帰路

 旅は始まったときと同じように唐突に終わった。作家は丁重に礼をいわれ、これ以上の同行は無用と告げられた。西通家の印章のはいった支払手形を渡され、帰路の費用を別に渡された。

 御史局の男というのは陽気な人物で、キク、ヨシスケの二人連れにも愛想がよかった。しかしこの二人は何やら非常に警戒している様子である。三人は帰りの飛行船を待つため都にとどまる幻遊斎に見送られて黒煙をはく蒸気機関車が牽引する列車の中へと消えていった。

 これから一等客室で一昼夜かけてまずは一番近い駅までいくのだという。ずいぶん遠くに移ったものである。

 二日ほど時間ができたので、彼は伯父の家に寄食し、ちょっとした手伝いをしながらぶらぶらと久しぶりの都を歩き回った。古いまま残ったところはくすみ、新しくできたものは誇らしげに輝いている。だが、彼は古くくすんだ建物やモニュメントのいくつかがかつては同じように誇らしく輝いていたころを知っている。いま出来上がったものもいずれこのようにくすんで取り壊されるのを待つままとなるときがくるのだろう。

 私諜、を主人公にした話は一度書き上げたが、少し出来栄えに首をひねるところもあって、帰ってからもう一度見直そうと思っている。その前に私諜にもう一度あってイメージを固めようと思い、事務所を訪れた。

 そこには閉鎖された建物と売り物件の文字が張り出されていた。もちろん私諜はいない。それどころか建物に入れない。

「いったい、こりゃあ」

 私諜に調査結果をもらいにいった直後に引き払ったとしか思えない。

 あの調査結果はありきたりのもので、二人は目指す人物がこの土地の権利を売買したときに確かに列車でむかった奥地にいることを確かめたのである。

 その翌日にはもう引き払っていたことになる。どうもこう化かされた気分である。

 そして彼は再び飛行船の客となった。行きとは別の船で、こちらのほうが少し新しい。船室は半分ほどうまっていて、彼が最後の乗船者だった。

 見送り場には伯父の姿があった。珍しく見送るというのである。彼の姿が見分けられないのか、老碩学は少し違うほうに手をふっていたようである。

 いや、彼は間違えていた。伯父が手をふったのは彼にむかってではなかったのだ。

 それがわかったのは飛行船が一昼夜かけて再び共和国の都に戻った後のことだった。

 飛行船が到着するときと出発するときはごった返すものだが、特にこのときはひどくごった返している様子。

 なぜだろうとサロンの窓から地上を見下ろしていた作家は、モンド伯爵の飛行機械がやや不安げながらも家の二階くらいの高さを飛んでいるのを見つけた。飛行船にくらべれば実にささやかな高さと飛行時間だが、速度は結構出ている。滑走路を取り囲んで見物の人々と、ちかちかとまたたくのはフラッシュをたく記者たちだろうか。

 飛行のデモをほぼ真上から見物できるというのはかなりの僥倖に違いない。船客はコンパートメントを出てゴンドラが傾きそうになるほどまどべに集まっていた。もちろん幻遊斎も窓がやぶれたら墜死まちがいなしなほど身を乗り出して見ている。とうとう船長が危険を理由に解散を命じたほどである。

 そんな騒動の中一室だけ出てこなかったことに作家は気づいた。そういえばこのコンパートメントの客はルームサービスを運ばせるばかりで出てこなかった。何か事情があるのだろう。

 軽い衝撃だが、どこか重々しさもあるそれとともに飛行船は係留され、タラップが渡された。固定し確認するまでの少しの待ち時間の間に、船長よりカクテルが一杯ふるまわれる。その時も開かずのコンパートメントの客は出てこなかった。

 旅行鞄をよいしょと持ち上げてタラップに向かう時に客室係がそのドアをノックし、中から「準備はできている」と返事する声が聞こえた。その声に聞き覚えがあると思ったが、先を急ぐ気持ちの出ていた彼はそれが誰の声か思い出せなかった。

 疲れていたにも関わらず、彼は飛行機械のデモを間近で見物し、顔見知りを探してモンド伯爵にインタビューまでやってのけた。

「今回の飛行で確信を得ました。飛行機械はもっと高く、もっと早く飛び、もと大きくなって飛行船にとってかわりますぞ」

 伯爵は鼻息荒くそう言いきった。

「奇想哲学小説でもがんがんとりあげてくだされ」

「もちろんですとも」

 それ以上に膨らませて空の彼方へ、違う人間の住まう天地まで飛ばす気まんまんで彼は伯爵と握手したし、それを記者たちが写真にとった。

 よし、これでまた本が売れる、しめしめ、と幻遊斎は思った。 

 くたくたになって自宅に戻ったころにはとっぷり日がくれ、大家への挨拶もそこそこ彼は近所の居酒屋にでかけてワインで食事をとった。

(今ではすっかりこっちの飯のほうが腹になじむ)

 ワインのアルコールがほんのりまわったところで作家の脳裏に不意にひらめいたものがあった。

(あれは、私諜の声だった)

 そう、ずっと閉じこもったままのコンパートメントの中から帰ってきた返事である。

 こうなるともうなぜ、なぜ、という疑問と推理が次々にわいてくる。食事をきりあげた彼は伯父にむけて少し長めの手紙を書いた。電報などで確かめるべき内容ではなかった。

 返事が帰ってくるまでに幻遊斎は軍人に借金を返し、私諜小説を売り込むべく出版社を訪れ、増刷のかかった既刊に検印をせっせと押した。なにしろ偽物がひどいものを売ろうとしたりするご時世なので、作家が確かに自分の作品であるという証明印を押せとお達しがあったのである。おかげで検印捺印は一個いくらかの小銭稼ぎになっていたし、その額は本の単価の一割ほどで豪華版がでると本当に儲かった。

 帰ってきて一ヶ月以上がたち、あの二人連れのこともごくたまに思い出すもののほぼ忘れて、飛行機械をつかった大冒険ものを半分しあげたころに伯父から返事が返ってきた。

 送ってほしい本のリストがほとんどで、返事自体はそっけないものだった。

「虚構は実に面白い」

 自分の出した手紙のカーボンコピーをとっておいて、本当によかったと作家は苦笑した。

 原稿は手元にのこらないこともおおいのでかならずカーボンコピーをとっておくようにしているのだ。

 やはり手紙の内容は話としてみると実につまらないものだった。

 つまり、あのコンパートメントには尋ね人たるあの商人と、その身柄を物理的、情報的に護衛する役割の私諜がいたのだ。幻遊斎が同じ便にのっているのは知っていたはずだが、急ぐ事情があったに違いない。それはあの二人が商人の不在を知って戻ってくるまでに強いて共和国に逃げることにしたということだ。移動が隠蔽されれば灯台下暗しである。二人と顔見知りの作家が顔を見なかったということはそれにおおいに寄与するだろう。

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