第三節 洗礼

 馬の振動が頭に響く。気持ち悪い、と、吐き戻すと、殴られた。流れた血が徐々に固まり、抉れたこめかみの痛みが鈍くなり、むず痒くなってくる。髪はべっとりと濡れて固まり、頬に張り付いていた。

「お帰り、若頭わかがし。それに皆も。お客人は死んでないね?」

「―――。―――、―――、―――。」

 淀んだ沼の中に埋まっていた意識に、妙に明瞭な声がする。その声は味方だと、直感が告げていた。額に冷たい感触、これは手拭いだろうか。

その感触は女の指先よりも柔らかく、熱の日の母の掌よりも心地良い。血の痕を拭い、頭髪のいたる所で塊になったものを丁寧に取り除いていく。その手ぬぐいらしき者が、まぶたを拭いた瞬間、粘土のような重みが取れ、自然と目が開いた。

「ああよかった。もう頭は痛まないでしょう。」

 そう言って手を取ったたおやかな指先は、節くれ立っていて、少し太く、傷だらけで荒れている。目元から上に、幾重にも布が巻き付けられており、僅かに切り傷がはみ出している。恐らく両目を斬られて潰れてしまったのだろう。それも、かなり前からだ。だからこの指先は荒れている。指先でものを探り、指先で物乞いをするからだ。顔の半分、それも年齢や人柄の分かる目元が隠されているから正確には分からないが、声からしてまだ若い男だと言うことは理解できる。よく見ると、産毛が少し集まったような細く短い髭の中に、時々やる気を出した様なちゃんとした髭がぽつぽつと生えている、なんとも歪な顎髭がある。

「あの、貴方は―――。」

 身を起こそうとした時、うごおお、と、変な悲鳴が出た。自分の悲鳴。両足の脛だ。そこが腫れ上がっていた。恐らく打撲ではなく折れている。ふっふっと呼吸を整えると、疼痛が尻の骨を伝って背骨まで駆け上がり、首の筋を通って頭の旋毛から抜けていく。男はもう一度横たわらせ、触れないように腫れ上がった脛の上に手を翳した。

「ふむ…。君は、さっき手を取った時に分かった手の肉刺もそうだけど、なかなかの勇者だったようだね。全く、人を粗末に扱うもんじゃないよ…。今、元よりも良い状態に治してあげようね。」

「へ? ―――あだだだっだだだめ!! むりむりむりむり痛ァァァァァーーーー!!!」

 ゆったりとした動きだったが、裾と掌が触れ、蟻に食い千切られているかのような痛みが全身に広がり、悲鳴を止められなかった。だが盲目の男はそんなことはお構いなしで、暴れる両方の足をがっしりと掴み、良く通る声で言った。

「救いの為の預言者に因りて曰く、アーズ・ヴェダレーグ・カーアッヤール・ピッセーアッハ。」

 それは歌うような声で、その歌声に呼応するように、辺りに音楽が響き渡った。驚いて一体どこから聞こえるのかと辺りを見回す。だがここは、ただの岩室のようだった。天井は広く高く、洞窟は廊下のように成っていて、天然の豪邸と言って良い。岩肌がゾクゾクと音楽に身震いしている。音楽は透き通っていて、混じり気がない。耳を介さず、内臓を震わせて、血が喜び湧いて踊るのを感じる。ローマの将軍の家でも聞いたことのない音色だ。琴か、鈴鹿、弾き物か、打ち物か、それすらも分からない、否、分かり得ない程重複した道の音楽。もっと聞いてみたい、あの岩室の肌に触れられたなら、もっとはっきり聞こえるに違いない。そう思って手を伸ばし、立ち上がろうとすると、音楽は消えてしまった。同時に、脚の痛みもなくなっていた。あれ、あれ、と、脚を触ると、盲目の男は言った。

「どうです? もういたくないでしょう。どころか、調子は前より良いと思いますよ。」

「あの、今の音楽は何ですか?」

「音楽?」

 少しずれたところに顔を向けながら、男はちょんと小首を傾げた。知る限りの賛辞を尽くして、あの音楽を形容したが、全く通じなかった。最終的には、熱で浮かされて天の国にでも触れてしまったのでしょう、と、言われてしまった。そんなはずはない、と、意固地になろうとして、それどころではないことを漸く思い出す。

「こ、ここは何処ですか!? 貴方も彼の盗賊に掠われたのですか? なら逃げましょう、ぼくは兵士ですから、貴方を護れます!」

「無理ですよ。」

「大丈夫です、これでも百人隊の副隊長ですから―――。」

 パァン!

 そこまで言った時、足下で石が弾けた。ひゃぁと驚き飛び退いて、男の背中に隠れる。赤ん坊の拳ほどの小さな石が、自分の立っていたところで不自然に割れている。恐らくこのいしつぶてが地面に当たり、砕けて音が出たのだ。どんな豪腕ならば、そんなことが出来るというのだろう。考えるだけで恐ろしい。漏れそうだ。だが怖くても、敵を視認出来なければ対策も取れない。震えながら辺りを見回すが、どの洞窟も光を吸い込み、人の優しさをも吸い込むような冷たさを零しているだけだ。

「こら、怯えているじゃないか。かわいそうに、まだ成人したかしてないかくらいの、十二そこそこの子供だぞ。」

「いンやァ、俺の天眼てんがんを掠って逃げようなんて考える勇敢な若者の肝試しよ。生憎ただの小便うんこタレだったようだがな。おい天眼てんがん、靴を取り替えさせるから脱いでおけよ。」

 この男が、頭領なのだろうか。男は暗闇の中で何かしているのか、中々天井の隙間から注ぎ込む光の中に現れない。

「とりあえずお帰りなさい、頭領。マグダラ村からは悪路でなくて何よりだ。この子は若頭わかがしが強引に連れてきたんだけど、お前さまの眼に適うかい?」

 さてねぇ、と、曖昧な返事が返ってきて、ざり、ざり、と、足音が近づいてくる。音だけで、やはり男が大柄なのだろうと言うことが分かった。漏れそうだ。天眼てんがんと呼ばれた男は、柳腰でほっそりとしているのに、全く呑まれる気配がない。仲間だからだろう。でも何故それなら、傷を治してくれたのだろう。いやいや、あの時頭領に会わせるとかなんとか―――。

 もじゃ。

「ギャーッ!」

「なんでぇ、人をオバケみてぇに。」

 光の帯の中に誰かが入ったかと思うと、ぬうううっと顔が近づいてきて、とうとう尿道の栓と腰が抜ける。一つの植物のようにもじゃもじゃとした髭の上に、蔦のようにもじゃもじゃとしたもみあげ、その上に鳥の巣よりも酷くもじゃもじゃとした頭、肌は日焼けして浅黒く、もじゃもじゃの前髪ともじゃもじゃのもみあげともじゃもじゃの口髭の上に、大きな鷲鼻と、ぐりぐりとした瞳がある。左瞼には小さな傷があり、明らかに堅気の人間ではなかった。服の胸元からは、凡そ自分が生きてきた中で最も広い範囲に、やはりもじゃもじゃの胸毛が生えていることが窺える。

 もじゃもじゃに天眼てんがんと呼ばれた男が言った。

「君が髭も髪も禄に梳かないから、そうなるんだよ。可哀相に、こんなに怯えて。大丈夫ですよ、こう見えていい人だから。ほら立って、男の子でしょう。」

 天眼てんがんに抱き上げられて、もじゃもじゃの前に立たされる。肛門が緩んできそうだ。

「へっ、男娼じゃあるまいし、そんな面倒臭ェこと出来るかよ。そんな時間があるなら、野郎共に取り分の計算方法を教えてやるね。」

「ぼぼぼ、ぼっぼぼ、ぼくをどどどっ…ぐすっ、ふえ、うぐ…っ。」

 虚勢を張ろうとすればするほど、もじゃもじゃの隠れた凶暴性を想像してしまい、声が出なくなる。上半身は力強く固まって震えるほど力が入っているのに、下半身が緩みきっている。大丈夫大丈夫、と、天眼てんがんが頭を撫でるが、その掌が自分の頭を鷲掴みしないか怖い。ぼろぼろ涙を流して怯える姿を見て、頭領は大きく笑った。

「おい若頭わかがしの奴、間違えたんじゃねえのか? 俺ァ、昨日マグダラ村で暴れた後、ローマ様とユダヤ人のあいのこを捕まえたって聞いたぞ?」

「それは間違いないよ。武器は剥ぎ取ってしまったけどね、君も見た通り、私を連れて逃げようとする程度には勇敢で、君を見て失禁して脱糞しそうになるくらいには臆病な、ごく普通の百人隊の副隊長さんだよ。」

「そりゃ仕方ない。お前さんのそのナリで、盗賊団参謀とは誰も思うめえよ。」

 ええええ、と、顔が縦に伸びるような気持ちになった。頭領はぼすんぼすん、と頭を叩くように撫でて言った。

「坊主、母親がローマ人てなァ、本当かい?」

 こくこくこく、と、鼻水が飛び散るのも構わず頷く。頭領はもじゃもじゃの髭に飛び散った鼻水を着物の掌で拭い、顔の位置を変えず、器用にひょいっと天眼てんがんに視線を移した。白目が浅黒い肌ともじゃもじゃの体毛によく映えて、不気味さが増す。

「こいつは十二部族のどこに属してる? 天眼てんがん。」

 貴族みたいなものだろうか、と、少し外れた事を考えると、天眼てんがんがすらすらと言った。

「本当だとも。彼の母親はローマの軍人の三女、父親は賢王の嫡流の男だ。十三年程前に、ローマから行商にやってきた娘に一目惚れするも、余りにも自分が粗忽者そこつものだったからあしらわれて、激怒して孕ませたようだよ。でも残念ながら、こいつとこの子はもう出くわさないよ。」

 ぎょっとして振り向いたが、天眼てんがんはやはり見えていないからか、声をかけてきた頭領の方を、やはり少しずれた位置に見ている。

「てことは、この国を二分した迷君の子孫か。そりゃァ腰抜けの腑抜けの底抜けに決まってらァ。」

 不気味な会話を成立させて、頭領はがしっと頭を鷲掴んだ。驚いて声も出ない。だがそのまま文字通り引きずられていくと、削られた捨て石の椅子に座らされた。目の前には石切場から持ってきたのか、巨大な表面の平らな岩がある。どうやらここが食卓らしい。頭領が一番奥の椅子に座り、天眼てんがんは足下と壁をい頼りに、その右側の席に座った。

「丁度そこは、この前しでかした奴の席でね。俺はお前が気に入った。飼ってやるよ。まあ、居場所がないローマのねぐらに戻りたいってンなら、エルサレムの道にすっぽんぽんで放り投げてやってもいいが? だが自分の母親みたいに襤褸ぼろ雑巾になって捨てられるより、よっぽど良い暮らしをさせてやれるぜ。盗賊稼業が嫌なら、このねぐらで飯炊きでもしてりゃいい。」

「へ?」

「ここはお前みたいに、母親しか知らない奴ら、それも才能や美貌でのし上がれない奴らを、俺が面倒見てる。基本的にはお前さんを掠った時のように山賊家業だがね、狙うのは小太りの富裕層だけだ。義賊と思って貰っていい。」

 どんなに取り繕ったって、強盗は強盗じゃないか、とは、死んでも言えない。まだガチガチに緊張しているのを分かっているのか、頭領は少し硬い布袋を投げて寄越した。匂いからすると、どうやら葡萄酒らしい。

「まあ呑みねえ。新顔の神の子さんよ。その葡萄酒を飲めば仲間だ。ローマの白い眼の海に帰りたくなきゃ、それを呑むと良い。」

 ローマでの暮らしは、確かに家の中での居心地は良くなかった。だがここで断ると、恐ろしい本性が現れて、口封じとして惨殺されるかも知れない。それなら今は、憎き顔も知らない父の血筋に肖った方が良いだろう。

「ユダヤの神に乾杯! でもぼくは、飯炊きも掃除もしません。ぼくは脚を治して下さった、天眼てんがん様の護衛になります。」

 そう言って、何か言われる前にぐっと飲み干した。不味い。口元をぐいっと拭い、どうだぼくも男だ、と、睨み付ける。頭領は大笑いし、手を叩いた。

「いいねェ、その心意気! 小僧、お前さんには特注の槍を作ってやろう。しっかり天眼てんがんを護ってやんなよ。」

「私の護衛なんて良いのに…。貴方、気に入ってもらえたんですよ、頭領に。出世してご覧なさい、教育はローマで最低限、受けたんだろう?」

「いいえ! ぼくは天眼てんがん様にお仕えします。天眼てんがん様が殺せと言ったもの、奪えと言ったもの、それだけに槍を振るいます。」

「よしよし、よく言った! お前は今日から真槍しんそうと名乗れ。真理を守る槍だ。もしお前さんが、真理に認められたならその時は―――神の槍そのものとなるだろうな。」

 こうして、ローマの百人隊副長だった少年は、罪人の父親の故郷で、義賊の仲間として新しい名前を得た。

 ただ真槍しんそうの本音を言うと、それは頭領の人柄だの天眼てんがんの人柄だのではなく、単純に今おめおめと戻って罵声を浴びるより、一人か二人、出来れば全員ローマに着き出して、手柄にしてやろうと思っていたのである。その為には、盲目らしい天眼てんがんの傍にいた方が、都合が良かった。

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