美しい頭を据えている。この地域では珍しく、美しく日焼けしていない肌を持っていた。間違いなく顔はユダヤ人で、彫りが深く鼻が大きいのだが、横に膨らんでいるのではなく、つんと鼻先が上を向いていて、メリハリのある顔立ちをしている。だがそれよりも目を引くのは、その髪だ。豊かな星の海が広がり、それが足下の当たりまである。暗闇の中にあって一層黒く、艶やかな絹の糸が、一本一本、風に抱かれ、光を含み、膨らんで萎む。光が髪を伝って、光っているのだ。

「あれ? お頭様とうさまは?」

「おっす、おはようさん。先にやってるぜ。」

 声は小さいが良く通り、またその他暈から、その人物が声変わりが済んでいない年頃である事を物語っていた。真槍しんそうはまだ声変わりをしていないので、少し親近感を覚える。しかしそれでも、低いと言えば低い声だ。その割に、口元には髭が生えていない。彼の美しさはどこにも属さないような神秘的なものがあった。それ程に彼は美しいのだ。性や民族の違いを超え、恐らく星空すらも越えるように、彼は美しい。両の手をすっぽりと覆い隠すほどに不自然に長い衣が、ひらひら、ふわふわ、と、光を包んで弾ける。それは不思議なほど軽く、正しく光が形を持っているようだった。

「おはよう柳和やなぎわ。頭領なら今倉庫だよ。」

「おじ様、そのローマ人の子供は?」

 柳和やなぎわと呼ばれた青年は、ぽっとしている真槍しんそうをじろじろと覗き込んできた。顔が近い、と、顔が赤くなるのを止められないでいると、目が回ってきた。

「彼かい? 彼は真槍しんそう。今日、若頭わかがしが拾ってきたのさ。頭領に気に入られたっていうのに、私に仕えるなんて言い出した。こんなに小さいのに百人隊の副隊長だった子だよ。きみの良い鍛錬相手になるさ。」

「なりませんよ、おじ様。」

 即答された。だが真槍しんそうは砂漠の砂のような声に聞き惚れていて、侮辱されていることに気付かなかった。

真槍しんそうというからには、槍兵なんですよね? なのにそんなに小さくて、一端の槍が扱えるとは思えません。もしかしたらぼくの呼んだ馬にだって乗れないかも知れない。だって馬の方が大きすぎるんですもの。ロバを引かせたところで、荷物持ちになるどころか荷物になりそうだ。ぼくの両肩と頭だけで、こいつの二倍の荷物は運べますよ。どうしておとうさまはそんな子供を気に入ったんです?」

 そこまで来て、漸く真槍しんそうは我に返った。何か言わなくては、と、焦る余り、今何を柳和やなぎわが言っていたのか聞いていなかったし、少しも思い出せなかった。

「よ、よろしくお願いします…。ぼ、ぼくの事は真槍しんそうと呼んで下さい、美しい方。貴方の―――。」

「フン。このぼくが美しいのは当然だ。ぼくはおまえを覚えるつもりなどない。精々、お頭様とうさまの役に立つんだな。」

 ばっさりと遮られ、きっぱりと拒絶されて、真槍しんそうはぽかんとした。ぷいっと顔を背けたその横顔もまた、美しい。

「踊って下せえ、柳和やなぎわさん!」

 盗賊達はゲラゲラ笑い、見るからに別格の酒を指しだし、一体何処にあったのか、鼓を取り出して好き勝手に叩き始めた。

「踊って踊って!」

「嫌だよ。ぼくはおとうさまの竪琴じゃないと踊らない。そんな銅鑼どらで踊れるか。」

 ぷいっと顔を背け、柳和やなぎわは石に腰掛けて足を組み、顔を突き出して口を開けた。それに気づき、何人かの女達が、柳和やなぎわの口元にパンと葡萄酒とを持っていく。柳和やなぎわは手が汚れるのが嫌なのか、口元を拭うことすらしないし、布袋を呑むのにも手を使わない。その様は頭領よりも頭領らしく、今までみたローマの高級官僚のどんな貴人よりも高慢だった。だが美しい。まるで女神の沐浴に天使達が集っているかのようだ。

 ここまで骨抜きにされて、もう真槍しんそうに「ローマの手土産」という考えはなかった。それくらいに激しく心揺さぶられたのだ。星を夢見る盲人のように、風に恋する聾人のように、名前に憧れる唖のように、柳和やなぎわという生命が、心を焦がし、焼き潰すように燃え上がる。真槍しんそうがうっとりと柳和やなぎわに捧げる詩を考えている間にも、酔っぱらい達は鼓を叩き、石を打ち鳴らし、拍手をした。一向に柳和やなぎわは聞かず、ついには頭領が座っていた岩の傍で、長髪を全身で折りたたんで枕にし、眠り込もうとして―――はじかれたように飛び起きた。

「お帰りなさぁい! ただいまそちらに行きます!」

「???」

 何か聞こえたのだろうか。真槍しんそうには何も聞こえなかった。だが盗賊達は特に何も不思議に思っていないらしい。柳和やなぎわは先ほどまでの不機嫌な顔が別人のように明るくなり、頭領が消えていった洞窟の方に走っていった。ああ、なんて美しい、ひらひらと小鳥が舞うが如く。

天眼てんがん様、今のは一体?」

「ん? ああ、君には聞かせなかったんだね。なら言っておくよ。今のは頭領の「恩寵」を、柳和やなぎわが聞き届けたんだ。

「???」

「私が、みえなくてもみえるのと同じさ。」

「???」

 何のことだろう、と、考えようとしたが、またしゃらしゃらと音が近づいてきた事に気付き、すぐにその考えが霧散した。彼が帰ってきたのだ。大きな足音を伴い、盗聴も一緒であることが分かる。たでぇま、と、戻ってきた頭領の傍らには、会いたくもないあの野蛮な若頭わかがしが、何故か右の頬を腫らして半べそをかいている。

「いいか、若頭わかがし。今の顔のザマは、お前への戒めだ。天眼てんがんの手は借りるなよ、神の手を待つんだ。傷に響くから今回の宴じゃ酒は飲むな。」

 ざまあ見ろ。真槍しんそうは内心大笑いしながらも、顔を背けて酸っぱい葡萄酒を呷った。不味い。だが、しゃんらしゃららと柳和やなぎわが嬉しそうにくるくると回っているのを見て、それもどうでも良くなる。

「おとうさま、竪琴を奏でてくださいな。貴方のために踊りますから。」

「おお、柳和やなぎわ、そうしてくれ。今日は仲間が、俺の息子が増えた吉日だからな。おい天眼てんがん、今日は歌うよな?」

 何も言わずに天眼てんがんは微笑んだ。手下の一人が、頭領に不格好な弓を渡す。腕相撲をする腕のように直角に湾曲し、いくつもの太さの弦が、不規則に張り巡らされたモノだ。…まさか、これが竪琴なのだろうか。いくら手作りでもこれは酷い。この盗賊団は本当に酷いものしか無い。だからこそ柳和やなぎわのような人物がいるのかも知れないが、頭領は当たり前のようにそれを受け取った。音楽どころか、音が鳴るのかすら怪しいというのに、手下達はきらきらと期待して待っている。そして、細くなった月と星の光に翳し、天眼てんがん真槍しんそうの脚を治した時のように唱えた。

「ハヴァー・サメハ! ベレーヴ・ナーギラー!」

 恐らくそれは気の所為に違いなかったのだが、真槍しんそうはその言葉に呼応するように、弓の弦が星を吸収していくのを見たのだ。そうして光を反射しているだけの筈の弦が、一本、もう一本、と、弾かれる度に、頭の中の水面が、打たれるような音の波紋が広がる。

 これは魔術なのだろうか? 天眼てんがんのあの呪文と同じく、彼にも魔術が使えるのか? 嗚呼だがしかし、なんと美しい音色だろうか。あんなにも歪な形をしているのに、あの竪琴の弓は恋の神の弓で、矢は愛の女神の矢なのだ。頭領が楽神のように弦を爪弾くと、音は矢となり、女神の寵愛を乗せて聞く者の心をうつ。その矢の雨をかいくぐり、従わせながら、一人の踊り子が月桂樹のように踊る。愛の女神の矢が踊り子を縫い止めることはなく、楽神の手がその髪を掴むこともなく、踊り子は月桂樹のように踊るのだ。男も女も、その葉の香りに心がことことと温まる。安い酒も腐った水も酸っぱい吐瀉物も、全てが芳醇な千年物のような葡萄酒に変わる。大地の恵みを凝縮した葡萄酒の香りに、踊り子の身につけた貝殻が、潮の香りを運ぶ。大地の恵みが死海の塩の海になだれ込み、魚が次々とどこからか流れ込んできて、水面に跳ねる。その度に、また新しい魚が泳いできて、いつの間にか死海はアドリア海よりも豊かになるのだ。

 宴が続く、続く、続く。どこまでも優婉な調べが。天に置き去りにされた空の欠片に反射して木霊する。岩は弓の音を喜び、砂が共に舞って、また跳ねる。静かに聞き入る者共はやがて眠りに誘われ、暖かいたき火の温もりを、今は遠く離れた母の胸のように、或いは顔も名前すらも分からぬ父の腕のようにして、身体を丸くして眠りに就く。一人、また一人、眠りに誘われ、明日の目覚めを確信して眠る。誰一人、眠っている間に無骨者や正義を代行する罪人が突入してくるなど思ってもいない。母の胎の中よりも、此処は安全で安心できる場所なのだ。いつの間にか聞こえてくる天眼てんがんの子守歌が、静かにユダヤの安息の魂を呼んでくる。古よりその血を宿す者を安らげてきた、大いなる詩人の言葉を、天眼てんがんの優しく、男にしては少し高い歌声が、耳元に一つ一つ置いていかれる。いつの間にか音は、竪琴と貝殻だけでなくなっていった。天上の調べが、下卑た宴の痕を清めていく。

「おやすみ、神の子らよ。神の祝福が皆と共にあるように。」

 羽根のように柔らかな声がして、真槍しんそうもまた、深い眠りに落ちた。

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