第二節 旅立ち

 中天の光が照り吐く地面を、ローマの暴れ馬が蹴飛ばしていく。彼らは先ほど、取税人達から、自分たちが知らされているだけの金額を徴税し、国のローマ皇帝に納めに行く途中なのだ。彼らは当然、属国イスラエルの民草からは良く思われていないし、言葉も違うので、言葉の分かるイスラエル人に徴税を行わせていた。そのような者達は、多くが算術の出来る中級階級の出で、無学な者から数字をごまかして私腹を肥やしている事を、彼らローマ兵は知っている。しかしそれによって、無学な者達が蜂起する事は無い。取税人達は売国奴として蛇蝎の如く嫌われているから、彼らがローマを敵に回せば、帰るところはない。従って、ローマから見ると、彼らの金銭欲は非常に都合の良い物であった。親がしているように悪を行い、親がしているように善を行ってはくれず、その故に親が望むような善人には育ってくれない。それは領主と領民、国と国の上下関係においても、同じなのである。

「隊長ぉ、馬が疲れています。ちょっと休みましょうよ。」

 鎧で固めた男を乗せた馬はしかし、鼻をつやつやに濡らし、尻尾も持ち上がっている。ちっとも疲れていない。しかしその上に座っているのは、鉄の鎧が食い込んだ無花果か何かのようであった。顔が赤いのは逆上せている訳では内容である。百人隊長は答えた。

「お前は単純に葡萄酒が飲みたいだけだろう、副隊長。今は早くこの金をローマに届けねばならん。」

「でも隊長ぉ、こんなに太陽が照ってて、馬も喉が渇いてますよ。だから―――ぁだっ!」

 尚も繰り返す副隊長に、百人隊長が自分の馬上鞭で額を打った。くすくす、と、ッその更に後ろの隊員が笑うが、百人隊長は厳しい顔で言った。

「いつまでも一兵卒の気分でいるな、この軟弱者めが! そんな者にわしの背中が預けられるか! その年で副隊長に任命して下さった将軍閣下や皇帝陛下のお気持ちに応えろ!」

「うひっ、隊長は今日もカリカリと忙しいことでらっしゃる。」

 隙を見ては欠伸を繰り返していた副隊長だったが、涙目を擦ったとき、ふと地面が妙な色をしているところを見つけた。

「隊長ぉ。」

「今度は何だ! 次に無駄口を聞いたらローマに帰るまで葡萄酒は勿論水も飲ませんぞ!」

「そうじゃありません。ご覧下さい、この地面の色。もし葡萄酒が零れたとしても、こんなに黒々としているものでしょうか。誰かが怪我をしたに違いません。それも、とびきり酷い奴を。」

 百人隊長は視線だけ地面に落としたが、兵士達は顔を下に向けて、口々に「これは酷い」「なんたることだ」と、呟いた。しかし百人隊長は、眉を潜めてぷいっと前を向いてしまった。

「ああ、これは葡萄酒だ。何の変哲も無い、どこにでもある安い奴だろう。だから我々は、早くこの税金をローマに届けなければならん。」

「隊長ぉ、でも―――。」

「ぶ・ど・う・しゅ! 葡萄酒だ! 故に止まる必要はない! エルサレムからローマは遠いのだぞ、早く馬を歩かせんか!」

 副隊長以外は、何時も通りの澄ました顔に戻った。それでもうんうんと考え倦ねている様子を見て、鼻で笑っているほどだった。

「隊長ぉ、やっぱ―――。」

 その時突然、隊の馬が次々と嘶き、兵士達が落馬していった。敵襲だ。地面や馬に向かって、上の方からひょいひょいと情けない矢が飛んでくる。どんなものでも、刺されば痛いし、ましてそれが馬ともなれば暴れられて落馬し、それだけで人間は大怪我だ。副隊長の馬もそれは例外ではなく、尻に矢を受けて驚き、暴れて副隊長を振り落とした。他の兵士達は剣を抜き矢を切り捨て、切り立った崖の方を見やるが、賊の姿は見つけられないらしい。副隊長にそんな勇気は無かった。怖くて怖くて、岩陰に滑り込み、目を半分だけだして様子を伺う。隊長が勇ましく言った。

「全員馬から下りろ! 賊の仲間は上の道に三人だ、引っ捕らえて皇て―――、―――、―――?」

「隊長ー!!」

「化け物だ! 女神よ助けて下さい!」

 次々と兵士達が視界から消える。だがそんなことよりも、副隊長は目の前の光景に瞠目した。自分よりも頭二つ分は大きく、肩幅も腕一本分広い百人隊長が、僅かに宙に浮いているのだ。その顔は、部下を鼓舞しようとしたあの命令を発した方向を見たまま、こちらに顔を三分の二ほど向けた儘になっている。何か言いたいのか、はくはくと口を動かす度に、赤ん坊の涎のような血が、とろとろと流れてくる。それなのに百人隊長は、まだ何が起きているのか分からないようだった。

 どすん、と、大きな百人隊長の身体が、仰向きに放り出される。彼の身体に隠されていた賊が露わになる。酷く小柄で、少年にすらみえたが、外套の隙間から覗く瞳は、彫りが深く、鼻筋が通っており、薄い髭が、真上から照りつける日の光に僅かに揺れている。少年にしてはあまりに鍛えられすぎている腕が、短剣を振り回し、百人隊長の血を慣れた手つきで振り払うと、腰の鞘に戻した。その動きは剛胆で、あの該当の下にいるのは、髭の生えた美少年ではなく、身長の低いむくつけき男の肉体なのだろうと分かった。

「矢の無駄だ。殺せなかった連中は放っておけ!」

 その声は嗄れていて、普段から大きな声を出していると言うことが推察できた。先ほど上からひょんひょん矢をうっていた仲間を呼び寄せたらしい。がらがらと石が転がる音がして、副隊長の視界に二人の部下が入ってきた。あともう一人は、どうやら少し先の辺りで降りて、物色しているらしい。

「おい、どうだ。」

「頭領が好きそうなものはありやせんねえ。シフクを肥やす為の余分な税金も持ってないみたいっすよ。頭領の言ったとおり、ちゃんと計算は出来るらしいです。ほら、ろっこ。」

 手下の一人が、ほいほいと金の入った袋を六つ、賊の前に放り出す。まだあるかな、と、もう一度見てこようとする手下の頭を掴み、賊は言った。

「ばっかやろ! よく見ろ! ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ! ろっこねえじゃねえか! ちゃんと数えろ、頭領に報告するんだから!」

若頭わかがしこそ良く見て下せえ! いっこ、にこ、さんこ、よんこ、ごこ、ろっこ、ほら六個!」

「ありゃ?」

 なんと酷い会話だろう。だが今なら逃げ出せるかも知れない。そっと岩陰から出て行こうと、四つん這いになって岩陰から壁にくっついて移動する。だが兜が陽の光を受けた途端、ガツンという衝撃が来て、こめかみが抉れた。かなり強い矢が当たったのだろう。転がってゆらゆらと目の前で揺れているそれは、歪にへこんでいる。ばれた。だめだ。殺される。そう思うともうやるべきことが分からなくなり、股間が小水で鵐に濡れ、鼻水と涙と泥で、顔が水死体のようになる。

 ああ止めてくれ、近づいてこないで、殺すなら一発で心臓を射って、楽に死なせてくれ!

「うわ、くっせ! こいつ漏らしてやがる!」

「ああん? 生き残りか? はん、天下のローマ兵サマがお漏らしたあケッサクだ!」

 興味を持たれてしまったらしく、凶器を持った何人もの手下達が自分を取り囲む。どうやら隊を奇襲しただけの盗賊団ではなかったようだ。合流したのだろう。そこに待ったをかけたのは、あの数の数えられない賊の若頭わかがしだった。話を聞く限り、彼よりも上の人物がいるようだが、間違いなくこの場においては中心人物だ。若頭わかがしは副隊長の頭を掴み、ぐっと首を反らして真上を向けさせた。

「よく見ろ、このあきめくら。奴さん、頭領程じゃねえが、立派な鉤鼻じゃねえか。こりゃ純血のローマ人じゃねえ、混ざりもんだよ。おい小便小僧。テメェ、どこの国の血が入ってんのか、正直に言いな。気に入ったら助けてやるよ。」

「あ…あ、…。」

 言わなくては、言わなくては、言わなくては殺される―――。

 左目が血で塞がり、恐怖で舌が凍てつく。逆行でよく見えない若頭わかがしの顔は、見定めるようにこちらをのぞき込んでいるようにも見えた。

「は、は、母は、ローマ人…です。が、ち、父は、ゆ、ゆ、ユダヤ人…の、誰か…です。」

「誰か? 隠し子かい?」

「ち、違います! はは、母は、母、が、ユダヤ人、の、…商人に、、おか、犯されて…出来た、子が、ぼ、ぼくです。だ、だから、父親は…知りません。さ、裁きをう、受けてない、と、だけしか!」

「テメェ、ローマの地に託けて俺達を侮辱すんのかッ! この異教徒!」

 あ、ダメだ、殺される。

 全身の筋肉が緩み、小水どころか肛門も緩みそうになった時、ぐらり、と、頭が揺れた。下っ端共は憤慨しているが、若頭わかがしが大笑いして自分の頭を揺さぶっている。

「アッハハハハハハ!!! そうかい、そうかい! 正直もんだねえ、坊や。おいお前ら! あっしゃこいつが気に入ったよ。頭領に会わせようじゃねえか。」

「つったってえ、若頭わかがし。頭領はまだ、マグダラ村の下見に行ってまさァ。」

「いいじゃんいいじゃん。それまで真水の番でもいなご豆をくすねるのでも手伝わせるさ。おいお前、お前この中で一番馬に乗り慣れてるだろ、この小僧を乗せろ。死なせるなよ、天眼てんがんさまにお診せするまでは、傷が開くかもしんねえからな。」

 もし死んだ場合、自分は年老いて苦労した母の子のローマ人として死ぬのか、顔も知らない父の子のユダヤ人として死ぬのか、どっちなんだろうか。どの道死体は捨てられて、墓のあるローマには運ばれないだろうけど、腐っても百人隊の副長だったのだから、少しは助けてくれる価値があってもいいんじゃないか。

 手下達は止まらない失禁を笑っていたが、堪えられず肛門からも漏らすと、笑わなくなった。もうどうでもいい、羞恥心を抱く暇もない。どろどろになった顔を暴れ馬の項に預け、目を閉じた。 

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