辺獄にて
作家だった魂はとぼとぼと心象風景の中の道を歩いていた。
両側には彼の人生の曖昧な記憶の風景が様相を変えながら漂っている。
「はて、これが死後の世界かえ」
最後の記憶は心地よい酒杯。たぶん、あのまま死んだのだろうという自覚が彼にはあった。
「ふむ」
鏡がないので顔は確認できないが、なでまわした感じは売り出し始めたころのいつも金に困って無心したり別名で艶話を書いたりしていたころのようだ。まだ昔の優雅さが残り、飛行機械もようやく現れ始めたころ。あのころは筆がとにかく走った。後年見れば拙いこときわまりない作品ばかりであったが、いかにしても取り戻すことのできない勢いもあったころだ。
「肉体が塵に帰ったから魂の自由な形に帰ったというわけだ。それならもう肉欲も食欲もないのかな。確かに腹はへってない。ちょっとそれは寂しいな」
そして曖昧模糊たる記憶の風景を見回す。
「思い出ってやつも確かにこの程度にしか覚えていなかったが、いつも体が娑婆とかかわってたからかこんなにはっきり自覚はしなかったな。それと、俺こんなに独り言おおかったかな」
「それは、考えてることとしゃべってることの区別がなくなったせいよ」
はじめて鮮明な存在感をそなえた他者があらわれた。始めてあった時と全く同じ姿の女性だった。
「おどろいた。キクさんのことをこんなにはっきり覚えているなんて。おかしいな、ばあちゃんみたいで気にはなってたけど、ここまで好きだったかな」
「あらまあ、光栄だこと。でも違うのよ。私は私。あなたの記憶から出てきたわけじゃございません」
「おや、そうなのかい。ここはどこだい? キクさんも死んだのかい? 」
「ここは……ちょっと説明が難しいので後にしましょう。私も死んでおりますよ。ただし、もう二百年くらい昔で、場所もどこよりも遠い寒村、すっかりおばあちゃんで孫や子供たちに囲まれてね」
「それでは、あんたは幽霊だったのか」
「ええ、体を持った幽霊ですわ。若返るというのはとてもうれしいこと。自由に手足を動かせるってほんと素敵」
キクは両手を広げてくるっと回ってみせた。小娘のようだ。
「先生も、全盛期の姿に戻ってずいぶん気持ちがかわっているのでなくて? 」
幻遊斎は自分の手を眺めてうなずいた。
「確かに」
自分の体は思うように動いて疲れもない。それだけでも今は新鮮だった。
「しかし、どうもこう実在感がない」
「そのまま消えてしまうこともできますよ」
「消える? 」
「考えるのをやめて、実存しなくなるだけです。ヨシスケを覚えていますか? 」
「ああ、もしかして彼も幽霊だったのか? 」
「あい。彼は私よりずっと昔に死んだ人から生まれました。彼はもう消えてしまいました」
「おや、話をしたくてももう無理なんだ」
「話をしたければ、呼び出せばいいのです。私があなたを呼び出したように」
「呼び出した? 」
「ええ、死者の魂のたゆたう深淵から。誰でも求められている間は存在を続けることができます。本当にしたい話がつきるまではつきあってくれるでしょう」
作家はキクの顔を見た。あたりまえのことをあたりまえのように言っただけ、そんな顔をしていた。
「あんたもそうやって誰かに呼び出されたのかね」
「ええ」
誰に、何のために呼び出されたのか。そして今でも在り続けるのはなぜか、彼女は説明しようとしなかった。作家も聞くべきではないと思った。
「呼び出されたわけをうかがおう」
「本当のことをいうと」
彼女はちろっと舌を出した。
「心残りのある人はほっておいてもそのうち出てくるのです。そう言う人を呼び出すのは簡単。ちょっとしたことを聞きたいだけだけど、あっさり呼び出せたのですからあなたも未練たっぷりで死んでいかれたのですね」
幻遊斎は苦笑した。
「否定しない。しかし、死後の世界なんか信じていなかったが、どうも勝手が違う。天主教のように神々しい絶対神と美しい天使たちが群れているわけでもなければ、天帝教のように死者の官僚たちによる秩序だった薄暗い世界でもない。そもそも転生があるのかどうかもわからない」
「あれは、どちらも生きている人間を律するためのものですからねぇ。転生なんてありませんよ。人間はその一瞬一瞬の存在に過ぎません。今の自分は一瞬前の自分によって生じた別物です」
「哲学的だな」
「ここはそのすべての一瞬を記憶している哲学的空間ですわ。いつからあるのか、なぜあるのかわかりませんが、そんなことは些細なことです」
「すごいね。さらっといってのけたよ」
「どういたしまして」
キクはにっこり笑った。
「よろしければ、わたくしがあなたのベアトリーチェをお勤めしてもようございますよ」
「それは、誰だい? 」
「どこかの国の文学で、地獄や天国といった死後の世界を案内する話がございましてね。その道案内の人です」
「なるほど。本当に聞いたことの無い話だけど」
「そのへんはおいおいと。ちょっとした質問は、その最後ということでいかがでしょう」
「いかがもなにもありがたいことこのうえないですな」
作家は頭を下げた。
「よろしくおひきまわし願いします」
「では、まいりましょうか。死んでなお迷い出る伏魔殿の数々をお見せいたしましょう」
キクはとてもうれしそうだった。
「それは、楽しみです」
作家の心は未知への冒険心でわくわくとしていた。
-閉幕-
朽ちてのち緑 @HighTaka
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