航空機の時代
二十年の歳月が流れた。
今や推しも押されぬ大作家となった幻遊斎はあと半年で退役する飛行船のタラップを渡る。密閉式のタラップで飛行船をがっちり固定してあり、昔のように揺れて危ない思いをすることもない。
眼下には飛行場があり、大型の貨客機が誇らしげに輝きながら地面を蹴って天空高くかけあがっていく。もちろんあれにももう何度ものっているが、今回、わざわざ時間のかかる飛行船を選んだのはふと思うところもあったからだ。
「やはり飛行機械にしようよ」
同行する息子がぶつぶつ言う。年齢は十四で学校も休みなので連れ出したのだ。あまり頭はよくはないが、彼がかつて伯父にならったものについて物好きにも習いにくる若者たちをながめてそだったせいか、門前の小僧なところもある。
「まあまあ、たまにはいいではないか。それにわしらは個室をとってあるのだからな」
かつて、ゴンドラの中は廊下をはさんで全部コンパートメントであったが、今はわずか二室だけのこしてあとは大きくもたれることのできる椅子をみっしりならべてある。飛行機械の速度にはかなわず、運賃を安くしてそのかわりできるだけ大勢をのせようとするとこうなったのである。乗客も今はあまり裕福でない人や若者ばかりで幻遊斎のような者がのることはない。
座席の半分ほどがもう埋まっていて、早々と寝ている者もいる。数人、幻遊斎に気づいてびっくりし、荷物をごそごそあさって本を取り出しサインをねだりにくるものが現れた。
しばし、たったままの臨時のサイン会となり、作家が個室に姿を消すとファンの若者たちの間でざわめきがしばらく続いた。
「こりゃあ、寝かせてもらえんかもしれんな」
どこか楽しげに彼はつぶやいたが、はたして話をしたがる若者たちの訪問を受けて夜更かしをするはめとなった。息子はあほらしいとばかりに早々に寝てしまったが。
汗国の都もずいぶん風景がかわっていた。伯父の屋敷はとうになくなり、その跡地はどこだったかわからないほど分割された。もちろん十年ほど前に伯父は故人となってしまったし、屋敷は国に没収されてしまった。残っているのは墓ばかりである。
馬車は姿を消し、気動車が我が物顔で往来している。事故が後を絶たないため、規制を作るという話だ。そして作家は奇想哲学小説フェアの会場である書店を訪れた。
若い作家が数人、彼を見つめている。うさんくさい難民あがりの物書きだったころとは雲泥の差だ。イベントの間、彼は求められる役割を完璧にこなした。息子はその間、図書館でなにやら読みふけっているようである。
座談会が行われ、最近若い奇想哲学小説家が発表し、共和国、汗国どちらでも発売のさしとめが行われた作品について、規制と表現の自由について語り合われた。幻遊斎はあまり意見を言わず、きかれたときだけ答えるにとどめていたが、みなこの大御所の本音を聞きたがり、とうとう追いつめられてしまった。
「もう故人だが、私の伯父に神学者にして古典詩の研究者でもあった人がいる」
彼は少し考えてから慎重に答えた。たぶん、なにを言われるか緊張著しいその若者を傷つけることになるだろう。つけるなら、膿みをだしたあとはつつがなく癒える傷にしなければならない。
「その人からいただいた言葉に『虚構は実におもしろい』がある。これは汗国の古典諧謔詩の複意句のようなもので、少し変形だが三つほど意味を重ねている。わかるかね? 反対の意味の言葉を少し足して、あわせて意味が見えてくるのだ」
座談会参加者、会場の聴衆は最初は少し遠慮がちに、最後は場もなれてどんどん手をあげて考察を述べた。
「ほぼ出尽くしたね。このへんにしよう。それらの意味はそれぞれ含意にあると思う。この座談会では次の意味を押し出して、問題となっている作品について意見を述べたい。すなわち、虚構と思えるものは面白く、虚構と思えないものが面白い。価値観や利害のような自分も巻き込まれている現実の対立に直結しないものが楽しむことができるものであるし、それでいて荒唐無稽なだけではないリアリティのあるものは入り込めるということです。問題の作品は天帝教や天主教の対立の背後に、我々と異なる知性が存在し、しかも対立しているという大変斬新な視点で描かれていますが、天帝、天主の対立がリアルすぎるのが問題です。みなさん、ここにいる私は宗教を理由に戦争と鎖国が続いていた時代に生まれた最後の世代です。宗教の支配と対立はいまだに現実味が強いのです。今時点でこの作品を面白いと思えない人は多数いるでしょう。それが今は実権を握る世代にいるというだけです」
座はしいんと静まり返った。一人、おさまりきらない若い作家が手をあげた。
「先生自身はこの作品をどう思うのです? 」
「面白いと思いますよ。今は幻の作品としておけば、世代交代が進んだころに再度注目を浴びることができると思います」
場がざわめいた。
「本当にそう思いますか」
会場の若い女性が質問した。その顔を見た大作家は一瞬まじまじとその顔を見たがにっこり微笑んだ。
「ええ、そうなると思います。そんな時代になるべきです」
さらに十七年の歳月がすぎた。
二大国の衝突はなかったが、小国同士の戦争は数回あった。その動機はもはや経済的なものであって宗教的なものはなかった。いや、一度宗教的な口実を駆使した国があったが、その最初の戦争相手は同じ宗教の国で、結局最後まで同じ宗教の間での戦争を繰り広げて政権が崩壊した。
看護婦と軽口をかわし、少量の食事を終えた幻遊斎は病室の窓からけぶるような花に包まれた並木を見下ろしていた。だんだんに暖かくなり、体の負担も楽になってきた。共同の談話室まで出ればラジオも聞けるし、最近始まった映像つきラジオを見ることもできるが、彼はしいてそうはしようとはしなかった。
この数年、臥せったり起きたりが続いている。
医学はずいぶん進歩したが彼の病気はいまだに有効と見なせる治療法がない。幸い、症状は回復はしないがそれほど悪くもなっていない。
ドアがノックされ、口ひげをたくわえた上の息子が入ってきた。汗国の服装をしている。彼は国籍をあちらに移していた。今では汗国の古典詩、古典文学の新進気鋭の研究者としてあちらの学府につとめている。
「具合はどうだい? こちらの学会に招かれてきたのでよってみた」
「近頃はいい。まあ、まだ死ぬようなとしじゃないさ」
「そう願うよ。親父に思い出してほしいことがまたできるかもしれないからね」
「お前の大伯父さんに習ったことか。もう全部教えたと思うぞ」
息子は下げたかばんから香ばしい香りのする紙包みをだした。
「ほれ、好きだったろ? 空港で焼きたてを買ってきたよ。いま、茶をいれよう」
「ありがたい」
病人はかりっと焼き上げられた小麦せんべいを少しかじって幸せそうな顔をした。
「子供のころの、幸せな思いでといえばこれだったんだよな」
「あんまり食べないね」
「最近食が細くてねえ」
「そんなに痩せてしまってどうするんだい」
「まあ、多分大丈夫だろう」
幻遊斎は笑った。息子はそのサイドテーブルにおかれたタイプライターと打上った原稿に気づいて少し眺める。
「おや、奇想哲学小説じゃないね」
「もう若いもんの発想にはかなわんからな。そいつは私が子供のころの経験したことを切り出したものだ。あいまいなところを少し膨らませたり、事実を取捨したりしているから自伝といえず、小説とも言いにくい」
「出版するの? 」
「出したいというなら出すさ。これまでは読者と一緒にはっちゃけてきたが、これは自分のために書いたものだ。世間受けするかどうか知らん」
「ふうん」
若き学究はぱらぱらとめくった。
「主人公はひいおばあちゃんなんだね。おや、ところどころ古典詩がはいってる」
「家族の詩帳があってな、思い出せるだけ書き出して使ってみた」
「それはもうないの? 」
「親戚の誰かがまだ持ってるかもしれないがあんまり期待しないほうがいい」
「いくつか、傑作といっていい詩がある。これなんか誰が作ったの? 」
「弟だ。おまえの叔父さんだな。この逃避行のあとあんまりおかずに流行病で死んでしまった」
「惜しいなぁ。すごく詩才があるよ」
「まあ、そんな時代さ。特に死ぬべき理由もなく人は簡単に死んだし、不幸はそこいら中にあった。だが、なぜかなつかしい。あの時代に戻りたいわけではないが、お別れをした人たちともう一度だけ話がしたい」
「そうか」
息子は土産のせんべいをすすめ、病人はもう少しだけ食べた。
談話室のほうでわっと何か声があがる。
「共和国の打ち上げ花火が、衛星軌道に人工の衛星をのっけるのに成功したらしい」
ライバルの国の人となった息子が説明した。
「汗国も来月くらいに同じことをするそうだ」
「人はすめないが、隣の惑星に達するのもそう遠い話じゃあないな」
「親父の初期作品がすっかり時代遅れになったね」
「かまわんさ」
作家はぽりぽりと音をたてた。
「宇宙開発をやってる技術者から手紙をもらったことがあってな」
「ほう」
どっちの国の、ということを若い学究は聞かなかった。
「俺の作品をよんでこの道を目指したそうだ。冥利に尽きるとはこのことだ」
「明日にも死にそうなことをいわないでくれ。縁起でもない」
「ん、そろそろ生きてるのもしんどいんだ」
「おふくろが死んでからすっかり駄目になったな。ガキのころの親父はやせ我慢と意地でつっぱりまくってたじゃないか。若手が出たら素直に感心して、それ以上をめざしてた」
「まあ、じじいがいつまでものさばってるわけにもいかんじゃろう」
「あんたみたいな親でも、いないとさびしいから。それとあと一つ、報告がある」
「なんだね」
「今度結婚するよ。式に出てほしいけどその様子じゃちょっと無理かな」
「驚いた。相手はどちらの娘さんかね」
「写真と手紙もってきた。恩師の紹介なんだ」
幻遊斎は写真を眺め、手紙の名前を確かめた。
「もう一度驚いたよ。地味だが心遣いのあるいい娘さんじゃないか。おまえには不釣り合いだ」
「ひでえな」
「雅文もしっかりしてておもむきも十分。大変なお嬢様だぞこれ」
「知ってる。家はそれほど金持ちではないけど、恐ろしいほどきちんとしてる」
「そうだろうな。こりゃ、俺が子供のころだと口も聞けないくらい身分が上の家の姓だ。時代はかわったな」
「いつになるかわからないけど、孫の顔も見せるよ」
「そりゃあ、楽しみだ」
無理といわれながら、息子の結婚式に幻遊斎は出席した。色もの小説の大家が新郎の父ということであんまりいい顔をしていなかった新婦側の親族は、まずその病的にやせた姿に驚いた。そして挨拶の後に披露した祝福の古典詩のできばえにさらに驚いた。そして彼が古き時代の神学、詩学の最後の泰斗の甥であったことを思い出した。
帰国してしばらく、病が回復したように幻遊斎は元気であった。数本、小品をかいて雑誌寄稿もした。だが、孫の顔をみることもなくある朝冷たくなっているのが見つかった。
その枕元には、二十年近く前に若手であった奇想哲学小説の作家、今では歴史小説の大家となった人からの手紙があった。
あの幻の作品がついに日の目を見る、という内容であった。
幻遊斎は寝る前に一人祝杯をあげたようであった。
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