2.Happy Death Day


 心理監査官なんて職業が誕生したのは、それほど昔のことではない。確か、八年前とかその辺りだったはずだ。私が大学生になった頃に、国際機関の専門職員として設置されたのだった。

 心理系の学科を選んだのは、少しでもワカに近づきたいという思いがあったからだ。就職のことなんていうのは、はっきり言ってこれっぽっちも考えていなかった。どこに就職してどんな仕事したところでワカはもうどこにもいないのに、こんな世界でどうしろってんだ、と延々考え続けていたような気がする。けれど、そんなこと安易に口にできるわけもなく、事情を知る久江にだけ嘔吐するようにぶちまけていた。当時のことを振り返ると、彼には申し訳ない気がしないでもない。いつだかに久江のその役回りを「エチケット袋」と表したら、本の背で殴られて、それがひどく痛かったのを覚えている。

 霧幻都市という言葉が出始めたのもそのあたりで、私がそれに目をつけるのは避けようのないことだった。フィクションと現実の境界をどこに置くべきかわからずに途方に暮れた。起きてしまったことをフィクションとして片付けてしまえたらどれだけいいだろうと苦悶し、であればいっそ、幻想に縋ったところで別に構わないだろうと考えた。そして霧幻都市に行く正当性を持った手段として、心理監査官になることを決めた。

 私の仕事は現場での心理的支援と交渉、外部とのパイプ役を担うことが中心になっている。扱う領域が割と曖昧で、必要があればすぐに仕事が発生する性質上、明確な休みは存在しない。けれど、それでもこの日は、と言って終日休暇をもらったことがあった。

 街から人が消えた日。

 ワカの、命日だ。


 高校二年生の春休み、ワカはこの街に家族で旅行に訪れていた。昔は様々な企業が顔を連ね、映画の舞台にもなるような国の重要都市だった。様々な人と物が集まって入り混じり、夜のネオンは目に痛いほどだったという。そんな場所に、ワカは観光目的で滞在中だった。

 私も久江も、ワカがどこにいて何をしているかは知っていた。事前に話は聞いていたし、SNS上の三人のグループに、彼女が色々な写真を送りつけてきたからだった。有名な彫像だとか、やたらとでかいパンケーキだとか。建物の写真も多かった。高層ビル、泊まったホテル、行った美術館などなど。

 高校生の春休み期間なんてたかが知れている。その上、その時にはもう中国での感染拡大が報じられていて、世の中も少しピリピリしていた。だからワカも、一週間しないで帰って来るはずだった。

 侵食はゆるやかに。けれど着実に進んで行く。そしてどこかで、目に見える形で噴出する。

『どうしよう。帰れなくなっちゃった……』

 ワカが送ってきたメッセージは、端的に自分が置かれた状況を説明し尽くしていた。私はリビングで昼食をとりながら、ワールドニュースを見ているところだった。

 空の便の停止。移動の規制。そんな中で石戸家は異国の地に釘付けにされたのだった。前日の夜に送信されたワカの自撮りが、事態の落差を嫌でも物語って、私はしばらく呼吸を忘れていた。

 状況が最悪に転がり落ちてくのを想像しながら、そんなはずはないと否定する。だって、そういうのは物語の中の、言葉の上で繰り広げられるものであるはずじゃないか。私たちの生活が脅かされるのは違うだろう、と無理やり楽観するほかなかった。

『ホテルの中から出られないんだ。なんだか、映画みたいだね……』

 憔悴した声音で、電話の向こうのワカが笑った。私は「そうだね」と相槌をうつ以外にどんな励ましの言葉を投げかければいいのかわからなくて、思わず黙り込んだ。

 感染者と死者がどんどん増えていく。ただでさえ自分たちもどうなるか不明なのに、ワカは慣れない土地でたいして理解もできない言語に囲まれながら、不安に侵されている。自分には彼女を助けに行くこともできなければ、ロクなことも言えやしないのかと歯噛みする。

『大丈夫だ。いつか必ず終わる』

 久江が変わらない調子でそんなことを言うのに、ふざけやがって、と思う。大丈夫じゃないことも、いつかがいつ来るかなんてわからないこともあいつはわかっていた。なのに、理由も土台も何もなく、ただ今を励ますためだけに無責任なことを言ってのける。

『うん、そうだよね……大丈夫だよね』

 ワカの声がわずかに上向くのを、私は唇を噛んで耐えていた。

 それで彼女が喜ぶことを私は知っているから、苛立つのだった。

 お前に何がわかる。ワカの苦しみのどれだけを理解できる? 久江、お前は偽善者なんだよ。

 身勝手な怒りだった。私のエゴが燎原の火となって、この通話で繋がっている皆を焼き尽くす妄想がフィルム映画のように細切れに浮かんだ。普段の落ち着きを投げ捨てて情けなく叫ぶ久江。涙で顔をちゃぐちゃにしながら助けを求めるワカ。私は絶叫しながら、これでよかったのか、と疑問に思うけれど、もう遅い。皆が皆一緒になって炭の棒切れみたいになってしまえば、それで済むのだろうか。本当は世界まるごと焼き尽くせればいいのかもしれないけれど。

 私たちの中にあるのと同じタンパク質でできたウイルスくんが、もぞもぞと蠢きながらその口を開く。

「私はあなたの怒りです。感染して、みんなを殺す」

 もしかしたら、ワカを殺したのは私の怒りかもしれない。

 空気中を漂う私。世界中の人々と、ワカの身体に入り込む。増殖し、暴れまわって、苦しめて、心を折って、やがて殺す。

 ならば、真に焼き尽くされるべきはウイルスであって、私なのではなかったか。

「ナビゲーション。市立中央病院」

 十年前から変わらずに、もうもうと漂うナノマシンを睥睨する。

 ワカの死んだ日を、彼女の死んだ場所で過ごしたい。

 そんな思いを抱かないのなら、そもそもこの街には来ないのだろう。


 移ろいゆく世界の中で、私たちは度々連絡を取り合って、情報の共有や他愛ない話を間断なく続けていた。それは単に励まし合うというだけのものではなく、アリサの両親のような必死の取り繕いでもあった。いつか戻ってくる日常のために準備をしましょう。さぁ、何もなかったみたいに話をして!

 そんな不安定な日々を繰り返して、ある時ワカからメッセージが送られてきた。たった一文だけ。

『陽性だった』

 それから、ワカとは連絡がつかなくなった。一家全員が感染し、先に両親が亡くなって、回復に向かっていた彼女も霧の混乱の渦中で首を括ったというのを知ったのは、彼女が死んでから半年後のことだった。

 精神を病んだのだ、と聞かされた。

 道中に並ぶ色とりどりのチェーン店を尻目に、経路案内に従って二十分も歩けば、川沿いにその威容が現れる。白い壁面の巨大な城が、薄青いガラスを伴って屹立している。白い霧。白い建造物。スモッグに覆われた十九世紀のロンドンでは、ビッグ・ベンを見上げる市民もこんな気持ちだったのだろうか。古い叙事詩に語られた異郷の地へ、一人で足を踏み入れるような寂寥を想像する。

 植え込みの植物は軒並み枯れて、見渡す限りを無機物が埋め尽くしている。正面玄関は開け放たれたまま放置されて、一階部分には霧が侵入していた。

 うっすらと見える先の景色を頼りに歩を進める。足音は私の周囲にとどまって、固着し、消えていく。

 ワカがいた病室は西棟の低層階にある。心理監査官になってから、アクセスできる資料は格段に増えた。私がその中でワカに関するものを探さないはずもなく、彼女の入院記録にも目を通している。病室の番号は、その時に知った。

 階段を使わざるを得ない以上、高層階でなくてよかったと思う。けれど、その一方で、何一つよくはないと私を詰る声もするのだった。あんなことが起きなければ。ワカが旅行に行かなければ。感染しなければ。何が「よかった」だ。ワカが死んでよかったことなんて、何一つないのに。

 連絡がつかなくなってからずっと、恐怖に押し潰されそうで逃げ出したかった。不安も何もなかったことにして、忘れて、いつも通りに戻っていけたらどれだけよかっただろう。ニュースを見るたびに追加される死者の数字のその一つが、石戸ワカでないことを祈るしか私にはできなかったのだ。

 十年経って、あの時ひっそりと増えた感情のない数字の一がいったい誰のものだったのか、今の私は知っている。

 廊下には車椅子や薬品の乗ったテーブルがそのまま残されていて、病室に入りきらなかったらしいベッドも、ビニールのカーテンも、ところどころで当時のことを物語っている。

 ナノマシンに満ちた空間は綺麗なものだった。清浄な空気とはほど遠いにしろ、埃もなく、その白さを保っている。霧と混じり合って、時折自分の足元が歪んで見えた。ここだけが別世界。ここだけが現実とかけ離れて、あの時のように物語性の支配を受けている。

 物語性……街の外にいる人間にとって、ここは何ら重要な場所ではなくなっている。時の流れのうちに、かつてここにあった企業は場所を移して営業を続け、取り残されたチェーン店の看板たちも、新たな地で同胞を増やしている。

 それに比べて、私たちと言ったら!

 死者に拘泥する人々。前に進めない間抜けたち。

 いつまでもとらわれている。彷徨い歩いた果てに、握り締められた両手で何かをつかめるのだろうか。

 ワカのいた部屋は窓が開け放たれていて、それ以外にはこれといって他の病室と違うことはなかった。彼女の遺体もとうに燃やされて、骨壺は海を越えて日本の墓石の下にある。石戸家之墓。何度訪れたかわからなかった。

 防護マスクの視覚補正の精度を上げて、部屋の全貌を見渡した。ワカが横たわっていたと思われるベッドと、床に散らばった医療器具。ベッドに近寄って腰掛けると、引きちぎられた半透明の管が目にうつった。

 前屈みになって手に取る。人為的な力によって元の場所から分離されたようで、断面は随分と歪だった。先端には、小さな針が付いていた。……点滴の管だ。

 それを見て、ふと想像する。

 自分の腕に突き刺された管を引き抜いて、自分の首に巻きつける。彼女は無言で、誰も異常に気づかない。ベッドの枠に管を固定して、そのままずるずると座り込んで。

 意識は朦朧として、頭部は重みを増していく。裏がえる眼球が瞼の裏の血管を捉えて、世界が瞬き、赤が燃え広がっていく。

 頭蓋の中の彼女は、何を思ったのだろう。私には、想像もつかない。

 死者が何も語らないのは、炎に焼かれて灰になったからで、妄想のワカもきっと、私によって燃やされている。ワカと結びつく新しい想定が生起されることはない。

 思えば、ワカは私のことなんてさほど見ちゃいなかったのかもしれない。私ばかりがあの子の背中を、視線の向かう先を追いかけて、一人で勝手に悔しい思いをしていた。友達として、同性として。彼女にとってはそういう枠組みで充分で、欲張りはいつだって私の方だ。一緒にゲームをして私が必死に勝とうとしていたのは、ワカは負けると「もう一回!」を繰り返したからだ。私は、隣にいるのが楽しかったのだ。だから、高校だって、額を突き合わせて悩んだ挙句、同じところを選んだ。自分の人生を破壊しない範囲内で、彼女の傍にいたかった。

 そういうささやかなものが、いざとなると取り返しのつかない幸福なのだと、失ってから知った。

 経営が立ち行かなくなった店があった。どこからスタートダッシュをきればいいのかわからなくなった新入生がいた。突如として家族が毎日家にいるようになって、不和が表面化した家庭があった。毎月買っていた雑誌は発売を延期して、ライブは中止になった。何もかもが変わりゆくのにストレスを募らせて心を病んだ人がいた。感染症が猛威をふるう中でも、癌で死んでいく人がいた。

 大小様々に取りこぼしていくのは、何もあの時だけではなかった。そんなものなくたって、私たちの細胞は劣化したし、世界中のあちこちで人は死んでいった。こちらの事情なんて関係なしに台風は訪れたし、地震だって起きた。堆積した問題は消えることなく、また一つ一つ山積みになっていく。

 世界はゆるやかに回っている。石戸ワカの不在など、気にしてはいない。

 でも、私はそうもいかなかった。久江が「もういない」と言おうとも、私だけは手を伸ばしていたい。

 まだ、別れの言葉さえ伝えられていないのだから。

 いたずらをした後みたいに、ぺろりと舌を突き出したワカの死体。そんなイメージばかりが、足元に転がって、私のことを見上げている。

「……もう、二十歳なんてとっくに過ぎたもんね」

 ポケットに手を入れて、未開封の煙草を取り出した。それはいつかにワカが欲しがっていたもので、残っていた在庫から少し強引に手に入れたものだった。ピンク色のパッケージ。金色の英字。でかでかと書かれた警告文。二十本入り。ワカの死から程なくして、コンビニからいなくなった代物。

 封を開けて、その全部に火をつけた。そのまま投げ出すと、一瞬煙が立ち上って、すぐさま霧に掻き消される。医療ナノマシンが有害物質として除去しているのだった。火だけがじりじりと、煙草の葉を燃やしていた。

「ハッピデースデートゥーユー……」

 二十本でちょうど二十歳分のろうそく代わり。生クリームの代わりの白いシーツ。スポンジ代わりのベッド。吹き消すのは霧が代わりにやってくれる。

 もし、この霧がワカの息吹なのだとしたら、ワカはここにいると言えるだろうか。言ってもいいのなら、久江のあの憎たらしい諦めきった顔に指を突きつけて、「それ見たことか!」と笑ってやろう。

 ハッピー・デス・デイ、ワカ。時間が巻き戻らないのが、残念でならないよ。

「ハッピデースデートゥーユー……」

 マスクの中で囁くように歌う。彼女の元へと届くように、と祈りながら。

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