6.I mist you.
清々しい朝だった。五時にセットした目覚ましで、これほどすっきりと起床したことはなかった。興奮覚めやらず、遠足前の小学生のように寝付けないかとも思ったけれど、どうやら私は眠れるタチらしい。また妙な自己理解が深まってしまったと考えながら、顔を洗って服を着替える。外はまだ暗く、日の出前であることを示していた。
必要なのはこの肉体と、意識と、服と防護マスク。それから〈オルフェウス〉と情報連結させた携帯端末。セルフモニタリングをオンにして、私の身に何かがあった場合、自動で連絡が飛ぶよう設定を弄っておいた。アーヴィングには何かと迷惑をかける。帰ったらきっと怒られるな。
現実拡張機能を停止する。それまで私の世界にあふれていたあらゆる記述はその文脈を潜め、静けさに満ちる。視界にうつるあのたくさんの情報は、今の私には余計でしかない。彼女に会うのなら、曇りのない世界がいい。
マスクを着ける。横切った鏡の中には、顔の見えない私がいて、青い薔薇が頬の上で咲き誇っている。花言葉は、「夢が叶う」。
ドアを開けると、夜の冷たい風が露出した手のひらを滑っていった。明かりもなく暗闇と霧とに包まれた道を、携帯端末の背面ライトと
ワカ。あなたはこんな気持ちで、病院でたった一人、悲しみと痛みに打ちのめされながら、静かな夜、ガラスにうつる自分の顔を見つめては泣いていたのかな。
失うことの苦しみを、あなたは嫌でも知らされたはず。そして、メリッサの言うような、心に穿たれた大きな空洞を、虚ろな瞳で見つめていたのかな。引きとめようとした日常が跡形もなく霧散するのを、見開かれたその目はうつしていたのかな。
ワカを殺したかもしれない孤独。当時だって私たちは何かしらと繋がっていたはずだし、近くに人がいないわけでもなかったはずだ。それでも、人の精神を蚕食する毒は、ウイルスと同じくらいの無神経さで私たちを襲って、殺意もなく淡々と死に追いやっていく。いかなる感情もなしに、誰もお前のことなど想っちゃいないのだと、そんな妄想を突きつけるのだ。
病院の横を這う川からは、水の流れる音が絶え間なく響いている。自分の位置を確認して、正面玄関から入り込んだ。
病院内部は不気味さを増して、私を出迎えた。何かが這いずる音。啜り泣く声。意味不明な呟き。人の想像力は偉大なもので、ありもしない代物を生み出すことにかけては、きっと他のどんな生物にも勝っている。
すべての恐ろしい怪物たち。
すべての未知なるテクノロジーたち。
すべての存在しないはずのものたち。
そして、すべての死んでしまった人たち。
私たちは物語を生み出して、それを拠り所にしながら老いていく。失うたびに物語性の皮膜で覆って、大切に大切に、脳みその襞の奥底にこっそりとしまい込んで、やがて忘れ去っていく。
私が石戸ワカを曇らせる。霧の中に覆い隠しているのは、ずっとこの私自身だった。
だからこそ、私は石戸ワカの物語を終わらせない。やがて終わり行く私だけれど、その最後の果てまで、私は彼女を連れていく。脳みそに手を突っ込んだって、この胸に掻き抱いて、決して離すことなく。
階段を上っていると、徐々に世界が白み出して、陽光は霧の隙間を縫って窓ガラスを透過した。私は端末のライトを切って、自分の目を頼りに歩いていった。
影の薄闇の合間、開け放たれたドアから光が漏れて、院内を淡く染め上げていく。一度通った廊下を導かれるように進んだ先で、私はワカの元へと辿り着く。
ゆっくりと、マスクを外した。
私は息を吸う。
私は息を吐く。
祈りながら、丁寧に。神を呼び出さんとする巫女の心持ちで。
ゆっくりと、ゆっくりと。
「ごほっ……」
違和感が鼻と喉の奥を転がって、思わず咳き込んだ。霧に見えるとはいえ実態はナノマシン、曲がりなりにも機械だ。私はベッドに手をついて、呼吸を落ち着けようと息を止めた。
世界が揺れた。
眩暈だと理解するのに、たっぷり十秒はかかった。衝撃があって、私は自分の身体が床に叩きつけられたのだと知った。ぐらぐらと揺れる視界の中に、散乱した医療器具と、ベッドの脚と……ベッドに寄りかかる病衣の背中が見えた。投げ出された手足が、何が起きたのかを物語っていた。
違う。
私は焦って、詰まる呼吸のまま、彼女に手を伸ばす。
違うだろう。そうじゃないはずだ。ワカは、石戸ワカはそんな死に方していない。それは、私の妄想だったはずだ。どうして、どうしてそんなことになる?
ワカはもっと……あの、石戸ワカは。
緑色の背中が消えた。
白く霞む世界に、光を背負って彼女が立っている。
私を見下ろして、私が大好きだったあの笑顔で、私の名前を呼んでいる。
「ワカ……」
絞り出した先が、一言も続かなかった。……ああ、どうしてこういう時に限って声は出ないのだろう。私の身体は、動かないのだろう。
彼女が私の名前を呼んでいる。あの、石戸ワカのトーンで。他の誰でもなく、私の大切な日々を形作っていた、あの声で。
ワカ。ワカ。私は彼女の名前を呼ぶ。
ワカ。私はあなたを失いたくなかったよ。
あの春休みにあなたがこんなにも遠くなってしまうのなら、私もついていけばよかったんだ。あなたがこんなにも大切なら、あなたに嫌われても止めればよかったんだ。
あなたの気持ちをわかっていたから、好きだなんて言えなかった。こんな歳になるまで引きずっているなら、いっそのこと伝えてしまえばよかった。あのむかつく久江のことも、一度くらいぶん殴っておけばよかったんだ。
その微笑みも、風にたなびくその髪の質感も、自転車に二人乗りした時のシャツ越しに伝わる温かさだって、すべては私の脳みそに編纂されて、記憶としてしか残らない。
あなたの苦しみに寄り添えなかった。
あなたの痛みを知り得なかった。
だから本当は、そんなふうに笑っていられるはずもないのに。
ねぇ、ワカ。
私の世界はね、あなたがいなくなってからずっと、曇ったままなんだ。この街の霧が晴れたって、私はきっと、あなたに曇らされたまま。
でも、それでいいんだ。そこにあなたがいるのなら。
だから、さようなら、ワカ。
私はあなたを抱えたまま、霧の中を歩いていく。
アイ・ミスト・ユー 伊島糸雨 @shiu_itoh
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