翼ある乙女たちの祝祭
下村アンダーソン
第1話 階段
初めて第七階層を抜ける階段を見つけたとき、これで天まで駆けあがっていける、とネルは思った。
長らく道を阻んでいたのは、この階層に来て以来、ずっと知っている扉だった。週に五回の寺院へのお参りの際、必ず前を通る。塀の一部としか認識できないほどに見慣れて、触れることさえずっと忘れていた。他の扉はいくらでも開けられたというのに――これだけは開くものだという気がしなかった。
その日の祈りのなにが普段と違ったのか、ネルには今もって分からない。帰り道、ただ漠然とメリンダの顔を思い出し、久しぶりに手を翳してみようと思いついた。日付までよく覚えているのは、それが十一歳の誕生日の前日の出来事だったからだ。
誰にも付き添いは求めなかった。参拝のあとは誰しも、遊びに繰り出したがる。〈祈り手〉候補の仲間たちとて例外ではない。厳粛な気配から解放され、ほっと一息つく時間を、わざわざ邪魔したくはなかった。
「天にもっとも近き、我ら〈ハイランダー〉に栄光あれ」
別れ際、お定まりの挨拶を寄越した友人たちに、ネルは笑いかけた。
「みんなも。私たち〈祝祭の子ら〉に幸いがありますように」
〇
儀式を締めくくる〈祈り手の歌〉が終わると、術式に支配された門はひとりでに開く。人がどっと吐き出され、あたりは混迷を極める。あるていど静かになるのを待ってから、ネルは石畳の通路を行き過ぎて、市街地へと続く橋を渡っていった。
渓谷から起きる風が前髪を揺らす。途中で振り返れば、崖の上に建つ寺院はまるで空中に浮かんでいるように見えた。
古びた石壁のあちこちが蔓草に覆われて、茶と緑の入り乱れた模様を作っている。一見すると不規則なそれが、実は〈アルイエンの紋章〉を象っていることを、都市の住人はみな知っている。ネルも物心がつくと同時に、育ての親のアネクに教わった。
あの頃はメリンダがいつも一緒だった。ネルの移住以来、直接顔を合わせることの少なくなってしまった、義理の姉妹にして友人。
紋章は、この〈ニュー・アヴァンタジア〉の至るところにある。モチーフは両の翼を広げた、頭部だけが人間の形をした生き物だ。〈翼ある乙女〉と誰もが呼ぶ。天に住まう聖獣。
橋を渡り切ると、周囲が徐々に騒がしくなった。仲間たちもどこかの店に雪崩れ込んで、盛大に羽目を外しているに違いない。
第七階層――多重構造の都市の最上部の中心には、賑やかな街並みが広がる。石造りの建物は高さを競うように伸びて、空を突き刺さんとしている。都市最大の蔵書数を誇る図書館、色鮮やかな服を売る店、大規模な劇場や映写室……。
竜脚が引く車の往来する道を外れ、ネルは細い路地へと折れた。薄暗がりに身を滑り込ませる。
眼前の空気は靄がかかったように揺らいで、向こう側を曖昧に覆い隠している。顔を近づけると、角度によって僅かに色合いが変わった。光を映し返す水面に似た輝きだった。
ごく自然な動作で、ネルは壁面に薄らと刻まれた紋章を探り当てた。掌を当て、霊力を流し込む。
結界は簡単に降伏した。空気が凪ぎ、ぽかんと道が開ける。
ネルは速足になった。再び塞がるまでには余裕があるにしろ、さっさと通り過ぎるに越したことはない。
上層人にとっては単なる近道だが、下層人はこれを「結界破り」と揶揄する。初めてその事実を知ったとき、ネルはあまり気分がよくなかった。自分が当たり前のように使っている手段が許されない人々がいる。なんだか申し訳なく、自身の能力を発揮することにさえ小さな後ろめたさを感じるのだった。
次々と認証を繰り返して、ネルは独自に開拓した経路を歩んだ。〈ニュー・アヴァンタジア〉、ことに第七階層の地理は複雑怪奇だ。毛細血管を思わせる細かに枝分かれした道が、無数に張り巡らされている。結界による封鎖も多く、慣れていないと迷う。立ち往生する。他の階層からやってきたばかりの者はすぐにそうと分かる。きょろきょろとあたりを見回していることが多いからだ。
ネルは足を止めない。どの結界も彼女を拒まない。
自宅の近くに、複数の結界に囲まれた一帯がある。見つけた瞬間から開けて入ることが出来たから、特別な場所と見做したことはなかった。景観もまた地味で、作りかけで放置したような建物と、やたら背の高い塀があるのみだ。いつ見ても変わらない。
その塀に、建物への出入り口とはまた別の扉が備え付けてある。なんの意味があるのかは分からない。裏口や隠し通路というわけでもなさそうで、ずっと不思議でならなかった。来たばかりの頃はどうにか謎を解明しようと苦心したものだが、最近は忘れがちでいた。
紋章は確かにある。ネルの知る、ゆいいつ自分を通さない紋章が。
前に触れたときは目いっぱい背伸びしなければならなかった。今はその必要はない。
「アルイエンの名において――開け」
ネルはかつてと同じように、唇を小さく動かして唱えた。厳粛な仕種で、右の掌をそっと翳す。
やはりなにも起こらない。最初から繰り返してみたが、結果は変わらなかった。
「まだ駄目か」
子供っぽい思い付きで無駄足を踏んだと思い、苦笑しながら踵を返しかけた刹那、ネルははたとして立ち止まった。視界の隅に白い瞬きがあった。
古ぼけた紋章が光を宿していた。しばし茫然として、その明滅を眺めていた。
予想外の事態に困惑した。なにか取り返しのつかないことをしてしまった気さえして、次なる一手を選びかねていた。
すぐに元に戻ってしまえば、見間違いと断じたかもしれない。しかし紋章は、内から外に向けて広がる漣のような光を放ちつづけている。
もう一度、慎重に右手を伸ばした。
光の色が暖色へと変じた。続いて低い異音が響いたかと思うと、ネルの眼前で突如、扉が消失した。
そうとしか形容しえなかった。扉があったはずの場所はぽっかりと空洞になり、奥には薄闇が広がっているばかりだった。
見ている者は誰もいない。ここには自分しかいない。
短い逡巡ののち、ネルはそっと足を踏み入れた。狭い通路である。真っ暗闇ではなく、多少なり目が利く。ブロック状に切り出した石を敷き詰めて作ったらしい壁面と、低い天井。
延々と続いている。どこへ繋がっているとも判然としない。おそらく建物の内部に入り込んだわけではない。ネルはそう直感していた。
やがて行き止まりになった。前方、右、左――進めそうな場所はない。
ここまで来て引き返さざるを得ないのか。扉が無意味なら通路も無意味? いや、そんなはずはない。なにか仕掛けがあるのだ。
「今日こそ見つけてやる」
知らず知らずのうちに積み重なってきたらしい好奇心が、一息に噴き上がるのを感じていた。これまでに味わったことのない昂揚だった。
ネルはゆっくりと息を吐きながら、硬い壁を丁寧にまさぐった。思ったとおり、指先が異物の感触を捉えた。眼前にまたしても紋章が生じた。
「名前は」
白い光の文字が、同時に浮かび上がっていた。名前は。ただそれだけの、短い一文だ。
なぜ今さら、とネルは自問した。〈ニュー・アヴァンタジア〉は住人の名を完全に把握している。紋章があるならば、触れるだけで認証は終わるはずだ。だとすれば求められているのは、また別のなにか?
「ネル・ジーグラー。〈大いなる祈り手〉マルセラの〈祝祭の子〉。出生時第五階層人、現第七階層人。アルイエン寺院付け〈祈り手〉候補者」
とひとまず発してみた。ややあって、文字列がするすると変化した。
「〈祈り手〉の力を示せ」
そういうことか、とネルは頷いた。想像したとおり、名に紐づけられた情報――付与された権限だけで通り抜けられる扉ではないらしい。
一歩後退し、頭を下げてから、胸元にそっと右の掌を当てた。
姿勢を正し、小さく〈祈り手の歌〉を歌いはじめた。
――初めて寺院で歌ったときのことを思い出す。想像どおりの穏やかで慈愛に満ちた声だと、デュヴァル楽師に言われた。都市でもっとも権威ある、音楽の指導者のひとりだ。
顔立ちや仕種がそう見えるのか、あるいは普段の話し方によるのか。なんにしても思い当たる節がない、と首を傾げたネルに、楽師は笑いながらこう付け加えた。君の中でいちばん穏やかなのは、霊力の流れだ。
君の平常時の霊力は、柔らかなカーテンのように揺れながら君の魂を包んでいる。堅牢な鎧のように覆っている者もいるし、炎のように爆ぜている者もいる。流れ方は人それぞれだが、君の霊力は私の知るうちでもいっとう細やかだ。本質を引き出すには、辛抱強く耳を傾け、また語りかけてやらねばならないだろう。しかしそれは必ず、誰かを救う力になるはずだ。
すべてを理解できたわけではなかったが、この説明をネルは受け入れた。〈祈り手の歌〉を歌う際には必ず、楽師の提示してくれたヴィジョンが胸中をよぎるようになった――。
旋律が終わる。紋章が閃光を放ち、消えた。正面の壁もまた消え、人ひとり通れる程度の隙間が生じていた。
果てなく伸びる上りの階段が、そこにあった。
翼ある乙女たちの祝祭 下村アンダーソン @simonmoulin
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