4.Minority Report


 以前頼まれた資料が届いたとアーヴィングから連絡があったので、私は数ヶ月ぶりに街の外に出ることになった。内容が内容ゆえに送ってもらうわけにもいかず、その場で確認する必要があったためだ。

 ラッセル夫妻に断りを入れてから、手配した車に乗り込んで、後部座席から〈オルフェウス〉が描いた景色の輪郭を見つめていた。持ってきた防護マスクには、ナオによって青い花が描かれている。形を見るにおそらく薔薇だろう。もとより良い意味を持つものではあるけれど、私にとってはなおのこと縁起がいい。彼女は青い薔薇の花言葉を知っていたのだろうか。

 境界部分を通り抜けると、曇りのない風景が一面に現れた。多様な色彩を放つ無機物と有機物の群れが、車両の周囲に広がっていく。

 検問所まではまだ封鎖区域のため、店のシャッターは下りて人気もないけれど、その先にはブルーライトの洪水が、マクドナルドのあの赤と黄色のマークが、スターバックスの女神の顔が、鮮明な色合いをもって私を迎えるはずだ。十年前には長いこと営業自粛を余儀なくされていた彼らも、とっくのとうに元の様相を取り戻している。ナゲットのソースはバーベキューかマスタードだし、やたら長くて魔法の呪文みたいになる飲み物の名前も健在だ。林檎マークの端末はよりスマートな形となって、喫茶店で画面を凝視する人々を支え続けている。

 世界は変わった。そのはずなのに、人一人がその目で見聞きして知覚可能な世界というのは、不思議なほどなめらかに、地続きであるのを保っている。理論と実際は一致しない。過去のある一点と現在とを直線で結んで、「やあこれは凄まじい変化だ!」ということはなんとも容易いけれど、私たちは二つの地点の間に穿たれた無数の点のばらつきを知覚することはできない。

 小さな違い。ささやかな違和。私たちはゆるやかに壊れて、ゆるやかに死んでいく。今まさに劣化の一途をたどっている、すべての物質とともに。

 ワカもきっと、耐えがたい孤独の中で、なだらかな曲線を描きながら病んでいったのだ。そして彼女は死に、私もまたその線形の中に囚われている。

 車両と人の群れが忙しなく流れていく。霧の中では道路の真ん中で踊ったって誰も文句を言わないから、なんだか新鮮な思いがした。もちろん、私は踊ったりしない。もののたとえだ。

 道行く人の服装や車のナンバーを眺めていると、ピザチェーンの看板が目に入った。しばらくじっと見ていると、お節介な〈オルフェウス〉がメニューを表示して食事の提案をしてくる。右斜め上に表示されるようにしている時計を見ると、ちょうど昼時ではあった。事務局に着く時間を考えると、都合はいいかもしれない。

 店の宅配ページにアクセスして、プレーンのピザを頼んだ。久しぶりのジャンクな気配に多少の興奮はあるけれど、コーラ片手に映画を見るほど寛ぐのは、さすがにやめておくことにする。


 *     *


 昼食を済ませ、満たされた心持ちでアーヴィングの元へ向かった。扉の前に立って名乗ると、抑揚のない「どうぞ」という声が、壁に埋め込まれたマイク越しに響いた。職員カードを通して、中に入る。

「失礼します。以前お願いした十年前の資料が届いたとのことでしたので、参上いたしました」

「これですね」

 アーヴィングはデスクの引き出しを開けると、分厚い茶封筒を取り出して、こちらに差し出してきた。生の上司を見るのは久しぶりで、プログラムされたアバターとなんら変わらない様子は少し不気味ですらある。ロボットが入れ替わっていても気づくかどうか。少なくとも私は気づかない自信がある。

「ありがとうございます」

 さすがにしっかりと頭を下げ、封筒を受け取って小脇に抱える。全部読むのには苦労しそうな重みだった。あまり街を離れているわけにもいかないから、やり方は少し考えないといけない。

「貸し出しが可能なのは三日間です。管理には十分気をつけて下さい」

「承知しました」

「それと」

 踵を返しかけたところで呼び止められ、右足が変な方向に曲がったまま止まる。慌てて姿勢を戻して、「なにか?」と聞くと、アーヴィングは淡々と続けた。

「なぜ、今頃になって調書を?」

「……それは上司としての質問ですか」

 アーヴィングはかぶりを振った。「いいえ、個人的な問いです」

 珍しいな、と思う。これまでの会話では、私情を見せることはほとんどなかったからだ。明確に個人的なものとして発せられたのは、これが初めてな気もする。

 ただ、仕事上の強制力に従うのは仕方がないにしても、イレノア・アーヴィング個人相手ならば、話せることは限られている。彼女の視線を受けながら、私は答えた。

「あの街で死者に会おうと信じる人々が根拠にしているものがあるのなら、この中にあるんじゃないかと思っただけです。わざわざ取り寄せて頂きありがとうございました」

 そう言って、今度こそ背を向けた。後のことは聞かれても答えたくない。幻の所以がわかったら自分に試そうと考えいるだなんて、とうてい公言できることではないだろう。

 ドアが閉まる直前、振り返ってアーヴィングの顔を盗み見た。仕事に戻っていく彼女の様子に動きはなく、そこにから何かを読み取ることはできなかった。

 エレベーターに乗り込むと、二人の男性職員が最近のゴシップに関する話に花を咲かせていた。表情筋は豊かに動き、声の抑揚もうっとおしいほどだった。

 私は減少する階層表示を眺めながら、未知なるアーヴィングの笑顔について、ぼんやりと思いを馳せた。


 *     *


 置きっぱなしだったピザの容器をゴミ箱に放り込んでから、デスクの上に資料を広げた。そのほとんどは街の脱出者から無作為に選ばれた人間による証言記録で、およそ三百人分存在する。一つ一つはさほど長くないものの、人数が人数だ。貸し出し期間が三日とはいえ、実際に私が使える時間はおそらく今日だけ。その中で、幻に関する情報を組み立てなければならない。

 どうして今更、というアーヴィングの問いはもっともだった。これまでだっていくらでも機会はあったのに、私は行動に移すことをしなかった。希望が潰えるのを恐れて躊躇していた。蜘蛛の糸を前にして、「これがあればいつでも抜け出せるのだから」と登らないことを選ぶのと同じだ。知らなければ、妄想の中では幸福でいられる。想像の中ではワカに会える。

 それだけならば、別に放っておいても構わなかった。けれど、想像の元となる記憶がどんどん薄らいでいくのも、私は恐ろしかった。大切なものが風化して砂塵に消えていくのを前にして、無力なまま立ちすくむのは耐え難い。そういった葛藤が決断を先送りにさせ、結果的にこんなところまでズレ込んだのだった。

 なんでデータベース化されてないんだ、と連絡が来た時からずっと考えている。おおかた、私には計り知れない深遠な理由でもあるのだろう。むかつくな、とぼやきながら文字を追う。もしデータ化されていたら、単語を検索して内容で絞り込んでという過程をコンピューターがやってくれて、こんな手間をかけずに済むというのに。

 全部真面目に読むなんて馬鹿馬鹿しいことはしない。やり方はコンピューターを使う時と一緒だ。代わりに脳みそを使う。

 まずキーワードを決める。幻、あるいはそれに類似する表現。死者、でもいい。「存在しないはずのもの」についての文章がある例だけをピックアップする。他はとっとと脇によける。それを余計な思考を通さずに最短距離で行っていく。

 この中にワカのものがあったらいいのに、なんて思いが、処理の端っこを掠めていった。



 ジム・フレッチャー。

 キャロル・ロイス。

 ウォーレン・パッカー。

 レオン・キャクストン。

 並べた資料に印字された名前を順繰りに見る。証言の中で「存在しないはずのもの」について言及していたのは、その四人だけだ。三百分の四では、問題とするにもあまりに心もとない。度重なるストレスと混乱によって幻覚を見た、と言われても納得してしまうかもしれない。キャロル・ロイスとレオン・キャクストンなどは当時すでに六十歳を超えているし、ウォーレン・パッカーに至っては、話の内容が一貫しておらず「薬物使用の疑いあり」とか書かれている始末だ。パッカー青年がその後どうなったかについては、さすがに書かれていなかった。

 一番無難に信用できそうなジム・フレッチャーは当時三十七歳。IT企業に勤めるエンジニアだったようだ。職業だけで人を判断するわけにはいかないが、それでも社会的な立場で安心してしまうのが人間の性というものだろう。限られた情報源の中ではなおさらだ。

 ジムはナノマシンが有害であるという発表の前は、妻子とともに自宅にいたという。テレビを通じて発表を知ってからは、最低限のものだけで荷造りをして車に乗り込んだ。他の多くより早い行動ではあったものの、交差点で事故が起きた影響で身動きが取れなくなり、徒歩での移動を余儀なくされた。はぐれないようにと家族で身を寄せ合いながら道を進んだが、途中で人の波に揉まれたはずみで防護マスクが外れ、すぐさま付け直したものの、慌てたせいで大きく息を吸ってしまった。その時すぐには問題がなかったが、街を出た後に何度か眩暈を起こし、その度に死んだはずの愛犬の幻覚を見た。調書が取られた時にはそういった症状も治まっていたが、念のため検査を予定している。

 他三人はそれぞれ、キャロルが娘、レオンが妻、ウォーレンが恋人の幻覚を見たと主張している。空気を吸い込んだということが明確に書かれているのはジムのみだが、全員が街からの脱出後に症状に見舞われているという点は共通している。

 ナノマシンの直接的な影響による死者は確認されていない。そのためか、人体が汚染された場合にはどのような症状が出るのかについては公式発表によるものにとどまっていた。

 もし、その時間差と症状の軽さによって、霧と幻覚を結びつけることができなかったとしたら。自己申告しなかった例が、他にもあるのだとしたら。

 死者に会う方法は単純としか言いようがない。

 一切の隔たりを放棄して、霧にその身を委ねればいいのだから。


 *     *


 日が暮れて夜の帳が下りても、正常に機能している街にあっては、街灯や店の明かり、ガラスに表示された広告が瞬いて、人々の横顔を照らしていた。私は彼らの流れに逆行して、閉じられた世界へと帰っていく。遠く、光のない霧の街へと。

 アーヴィングはこの可能性を知っていたのだろうか、と道中の車内で考えた。私のような下っ端があの資料に目もくれないのは理解できるけれど、彼女も同じだとは限らない。というより、一度は目を通していると考えた方がいいだろう。立場上、内容くらいは把握しているはずだ。

 資料を返却した時も、彼女は淡々としてこちらに何も掴ませない。私は自分の上司と何をしようとしているんだ、と疑問が首をもたげたところで考えるのをやめた。陰謀ごっこはまた別の機会にとっておけばいい。

 仮説確証バイアスというものがある。物事に対して何らかの予測や期待を持つと、それを支持する情報を選択的に収集し、記憶し、解釈する傾向を指す言葉だ。この幻についての想像は、まさにそれだった。他のソースも何もなく、あらかじめ予定した結論への理由としてジム・フレッチャーの事例を持ち出したに過ぎない。証明としては最悪だ。試験なら一点だってもらえやしないだろう。

 依然として、誰が“霧幻都市ミスト・シティ”なんて名前を発信したか、という問いは残るけれど、それに関してはどうとでも言えてしまうため保留することにした。あの四人の中にいるかもしれないし、それ以外の誰かかもしれない。はたまた話を聞いただけの第三者という可能性もある。なんにせよ、急いで調べるほどのことでもない。

 すべては仮定の上だ。そしてその仮定に積まれているものが事実だとすれば、私はこれをラッセル夫妻やアリサ、ナオに伝えるべきではないだろう。健康被害に繋がる方法を私のような立場の人間が口にしたとなれば、その先どうなるかなんて火を見るより明らかだし、そうでなくたって、街の住人は皆、私の話を信じて実行するだけの想いを抱えているのだ。彼らがこんな形で願いを叶えるのは、私の本意ではない。

 現時点で、この確からしさの欠片もない仮説をどうこうしようと考えているのは、私くらいのものだろう。アーヴィングを始め、他の連中にそんなことをするメリットはこれっぽっちも存在しない。それに、私はこのことを他言するつもりはない。

 ひとまずは帰ることだ。それから、明日は住民たちを訪問して……久江にでも電話をかけてみようか。

「ワカ……」

 彼女の名前を口にする。舌も唇も、その音の連なりだけははっきりと覚えていた。

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