5.I missed you.


 天気予報によると、今日は終日晴天なのだそうだ。この街で空を見上げてもその青さなんて見えやしないけれど、窓からうっすらと差し込む光は、やわらかく室内を照らしている。

「素敵なマスクね。その絵はナオが?」

「ああ。最近の流行りだとか」

 そう答えてマスクを手渡すと、メリッサは破顔して、「私も頼んでみようかしら」と言った。緑色で描かれた蔦を、指先でなぞる。

「きっと、喜んでやってくれるよ」

「そうね。そうだといいわ……」

 返されたマスクをテーブルの隅に置いて、私はユージーンの方へと顔を向けた。もう何度、この形式、この距離感で話をしたかわからない。質問することは、いつも同じだ。「何か困りごとは?」

「大丈夫だよ、先生」

 ユージーンは穏やかな表情で言った。彼はこれまでやり取りの中で、一度だって“困りごと”を口にしたことはない。小規模とはいえ、老若男女、人種も様々に入り混じる集団をよくまとめているものだ。私には到底できそうもない。

「心理面は……」

 続けて聞くと、今度はメリッサが「そっちも大丈夫よ、先生」と返した。異常なし、と〈オルフェウス〉のメモに書き込んだ。

 メリッサが淹れてくれたお茶で唇と喉を湿らせながら、私たちは短い雑談に耽った。微笑み、言葉を紡ぎながら、私の目は自然と彼らを観察している。彼らが私を観察するのと、そう変わらない要領で。

 彼らの振る舞いに焦りや不安といったものは見られない。あくまで落ち着いて、待ちの姿勢を崩すことはない。共同体のメンバーをよく支え、自分たちの内部でおおよその問題を消化している。一つの目的を共有し、皆がそのために耐えようと助け合う形態は、どこか宗教じみていると思う。

 私の仕事には、支援以外に監視という意味も含まれている。心理監査官が派遣される先は、閉鎖されたコミュニティが多い。そういう、ある種の悪循環を起こす要因がある場所で、外部とのパイプとなり、集団の心理状態を維持するのが私たちの役割だった。その点で見ると、ここは十分に統制され、うまくやっている方だと言っていい。

 数ヶ月で心か身体かその両方が耐えられなくなり脱落していく人が一定数いる中で、この二人は特に粘り強く奇跡を信じ続けている。アリサのような人物が長くいるのは、ラッセル夫妻への信頼があるからだ。彼らが信じているのだから、自分たちもきっと大丈夫。そんな安心感を、彼らは提供している。

 かくいう私も、街で過ごすうちに仲間意識のようなものが芽生えていったのは確かだった。どうしようもなくここにないものを追い求めてしまう同志として、私が一方的に感じているだけだけれど。

 いつかの時に、彼らは語ってくれた。自分たちが、神でなしに何を信じているのかを。

「いつだって別れは唐突で、自分たちが置き去りにされているような気がずっとしているんだ。準備なんてまるでできていないのに、急に現れた手に攫われていってしまう。別れの言葉もかけられなかった。それだけがずっと心残りで、いつだって僕たちを苛んでいた」

「全身が泥で覆われているように重苦しかった。ユージーンが仕事に出たあとも何も手につかなくて、ソファに座ってテレビの画面を見つめていた……。その間に私は眠ってしまって、起きた時には何も覚えていないのに、娘がいなくなった時に開いた空洞を風が通り抜けるような思いばかりが残っているの」

「僕たちの中で、娘の死はまだ続いている。ちょうど、戦争を終えることができずにいる兵士のように」

 すべては地続きで、足は泥濘の上にある。霧深い森で私たちは迷子なの、とメリッサが言った。

「けれど、娘を抱いた三千グラムのあの重みは、妖精のいたずらでも何でもないのよ。憶えているの。憶えていたいのよ……」

 私たちは指を折り終えた拳で、死者が通る扉を叩いている。もう一度顔を見せてくれ。もう一度だけでいいから言葉を交わしてくれ。私たちを救うために、どうか、と。そして墓石に向かって語りかけるのだ。

「どうして応えてくれないの?」

 遺灰に口はないと、理解しているはずなのに。

 私たちはいつだって、わかっているのに求めてしまうのだ。救いはないと、生きている人間が勝手に救われた気になるだけなのだと、理解しているにも関わらず。

「先生。僕たちがこんなことを言うのも変かもしれないのだけど、何か困りごとはないかな」

 帰り際に、ユージーンがそんなことを言ってくれた。私が考えごとをしているのに気づいたのだろう。

 ありがたいが、私が言うことは決まっている。

「大丈夫だよ」

 自分のことは、自分にこそ理解させていたいだろう。だから、大丈夫だと私は口にする。

「ありがとう」

 完璧に最悪なのは、十年前から変わらない。

 変われないのか変わりたくないのか、私にはもう判別がつかなかった。


 *     *


『アーヴィングです。物資の申請と報告を受理しました。明後日には到着すると思います』

 ゲームのNPCのような定型文を頂戴して、お返しとばかりに私もまた型通りの文章を口から垂れ流してやった。問題ありません。はい。承知いたしました。

『あまり無茶をしないように』

 最後の最後で言われた言葉に、私は硬直して返事をしそびれる。なんだ、今日はやけに人から心配される。ユージーンだってそうだった。なぜだろう、と考えて、私からなにかやらかしそうな空気が漏れているのだと思い至る。近いパターンで死に向かう人間というのは、ある程度共通した仕草や行動をするものだろう。遺書を書くとか、首を吊る前に靴を揃えるだとか、急に穏やかになるだとか、そういう類の。

 別に私に死ぬ気はないのだけど、結果的にそうなる可能性は否定できない。わからない。別に、どうでもいいことだった。これから起こりうることの重要度を順位付けするのなら、死ぬかもしれないなんていうのは五位とかそこらだ。もっと大事なことが上に四つもあるなんてなかなかあることじゃない。これは充実していると言っても差し支えないのではないだろうか。

 煙草に火をつけて、ご無沙汰していた酒に口をつけた。街に来る時に持ってきたブランデーだった。

 そして久江アヅミにコールする。五度ほど鳴ったところで繋がった。

『……珍しいな。何かあったのか?』

 落ち着いた声音で久江が言った。仕事を終えて夕食を作っているのだろう。近いところから油で何かを炒める音がしていた。

「なんもない。嫌がらせを敢行しただけ。何作ってんの?」

『青椒肉絲。嫌がらせか。しょうもないな』

「うるせぇよ。青椒肉絲なんか作りやがって」

 日本人がよ、と言うと、呆れ交じりに、日本人だよ、と返ってくる。私は愉快な気持ちがして、しばらく笑っていた。

 三人だったものは二人になって、私たちの道はとうに分かたれている。ワカがいなければ三人ではないし、彼女のいない二人になんて意味はなかった。石戸ワカ一人分の存在量を失った空間を見て、「ワカがいたら」「石戸ワカなら」なんて想像を繰り返すだけの二人。でも久江はいつの間にか大人ぶって、私を置き去りにして行ってしまった。

 過去とも現在とも未来ともつかない曖昧模糊とした不安定な場所で、一人でゆらゆらと揺れているような心地だった。どこにも行けないのだと、荒涼とした地平を眺めて諦めるのがちょうどよかった。

『何を考えてるんだ……』

 急に笑い始めた私に、久江は心配そうな声で言った。何を考えてるのかって? まさかわからないなんてことはないだろう。私は何度も、お前に話したじゃないか。

「ワカのことさ」

 大切な人のことだ。そればかりをずっと考えてきた。優先順位の上位を死守し続けたのがそれだった。そのために、わざわざこんなところまでやってきたんだ。

 久江は口を閉じて、コンロの火を止めたようだった。野菜と肉の焼ける音が、徐々に小さくなっていった。

 しばらくして、久江は言った。

『お前は、俺のことが憎いか』

「別に憎くはないな。むかつくし、何度か殺してやろうかとも思ったけど」

『それは、石戸が』

「お前のことを好いていたからだよ」

 言葉を捩じ込んだ。お前の推測なんて、余計なお世話なんだよ。

 私のことは、私が一番よくわかっていたいだろうが。

「要するに、嫉妬なんだ。全部な」

 グラスを傾けると、濃い飴色の液体が喉を焼いていった。息を吸うと、粘膜の上を空気が撫ぜて、ほんのりと涼しい。

 ワカ。私は彼女のことが好きだった。平凡な日常の象徴として、彼女は私の特別だったのだ。彼女と過ごす穏やかな時間を、長く長く引き延ばしていたかった。そしてもしも叶うのなら、一緒にいたいと思える彼女と手を取り合って生きていきたかった。あの頃のその感情を、“好き”という以外に何と言えばいい?

 もはや壊れたまま動き続けるどうしようもない回路なのだとしても、元の形を保っているのなら言い表すべき言葉はずっと同じだ。

「ワカが大切だ。それは今も変わらない」

『……そうか』

 久江は静かに呟いた。私は短くなった煙草を灰皿に擦り付けた。

 久江アヅミは察しのいい男だ。ワカの想いも私の想いも、早々に気づいていたに違いなかった。けれど、当の久江はというと、煮え切らない反応をするばかりだった。

『お前の方が相応しいと思っていた』

「そういうところがむかつくんだよ」

 こいつも大概馬鹿野郎だ。賢かったのは、死んだワカくらいのものだろう。

 私は久江の言葉を鼻で笑ってから、咳払いを一つして言ってやる。

「私はな、お前を笑いに来たのさ」

『……なんだって?』

「聞こえなかったのか? ならもう一回言ってやるよ。私は、お前を、笑いに来たのさ!」

 ああ、また笑いが込み上げてくる。アルコールとニコチンと、数十年後の私を苛むものと、十年前から私を苛むものが私の中で暴れ回って、たまらない。

 なぁ、喪失を覆い隠すナノマシンの霧よ。お前が本当に何かを治すために生まれてきたのなら、今すぐドアの隙間から染み込んで、私の身体を犯すべきなんじゃないか?

 そうでなければ、おかしいだろう。いつになったら私のことを正してくれるんだ。

「私はワカに会いに行く。お前ができないことをやってやる。お前は何もかも諦めたふりして、指でも咥えて待っていればいい」

『おい、待て、何をする気──』

 叫ぶ声をぶつ切りにして、私は椅子の背にもたれかかった。そして、久江からのすべての通信を拒否するように設定する。どんな想像をしたか知らないけれど、そんなに焦らなくたって、別に死のうってわけじゃないのにな。まぁ、死ぬかもしれないけれど。

 ようやくわかる。ようやく証明できる。他の誰よりも、この私自身に、石戸ワカと再び見えることができるのかということを明らかにできる。

 それは喜ばしいことだろう。ずっと欲していたものだろう。自分がどこにいるかも見失う霧の中から、ワカの姿を見出すことができるかもしれない。

 どうなるかはわからない。けれど、信仰もない神なんかには縋っていられない。

 私はワカに会いに行く。この足で、泥濘を踏みつけながら。

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