第四節 誘惑
前言撤回。手柄なんかいらない、すぐに帰りたい。
祖父は平民の貧しい家に産まれたが、才能と運に恵まれ、また人徳もあった。その故に将軍にまでのし上がることが出来たが、卑しい生まれの者に仕えたいという者は居らず、将軍という地位も、祖父の師が皇帝に何年も掛け合って漸く手に入れた地位だった。祖父は銀の
ということは、逆の人間も存在する。即ち、祖先の女神の分かる家柄でありながら、人望がなく、才能の展望もない、そんな野心と見栄の塊のような軍人達だ。彼らは自分の子か孫に、祖父の優秀な血筋を入れれば、きっと我が一族からも英雄が出るに違いない、と、考えていた。その為、実家にはいつでも、その為の宴が開かれていたのである。そして娘達も、より良い家柄に嫁ぐために、詩に歌に舞に化粧にと励んだ。最も良い家柄―――即ち、ローマ皇帝の妻の座を狙っていたのである。
ところが、姉妹の中でたった一人、そんなことに目もくれず、日がな一日市場をぶらつく変わり者の娘がいた。
彼女は
三ヶ月後、母は戻ってきた。その腹に、夫を惨殺した男の子供を宿して。
産まれた子供は、一目で彼が純血のローマ人ではないことが分かった。ユダヤ人の優れた記憶力、ローマ人の蛮勇、大王の子孫らしい信仰の篤さ、ローマ商人の子らしい論理的思考を受け継いでいた。早熟だった子供は、早くに将軍にかけられた。九歳の時将軍に正式に兵士にしてもらい、三年の月日を経た。無能不能には無用の長物である見栄や面子を撥ね除け、血を吐かなくなり、唇が逆剥けず割れなくなり、爪が剥がれなくなり、どんなに荒れても爪の形が狂わなくなり、そうして漸く、百人隊長の副長にまで上り詰めた。貴族連中へのおべっかも覚えたし、雌犬の為の愛の詩も勉強したし、青瓢箪から古強者まで、決闘は全て受け、時には再挑戦して、全て勝利してきた。そうした野心だったのだ。
その矢先に、これだ! なんたる下品! なんたる醜悪!
零れる酒に酸っぱい葡萄酒、水だか小便だか見分けのつかない水たまりの上に寝そべる奴、末成貴族の真似事をして嘔吐を繰り返す奴、その上下卑た笑い声の岩村に響くことこの上ない。なんたる有様、なんたる事だ。
「
あはは、と、
「女と言えわ、とぉりょぉ、あのひぃさんはどーしたんで? …おぼぇ。」
「うげ! 何すんだ! 俺の着物汚すな!」
吐瀉物を引っかけられた別の賊は上着を脱いで、水たまりの水に浸し、ごしごし拭いて口の中に上着を突っ込んだ。別の賊が、その上着を摘まんで引き抜いて、パシパシと叩く。
「ひいさん、とは?」
「おいお前、まさかあの娘に惚れたんじゃねえだろうな。」
深く酔っていながらも、頭領は眼だけをぎょろりと向けて凄み、右手で腰の下に散らばって小石を弄ぶ。それだけで、何人かの盗賊が怯んだ。
「落ち着きな、頭領。君のお嬢様は式に備えて準備中だ。まだあの村にいるよ。夫になる男はまだ見つかってない。だから彼女は、ちゃんと処女だよ。」
「当たり前ェだ、どんだけ手古摺ったと思ってる。間一髪だったぜ、あの色欲魔! エルサレムだったら穢れの谷に突き落としてクソ塗れにしてやるところだ。」
「まあいいんじゃないか、相応しい惨めな末路だと思うよ、私は。君は良い主人だ。…とと、
「そうすっかぁ。お前ェら、仲良くやれよ。」
だからこそ、その音の主は一等輝いていた。
割れ目から差し込む僅かな月の光、旅人の列のように灯された大量の灯りを貝殻が七色に反射している。その人物はボロボロになった紫の衣を纏っていたが、その破れて薄くなった生地すら色っぽく、その高貴の色に相応しい美しい頭を据えている。この地域では珍しく、美しく日焼けしていない肌を持っていた。間違いなく顔はユダヤ人で、彫りが深く鼻が大きいのだが、横に膨らんでいるのではなく、つんと鼻先が上を向いていて、メリハリのある顔立ちをしている。だがそれよりも目を引くのは、その髪だ。豊かな星の海が広がり、それが足下の当たりまである。暗闇の中にあって一層黒く、艶やかな絹の糸が、一本一本、風に抱かれ、光を含み、膨らんで萎む。光が髪を伝って、光っているのだ。
「あれ? お
「おっす、おはようさん。先にやってるぜ。」
声は小さいが良く通り、またその他暈から、その人物が声変わりが済んでいない年頃である事を物語っていた。
「おはよう
「おじ様、そのローマ人の子供は?」
「彼かい? 彼は
「なりませんよ、おじ様。」
即答された。だが
「
そこまで来て、漸く
「よ、よろしくお願いします…。ぼ、ぼくの事は
「フン。このぼくが美しいのは当然だ。ぼくはおまえを覚えるつもりなどない。精々、お
ばっさりと遮られ、きっぱりと拒絶されて、
「踊って下せえ、
盗賊達はゲラゲラ笑い、見るからに別格の酒を指しだし、一体何処にあったのか、鼓を取り出して好き勝手に叩き始めた。
「踊って踊って!」
「嫌だよ。ぼくはお
ぷいっと顔を背け、
ここまで骨抜きにされて、もう
「お帰りなさぁい! ただいまそちらに行きます!」
「???」
何か聞こえたのだろうか。
「
「ん? ああ、君には聞かせなかったんだね。なら言っておくよ。今のは頭領の「恩寵」を、
「???」
「私が、みえなくてもみえるのと同じさ。」
「???」
何のことだろう、と、考えようとしたが、またしゃらしゃらと音が近づいてきた事に気付き、すぐにその考えが霧散した。彼が帰ってきたのだ。大きな足音を伴い、盗聴も一緒であることが分かる。たでぇま、と、戻ってきた頭領の傍らには、会いたくもないあの野蛮な
「いいか、
ざまあ見ろ。
「お
「おお、
何も言わずに
「ハヴァー・サメハ! ベレーヴ・ナーギラー!」
恐らくそれは気の所為に違いなかったのだが、
これは魔術なのだろうか?
宴が続く、続く、続く。どこまでも優婉な調べが。天に置き去りにされた空の欠片に反射して木霊する。岩は弓の音を喜び、砂が共に舞って、また跳ねる。静かに聞き入る者共はやがて眠りに誘われ、暖かいたき火の温もりを、今は遠く離れた母の胸のように、或いは顔も名前すらも分からぬ父の腕のようにして、身体を丸くして眠りに就く。一人、また一人、眠りに誘われ、明日の目覚めを確信して眠る。誰一人、眠っている間に無骨者や正義を代行する罪人が突入してくるなど思ってもいない。母の胎の中よりも、此処は安全で安心できる場所なのだ。いつの間にか聞こえてくる
「おやすみ、神の子らよ。神の祝福が皆と共にあるように。」
羽根のように柔らかな声がして、
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