3.Blue Rose


 霧の街は魔境ではあるものの、だからと言って天候の変化と無縁であるはずもなく、晴れる時もあれば当然ながら雨も降る。雨降りの日は気が滅入ってかなわないから、私はとうてい好きにはなれない。そして、私なんかよりもっと嫌いだろうという人も一定数存在する。例えばそれは、天気によって体調に影響が出る人であって、あの九津城ナオであったりするのだった。

 晴れの日はありあまるエネルギーを爆発させてアリサを悩ませる彼女は、雨が降ると毎回調子を崩している。頭がずきずぎと痛むそうだ。

 そんな時は決まって、私とアリサがナオの元に出向き、横になる彼女の気が紛れるように取り計らっている。水の入ったコップをベッドの脇にある背の低い丸テーブルに置いて、その傍らに椅子を持ってくる。

 ナオはいつもと違ってしおらしく、声は吐息交じりで疲労を伺わせた。

 この表出する感情の落差は、見ている側をどことなく不安にさせる。振る舞いのどの部分を基準にして彼女に接すればいいかわからなくなるのだ。

 その点、アリサは相手の振れ幅の大きさに混乱させられることもなく、おおよそ同じ調子で対応している。そもそも話しかけられなければ黙っていることの方が多いアリサにとっては、さほど問題になっていないようだった。今日にしたって、私が来るまでは静かに本のページを捲っていた。

「こんにちは、ナオ。調子は……」

 ナオは薄目を開けてゆるゆると首を振った。アリサが本から顔を上げて、

「いつもより痛むみたい。一日安静コースね」

 私までここに来るようになったのは、以前ナオにそばにいて欲しいと言われたからだった。アリサは最初から自分の意思でナオの元にいる。ただ、大人が一人いた方が、何かと安心はするのだろう。

「今日は特にやることもなくてね。一日ここにいるつもりなんだ。だから、ゆっくり休むといい」

「私もいるわ。安心して寝なさい」

 ナオは小さく首を動かして、瞼を閉じた。窓の外は暗く沈み、霧は灰の色をして重く垂れこめている。ぱらぱらと窓を叩く音が、不規則な旋律となって室内を震わせていた。

 紙のページを繰る音がする。ぺらり、ぺらり。雨音と一体化して、私の世界を形作る。

 紙の本に触れなくなって、随分と久しい。形に固執できなくなったのは、いつからだっただろう。

 そこにあるということ。置き去りにしてきたものたち。手のひらにかかる重みを思い出す。赤みがかった紙、黄色っぽい紙、白い紙。どれもこれもが、物質的な豊かさを持って私を暖めてくれた。ケミカルな匂いも日焼けした匂いも好きだった。ページを開いたまま鼻先に近づけるとなんだか心が落ち着いて、そんな私をワカは「変なのー」と言って笑っていた。そのあたりは久江の方がまだ理解があって、「俺は自分の指の匂いとか嗅いじゃうけどな……」と別に欲しくもない情報を教えてくれた。久江アヅミ検定でもなければ絶対使わないだろその知識、と私は鼻で笑った。

 〈オルフェウス〉に表示された文字列を目で追いながら、昔の私が今の私の姿を見たら、幻覚に視線を這わせる変人だと思うだろうな、と想像する。何も言わずにそっと距離を置いたに違いない。

 新しい当たり前は、私たちから古い当たり前を消し去っていく。日本でガラケーと呼ばれたものの存在をどれだけの人が覚えているだろう。更新される情報が洪水となって過去のログを押し流していく。中学生の時、私はなんという作者の、どんな名前の物語に触れていたっけ。

 物質の豊かさ。紙の質感。ゼロ距離の温度。そういったものを放棄して、情報的な豊かさの中に逃げ込んでいる。いつか失くしてしまうものをこの手に抱くのが、私はきっと怖くなったのだ。

 ナオが穏やかな寝息を立て始めたのを見て、私は電子書籍を閉じた。少し遅れて、ぱたりという音がしたので視線を動かすと、アリサも本を閉じていた。

「調子がいい時とは大違い」

 寝顔を見て、アリサが言った。「年上なのに、可愛いものね」

 ナオを見るときの彼女の表情はいつも柔らかく、慈愛すら感じさせる。実年齢と言動が一致しないナオに対してアリサが抱いているものは、やんちゃな妹へのものか、それとも……手のかかる姉へのものだろうか。

 アリサが小さく口を開いて、躊躇するように引き結ぶ。それを何度か繰り返してから、ナオから視線を外さないまま口を開いた。

「ナオは……両親を探していると聞いたわ。引き取られた先の祖父母の家を、飛び出してきたと……」

「その話は、彼女が?」

「そうよ……。私、驚いたの。この人が私に自分のことを話すなんて、今までなかったから」

 そうか、と言って、私は口を閉じる。

 私もその話を彼女から直接聞いたことはない。ただ、仕事上開示されている情報の中に九津城ナオの経歴があったから知っているというだけで。

 九津城ナオ。中学生の頃にパンデミックを体験し、その際に両親を亡くしたことから、わずかではあるものの精神的な退行を見せている。現在の彼女は、十代前半くらいだろうか。

 街に来た経緯というのも、突然家を飛び出したかと思ったら、一人で海を渡り、諸々の必要な手続きも自分で済ませて街へ転がり込んだといういささか突飛なものだ。加えて、ナオは家を出た時点で、すでに会話ができるレベルの語学力を身につけている。何年も計画して、ようやく決行したような念の入りようだった。

「ナオは、見つけられるのかしら……」

 呟く声に、さぁね、と返す。何せ、私自身もまだ見つけられていないのだ。待っていればいいのか、何か条件が必要なのか。それとも、幻想は幻想でしかなく、私たちは夢を見ているだけなのか。

「先生は、どうしてここに?」

「私?」

 急な質問に、人差し指を自分に向けて問い返す。アリサは多少の非難が込められた面持ちで、

「先生も、自分のことはあまり話さないわ。私たちのことは聞くけれど」

 と言った。まったくもっておっしゃる通りだ。仕事だから、なんていう言い訳は求められていないし、彼女に対して誠実とは言えないだろう。

 私、私ね……、と暫し考える。全部話しても仕方がないのは、おそらくどこにいても同じだろう。私は自分の目的を端的にどう表すべきか思案して、それから慎重に声に出した。

「実は私も、失せ物探しでね。友達を探しているんだ。随分と前に死んだ友達をね」

 アリサは、ああ、と声を漏らして、

「そうだったのね……」

 そう言って静かに目を伏せた。

 私はそんな彼女の横顔を見る。外部の人間という扱いだった私でさえ、自分たちと同じ理由を抱えている。そのことを彼女なりに憂えているようだった。

 私は内心で彼女に語りかける。大丈夫。なんてことはないんだよ、アリサ。私たちはここに来なくたって、生きているだけで色々なものを取りこぼしていくじゃないか。

「だからまぁ、同じなんだ、私も」

 笑いながら、以前のように、彼女の髪を片手で梳いた。指の合間を、細く滑らかな金糸が流れていく。

 先になんて進めない。地に足をつけるどころか、膝の上まで埋まったまま、私たちは突っ立っている。

 木偶の坊ですみません。開拓業者の皆様どうか許してね。私たちが動くには、秘密のイベントが必要なんです。

 アリサが深く息を吐いたところで、頭にのせた手をどけた。

「今度は私が質問しても?」

「どうぞ」

 許可がおりたので、私は両手の指を組んで言葉を組み立てる。なんとなく気になっていたことがあって、雑談ついでに聞いておこうと思ったのだった。

「ずっと疑問に思っていたのだけど」

 首をかしげるアリサの瞳を覗き込んで、

「君たちはどうして現実拡張端末オルフェウスを使わないんだろう、と。変な質問なのは、わかっているんだが」

 私の眼球の上には、コンタクトレンズ型の端末がのっぺりと張り付いて、その表層に様々な情報をうつしている。私はそれを見て今日の天気を知るし、上司から送られてくるメッセージを確認したりする。

 ラッセル夫妻をはじめ、ここの住人は私のような支援者以外の誰一人として〈オルフェウス〉を使用していなかった。情報取得手段といえばラジオと携帯端末くらいのもので、携帯端末の方もあまり使っているところを見かけない。

 アリサは窓の外、でなければガラスにうつった自分自身をじっと見つめて考え込んだ。

 そして、ぽつりとこぼす。

「繋がっていたら、きっと焦ってしまうから」

 口を閉じたまま、先を促す。

「大学に行って勉強して……休日には家族で買い物に行って。そんな日常を見たら迷ってしまう。そんな予感がして怖いのよ。みんな、そうなのよ……」

 その感覚を想像してか、アリサの声は尻すぼみになっていった。

 焦り。こうあれかしというステレオタイプから自分が爪弾きにされていることを実感するということ。こんな風にあれたらよかったという思いはこんこんと降り積もって、執着していた物事をもいつかは埋め尽くしてしまう。失くしたままでも歩んでいく人たちは、世界に山ほどいるのだから。

 失せ物探しには信仰が要る。であれば、その信仰を揺るがしかねないものは忌避すべきなのだろう。

 アリサが言っているのは、そういう話だ。

 ラッセル夫妻は子供を、アリサは姉を、ナオは両親を。自分たちの日々に対してより密接な形で存在したはずのものを追いかけている。それに対して私は? 友達なんていうのは、人生の過程でいくらでも入れ替わる。なのに私はワカにこだわって、〈オルフェウス〉によって外の状況を逐一確認しながら、この街に居座り続けている。

 仕事だから。その大義名分に、私は救われているのだ 。

 単一の理由だけでなく、社会的に容認される形でのもう一つの理由付け。仕事だから仕方ない……その言葉がこれまでどれだけの人類を勇気づけてきただろう。「遊びが仕事」から始まり、「勉強は仕事」になり、「仕事は義務」以外の何ものでもなくなっていく。それは辛く苦しいことに耐えるための一つの信仰だ。人はどうしてか、間延びする生に耐えることばかりがうまくなっていく。

「ありがとう、アリサ。少し、わかった気がする」

 礼に対して、彼女は微笑んだ。「先生も、怖いこと、ある?」

「ああ、あるさ。……たくさんあるよ」

 数え切れないほどにね、と私は付け加えた。今更見栄を張ることもないだろう。

 生きるだけ。それだけのことに付随するあらゆるものが、私は怖い。いつか消えてしまうと思うと、たまらなく不安になる。私が死んで、私の世界が閉じられて、この目が何も捉えなくなるまでずっと、怖いままだ。

「……ん」

 ナオがもぞもぞと身じろぎをして、うっすらと目を開ける。「ごめんなさい、起こしちゃったかしら」とアリサが言うと、「大丈夫です」とあくびをした。それから上半身をゆっくりと起こす。

「ねぇ、先生」

「うん?」

「先生のマスクにも、絵、描いていい……?」

「ああ、いいけど」

 突然の申し出に、どうして、と聞くと、

「みんなお揃いにしたら、家族みたいじゃないですか」

 彼女は「ふふん」と得意げに笑って見せた。どうやら、突発的な思いつきからの提案、ということらしい。

「ああ……それは、いいね。とてもいい」

 奇妙な感慨が湧き上がるのを感じて、私はそう呟いた。家族、家族か。この小さな共同体の中で助け合う彼ら。私もその中に入れてもらえるのかと思うと、漠然とした喜びに満たされる。私の中に、この場所に対する帰属意識が芽生え始めているのは疑いようのない事実だった。

「ですよね! アリサもそう思いませんか?」

「ええ、いいと思うわ」

 アリサの視線は、ハンガーに引っ掛けられたカラフルなマスクへと向かった。しばらく見つめてから、再びナオに目を合わせる。

「でも、まずは今日を乗り切りらないと。絵を描くのは、晴れている日にしましょう」

「はい! じゃあ私は寝ます! 天気が良くなったら起こしてください」

 勢い良く返事をして、そのままがばっと布団を被る。私たちは苦笑して、ナオが眠るまで黙っていた。

 水滴は未だ音を奏で続けている。けれど、私たちはそこに不安を抱かない。なぜなら、止まない雨はないと知っているからだ。

 私たちを覆う霧だって、いつかは消えるだろう。それが一年以内なのか、それとも十年以上先なのかは知る由もない。……消えないことへの不安よりも、消えてしまった後どうすればいいのかという不安の方が、彼女たちの中にも……私の中にもきっと、巣食っている。

 喪失が私たちを曇らせる。現在と未来とを覆う過去の残像が、私たちの行く手を阻み続けている。

 本来治療するはずだったものが漂う場所で、私たちはゆっくりと病んでいく。

 いつ晴れるとも知れぬものに、私たちは何を見るというのだろう。

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