第一章 従者
第一節 受胎告知
その年、四人の処女が、男に強姦された。
処女達は、皆結婚を約束した男がいたが、その許嫁に嫁ぐ前に、他の男の物になったのである。
女達は、それぞれ、首都エルサレム、ナザレ村、ベツレヘム村、そしてマグダラ村で男の子を産んだ。神の采配か、悪戯か、それとも計らいか、女達は皆、同じ名前で、その息子達も同じ名前であった。しかし彼らの父親は違った。
首都エルサレムで男児を産んだ娘は、祖先に、大王がその美しさ故に不法に手に入れた人妻が産んだ、一人目の息子を持っていた。彼女はつまり、大王の子孫だった。
彼女は、その年結婚を正式に決めたばかりで、また成人したばかりの十二の年の時、生まれ育ったナザレ村の外れで、羊飼いの男に犯され、身籠った。
彼女は両親が置いてから生まれた一人娘だったため、「贈り物」という名前を与えられた。彼女は幼い頃から首都エルサレムで、神殿仕えをして育った。貧しい羊飼いは、年に一度、国一番の祀りである過越祭に行く度、神官の周りをちょろちょろと動き回って、手伝いをしようとする童女のいじらしさに微笑んでいた。男は夜な夜な彼女を想い、風に聞いた名前だけを呼んで、恋慕を募らせていった。そしてついには、身分の差を飛び越え、彼女に自己紹介も何もしないまま、処女を奪った。そのきっかけは、彼女が神の託宣を受けた女預言者ではなく、ただの貧しく信仰の篤い老夫婦の娘であり、羊飼いの嫁に来ても恥の少ない身分で、成人してこのナザレ村に戻ってくると言うこと。その理由は、羊飼いが名前も聞いたことのない男の妻になるから、という事を聞いて、自分の物にしたいという欲情が爆発したことだった。
不幸中の幸いにも、羊飼いは娘を、自分の監督する羊たちが憩う水辺に連れ去って犯した。娘は十二歳で、まだ誰の男の物になっていなかった。その為、法律に則り、娘は夫がある身で不貞を犯した訳ではないこと、また助けを呼べない人気の無い場所で強姦されたという理由で、石打の刑によって殴殺されることは免れた。しかし、娘に隙があったから、操を見ず知らずの羊飼いなどに渡したのだ、と、婚約は破棄になり、母は、そのようなふしだらで利発でない娘に育ったのは、老いるまで子供を身籠もれない、神の祝福から外れた女が生んだからだ、と親戚中から責められ、とうとう姿を消してしまった。娘は利発で、ふしだらでもなかったので、母がどのような顛末を辿ったのか、理解していた。
そして、自分はあの悍ましい強姦魔の妻になってしまって、その証拠が腹の中にいるのだ、ということも理解していた。娘は実父に跪いて許しを請い、勘当だけは免れた。だが実父は娘を、自分の家の娘だとは認めず、下女として扱った。身重になっても、月が満ちかけても、中天に放り出して人がいない時に水を汲みに行かせ、涼しくなり、人々が外で働いている時は家から出さなかった。どころか、「娘を勘当したことを後悔して、よく似た奴隷の寡を買った」と嘘を突き通した。娘はそれくらい、弱り、窶れ、人相が変わっていたのである。
愈々子が生まれると悟った娘は、生まれた子供の事を考えた。もし、生まれた子供が男の子であれば、名も知らない犯罪者の家系を繋ぐ男児を生んだという事になる。そのようなことは許されない。自分はもしかしたら奴隷として助かるかも知れないが、息子は殺される。そう考えた。娘がどうにかして父の目の届かない所に行かなければ、と、悩んでいると、吉報が届いた。
このナザレ村の近くには、ユダ村という山奥の寒村がある。そこに住む祭司の家の妻は、石女のまま年老いたのだが、近頃大変な安産で、元気な子供が生まれたのだという。
娘は、これだ、と思って、すぐに父に、彼女に安産になるように祈願するよう頼みに行きたい、と、腹を庇いながら跪いて、やっとの思いで、一匹の馬を借りることが出来た。娘はそのまま、ユダ村とは正反対の、心の古里である首都エルサレムへ向かった。
娘は懐かしい神殿の前で産気づき、たった一人で息子を産み、息を引き取った。生まれた男児は、母を失った悲しみも知るまいに、一晩中泣き続け、大祭司が神殿にやってくるときになって発見された。大祭司は男児の母親が、ついこの前まで自分に使えていた乙女であることに仰天し、また彼女のような信仰に篤い者が、何の相談も助けもなく、斯うして孤独に死んでいった事の理由を推察した。大祭司は部下に命じて、娘を自分の家の墓へこっそりと葬り、男児を引き取ることにした。彼には生まれたばかりの娘がいたが、イスラエルの宗教の頂点に立つ大祭司の娘を嫁に出せるような気骨の若者に巡り会えなかったので、男児を自分の遠縁として理想の男に育て上げ、娘を嫁がせようとしたのである。
神殿の前で生まれたその男児は、「命の子」、即ち、バルハヴァ・インマヌエルと呼ばれた。
ナザレ村で男児を産んだ娘は、異教徒の国ローマに反逆した百人隊長の娘であった。つまり彼女はローマ人である。しかし祖先に、大王がその美しさ故に不法に手に入れた人妻が産んだ、二人目の息子を持っていた。彼女はつまり、大王の子孫だった。
彼女の父親のローマ人は、百人隊長に任ぜられる程の実力者であった。しかし帝国主義ローマの在り方に疑問を持ち、刃向かったのである。彼女が生まれる直前に、父親を始めとし、彼女を孕んでいた彼の妻以外の全ての一族の者は、時の皇帝により、国家転覆罪によって、十字架にかけられた。女達は、妻は夫の前で、娘は父親の前で、姉は弟の前で、妹は兄の前で、侍女は主人の前で、ローマ兵士により陵辱され、最期は興奮した男達の悍ましい遊びによって殺され、その死体は見世物にされた。
しかし娘を我が身に宿した母は強かった。娘の母は、自身も身重の身で陵辱された事に絶望せず、殺された侍女達の身体を叩き斬り、「首のない自分の死体」をでっちあげて逃げ延びた。そして属国であり、自分の祖先の国であるイスラエルの中部にあるサマリア地方へ移り住んだ。サマリア地方は、純血主義のユダヤ人が、バビロンに掠われる際に残っていたユダヤ人が、流れ込んできた異教徒の敵国であるバビロンの人間と交わった、混血民族が住んでいるサマリア地方である。そこにはゲリジムという山が有り、首都エルサレムにある神殿に詣でられないサマリア人が自主的に供えた神殿があった。彼女はそこで神殿娼婦をして暮らした。彼女はローマを憎んだ。イスラエルを呪った。ユダヤ人を罵った。彼女は一人の女の子を産み、その娘に「反逆者」という意味を込めた「贈り物」という名前をつけた。
娘は母から大いに人の見にくさを教え込まれて育ち、母譲りの肉体美で、イスラエル国王の目に止まり、妾にまで上りつめた。ローマの血を引く娘に子供を産ませることは、属国の国主にとって良い政略になると考えたからである。一方で娘は、ユダヤ人の血統主義に則って、ローマへの反逆の指導者を産もうと企んでいた。いずれにせよ、娘にとって国王の妾となることは、畜生の子供を産むのと同義であるから、身をねじきる想いの決断だった。
だが政治をよく知らない純血主義のユダヤ人の、特に宗教上の長老達からは、想像以上に疎まれた。国王はその時、甥の妻を略奪婚して間もなく、宮殿内には敵も多かった。そこで国王は、せっかくローマの血を引く自分の子供を身籠った娘を処刑し、後妻とその連れ子である姪を正式な国王の家族として迎え入れることにした。娘はその噂を聞き、寒村のナザレ村まで逃げたが、そこで兵士に見つかって討たれた。死体は、ナザレ村の外へ投げ出された。
だが娘の死体は、四日経っても腐らず、どころか野犬が食べに来る事すら無かった。不気味に思った門番が身体を調べてみると、娘の股から大量の水が出て、もごもごと腹が動いていた。悪霊だと思った兵士が娘の腹を割くと、刃で目を潰された男児が産声を上げた。門番は恐れ戦きながらも男児を国王の下へ連れて行き、どうすべきか、国王に相談した。国王は、男児の母、国王が妾にした娘の出自と、それから考えられる自分を蹴落とす思惑とを考え、たまたま『ユダヤの王』について説明するように呼び寄せていた女預言者に、男児を宗教的にも社会的にも肉体的にも抹殺するように命じた。女預言者は男児を引き取り、目の傷を手当てし、物乞いの方法を教えた。こうすれば、誰もこの哀れな盲目の男児が、政治的要素の強い血を色濃く引いていることなど思わない、と、考えたからである。
死して尚、王という者と戦った男児の母を敬った女預言者は、その男児を、「女傑の子」、即ち、バルサライ・インマヌエルと名付けた。
ベツレヘム村で男児を産んだ娘は、バルハヴァ・インマヌエルの母同様、老夫婦から生まれた娘だった。祖先に、大王がその美しさ故に不法に手に入れた人妻が産んだ、三人目の息子を持っていた。彼女はつまり、大王の子孫だった。
娘は上にも何人か、本来なら兄や姉がいたのだが、次々に病死していた。その為、娘には「強い女」という名前が与えられた。ガリラヤ湖を泳ぐ魚のように活発で瞳の輝く娘を、村の者達は慈しんでいた。娘が暮らしていたナザレ村では、既にバルハヴァ・インマヌエルの母が神殿で育てられていたので、村一番の働き者と呼ばれていた。許嫁も早くに決まり、一回り以上年上のその男を、実の兄のようにしたい、また許嫁の男も、幼妻を大切にしていた。娘は甘やかされてはいなかったが、誰よりも心が純粋で、人を疑うことを知らなかった。
ある時、娘の母方の叔母が産気づいたというので、娘は叔母の住むユダ村へ行った。そこは山奥の小さな村で、誰もが家族のように暮らし、助け合っていたので、乞食がいなかった。娘がユダにやってきて数日経ったある夜、人のうめき声を聞いた。不思議に思った娘が灯火を持って外へ出ると、独りのローマ兵が血を流していたので、訳を尋ねた。
曰く、馬が突然暴れ、まだ何人も仲間が苦しんでいる。しかし天下のローマ兵が属国イスラエルの下々の民に助けられるなど、外聞が実に宜しくない。だからお嬢さん、貴女に慈悲があるのなら、今晩の貴女の使う灯火の分だけで良い、消毒用に香油を分けてくれないか―――。
ローマ兵は腹から血を流しながらこいねがったので、娘は言う通りにした。言われるが儘に香油を持っていき、そして待ち伏せていた何人ものローマ兵に輪姦され、子を孕まされた。娘の優しさと純朴さを利用した卑劣な方法だと叔父は憤ったが、娘の叔母、つまり妻が産気づいていたので、親族に事を表沙汰にせず、娘の心の傷が癒えるまで、家の中に匿った。
その内に月が満ちていき、娘がナザレ村に帰る日にはすっかり腹は大きくなっていた。両親は既に、匿ってもらっていたことを知っていたので、何も言わずに娘を迎え入れた。しかし娘は、両親に答えて言って主張した。
「あのような卑劣な人間の存在を、神がお許しになる訳がありません。あれは神がわたしに与えた試練を象った、幻なのです。」
そう言って聞かない娘を見て、夫になる筈だった男は、大いに悩んだ。娘が帰ってきたのは夜だったので、まだ家族以外の誰も、娘が孕んでいることを知らなかった。だが娘が夫婦関係を築いてはならない時期に、明らかに自分ではない男の子を孕んだということが露見すると、彼女は不貞の罪で石打の刑に処せられ、殴り殺されなければならない。それを回避するには、男から離縁するしかない。だが、男に辱められ、この上自分にまで見捨てられたら、彼女の心は一体どうなってしまうのだろう、と、案じる程には、男は既に、娘を愛していた。その故に、男は娘を妻として迎え入れることに決めた。然もなくば、神の試練だから受け入れたとまで言って直向きに前向きになろうとしている娘の信仰心すら辱めることになる、と、理解していたからである。
静かなナザレ村は、俄にこの奇妙な夫婦に白い眼を向けた。肉体関係の無いまま、夫となった男は、妻が臨月の時、自分の実家があるベツレヘム村に行った。その理由を男は、「ローマの都合だ。」と言っていたが、ナザレ村の人々は、そう言って二人がそのまま逃げるだろう事を予感していた。そして、その通りになり、夫婦はナザレ村に帰らなかった。しかしベツレヘム村の近くに住む羊飼いは、その頃家畜が犇めき合う洞窟の中、赤ん坊の泣き声がした、と、証言したので、娘はベツレヘム村で、間違いなく子供を産んだのだろうが、その子がどんな子なのか、誰も分からなかった。
誰にも知られることなく生まれたその子を、インマヌエルと呼ぶ者はいなかった。
マグダラ村で男児を産んだ娘は、ガリラヤ湖畔の西沿岸に住む網元に嫁いできたばかりの娘だった。祖先に、大王がその美しさ故に不法に手に入れた人妻が産んだ、四人目の息子を持っていた。この息子は大王の後継者であり、賢王その人である。彼女はつまり、大王の子孫であり、その嫡流であった。
娘は大変な難産で産まれ、その過程で母を死なせていた上、自身も生死の境を彷徨った。娘が、赤子として健康になる頃には、一族は疲れ切っていて、祝福する程怒らないほどであった。それ故に娘には、「苦み」という名前が与えられたっが、成長してみれば娘は健康そのもので、次第にその名前の本来の意味、即ち「贈り物」という意味の名前をつけたのだ、と、一族は思うようになっていった。それくらいに、娘の健やかな成長を喜んでいたのである。そしてこの度、娘は成人し、晴れて網元の家に嫁いできたのである。姑は既に亡くなって久しく、舅も老いていた。そして彼女の夫は、義父の実の子ではなく、義父の弟の家から強奪するように養子にされた男だった。つまり、舅の甥が、養子になっていたのである。それというのも、舅は亡くなった姑との間に、一人も子が成せなかったからである。
娘はそのことを、子が成せない男の執念を、理解できていなかった。その為、目の前の夫になる筈の男の為に、花を摘んで歌を歌っていた。それくらいに深く、娘も、また娘の父も、彼らを好いていたのだ。
しかし、娘が妻になる前に、舅が娘を強引に自分の妻にしてしまった。自分の直系の子供が如何しても欲しかったのである。甥は、舅の親戚ではあるが、子ではなかったからだ。だが娘は孕まなかった。同時に、怯えて夫と正式な夫婦になることも出来なかった。舅はそれをすぐに察知したので、娘が身籠ったと分るまで、何度も犯し、子種を植え付けた。娘は恐怖で、既に人としての会話すら出来なくなっていた。『悪霊憑きの哀れな嫁』でありながら、不思議なほど家族の中に溶け込んで暮らしていたが、最早人の言葉を話さず、何処も見ず、何も聞いていない不気味な女が、自分たちの跡継ぎを有無かも知れない、という事実は、舅ですらもとても恐ろしく感じた。悪魔が産まれてくるかも知れない、と、思ったのだ。月が満ちかけた時、舅の強い勧めがあり、夫は肉体関係の無い書類上の妻を離縁し、新しく元気で丈夫な、別の娘を妻に迎えた。その時には娘の父は既に亡く、兄たちは娘を養う余裕が亡かった。何より、悪霊憑きとして追い出された娘を、引き取る親戚はいなかった。
娘はマグダラ村の外れで、ユーカリの樹を家にして暮らし、身重の女を買いたがる物好きな男達に、時々商売をしながら食いつなぎ、男児を産んだ。娘はかくも、女として汚れきった自分に与えられた、女として汚れきった自分に与えたれた、子供という宝物を腕に抱いて涙を流し、強く、この男児は神の子であるという確信を得たそしてこの子が成人するまで、静かに暮らしていこう、時が来るまで悪魔から守ろう、そしてこれから先、誰にも自分の身体を売らないという誓いを立てた。
娘はこのような強固な信仰の故に、「父の子」、即ち、バラバ・インマヌエルと名付け、彼が割礼を受けた晩、突如として息を引き取った。バラバ・インマヌエルは、導かれてやってきた女預言者に拾われ、バルサライ・インマヌエルと兄弟のように育った。
かくして、このイスラエルの地に、「贈り物」「強い女」「反逆者」「苦み」という同音異義の名を持つ娘から、四人のインマヌエルが生まれた。父親が分からない、つまり父系祖先が分からないことは、この世はかくも世知辛く、差別と侮辱と偏見に耐えながら生きる、正しく苦界であった。
そんな自分たちを産ませた父が死んだ頃になると、四人のインマヌエルはそれぞれ家を発った。
司祭に引き取られた、「賢者」神と共に居られる│命の
ローマ人の血を引き、死にすら抗った盲目の「勇者」神と共に居られる│女傑の
外国へ逃げた名も無き難民の息子、「無名」神と共に居られる│
入り乱れた「父」の元、深い信仰に生きる「従者」神と共に居られる│父の
彼らは成されるべき約束の為、その人生の全てを神に捧げる事になるのである。
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