1.Mist City


 眼前に広がるのは、何の変哲もない無地の窓だ。ニュースも天気予報も予定のリストも、そういったものの一切を表示しない情報量の少ないモノの数々。世界がまだ隔絶されず、情報による連結も希薄だった頃の遺産に、私は囲まれている。

 ホログラム非対応の部屋。料理を提案しないキッチン。タグ付けされていない家具の数々。ここ数年のうちにリストラされたはずの存在が、ここにはまだ残っている。

 人口流動的にも社会的にも情報的にも隔離されたこの場所で、過去の遺物と暮らそうだなんて思うのは、生きてすらいない亡霊と、それにしがみつかずにはいられない迷子だけだ。

 窓から覗く景色は、真っ白な粒子の中を朝焼けが透過してぼんやりと輝いている。かつては見えたはずの摩天楼も今やその姿を隠して、自分がどこにいるのかを見失いそうになる。すべてが薄い膜に覆われ、秘匿され、まるで神秘の最中にいるようだけれど、その実私たちを覆っているのは、失敗した無数のテクノロジーでしかない。科学技術の粋も、想定外の結果を招けば、それは魔術の類と相違なくうつるものだろう。

 けれど、この街の風景がどれだけ神秘的であろうとも、祈るべき神の不在は変わりない。ここにおいて祈るということは、たった一度の幻を希うことに他ならないから。

 バターをたっぷり塗って狐色に焼き上げたトーストを頬張りながら、代わり映えのない“私の世界”のことを思う。美味しいパン。支給品リストに無理やりねじ込んだコーヒー。上限に一本追加してもらっている牛乳。科学によって鮮度を保たれた野菜と果実。ペースト状にすり潰されて、私の身体に消えていく。

 放置されたDVDショップにあったホラー映画の中盤が、延々と続いているような感覚があった。いつしか現実を喪失して、どこかに消えてしまいそうな危うさを、時折感じている。

 怪物も現れなければパニックを起こすほどの人もいない。そもそもが墓場のようなところで、考えてみれば、霧なんていうのはまさに死者の元にこそ映える代物だろう。

「なんて言っても、まぁ」

 生きているとか死んでいるとかは、別にどうでもいいのだ。

 そこに在るというのなら、ニューロンを駆ける電気信号も、血液で満ちた心臓の鼓動も、栄養を取り込む腸の蠕動さえ、機能していなくともまるで問題ではなかった。

 食器を伝う水の冷たさを感じる“私”。溜め込んだ息をそっと吐き出す“私”。この床を踏みしめている“私”。

 そういった諸感覚は、私という存在を補強しない。何もかもが確かな現実で、虚構も幻も妄想も介在する余地はないなどと言うことはできなかった。まやかしの不在を、証すことなどできなかった。

 常に囚われている。過去の残滓、記憶なんてものを、いったいどれだけ信じていいというのだろう。

 私という主観がどこまでも間違っているとしたら、この世界の正当性を私は保証できない。私が信じている真実なんていうのは、どこまでも無意味だ。

「行ってきます」

 ドア近くのハンガーからコートと防護マスクをとって、部屋を出る。羽織ったコートのチャックを閉めながら、階段を小走りに下りて、アパートを出た。

 光の靄に目を眇め、視界にうつし出された環境情報に思わず呻く。

「一日中濃霧か……」

 大通りは一面霧に覆われて、裸眼だと百メートル先もうまく見通せない。何もかもが白く霞んで、朧げにうつる。

 防護マスクの視覚補正と、コンタクトレンズ型現実拡張端末〈オルフェウス〉が示すマップがあってこそ、私は街の様相を捉えることができる。シャッターの下りた店舗を抱える建物が立ち並び、アスファルトの上にはかつての物流の面影もない。都市管理局の監視カメラが、無機質なアイコンで私を見下ろしていた。

 私がいる一角には数人の支援者が仮住まいを構えるのみだが、区画によっては人が寄り集まって小さな共同体を形成しているところもあった。彼らは支給品を細々と消費しながら、健気に互いを励ましあっている。

 今日はその共同体への訪問日だった。仕事上、定期的に街の住人の状態を把握しておく必要があるのだった。

「ナビゲーション。特別居住区」

 アプリを立ち上げて、霧の中に進路を表示させる。

 昔、私がまだ学生だった頃であれば、こんな環境の中を行くのは自殺行為に等しかっただろう。AR技術は発展途上だったし、私たちはまだ幼く、今以上に無力で、そしてなにより失うことに慣れていなかった。

 けれど、今では多くのことが異なっている。主観にはうつらない道なき道は明らかにされ、私たちはこの重苦しい肉体を抱えたまま、目指すべき場所へと進んでいける。

 〈オルフェウス〉は手探りでなく、確かな方向を示して、私を導いてくれる。夢でなく、この現実を踏みしめていられるように。

 すべてがそうであればよかった、と誰もが思っている。

 世界はこんなにも明らかなのに、私たちはまだ、霧の中を彷徨い続けている。


 *     *


 「霧幻都市ミストシティ」なんて呼び始めたのは、どこの誰だっただろう。

 何かの雑誌か、どこかの作家か、SNSで呟く顔のない誰かか。今でこそそんな呼び方をする人はごく少数にとどまるけれど、それなりのかっこよさとわかりやすさを兼ね備えたその言葉は、あっという間に定着して、当時の私たちから他の呼び方を奪っていった。

 霧幻都市。霧に覆われた、幻の街。

 その言葉が指す内容は概ね正しかった。ただ、言葉は言葉でしかなく、内包される現実を顧みないのはなんでも一緒で、社会からの隔離と排斥をもって次第に忘れ去られていった。私が配属される一年前のここの扱いは、いつかのチェルノブイリを彷彿とさせた。最近では、この街を登場させる創作物もちらほらと見かける。現実を物語性の皮膜によって覆うことを、社会が許すようになっていた。

 私は学生の頃から本を読むのが好きで、とりわけSFを好んでいた。終末だとか、好きな世界を選べたりとか、結晶化の病であったりとか、そういったものは私の中で輝かしく想像された。今となってはもう読み返すこともないけれど、私の中にある美しいイメージの源泉は、物語の中にこそあったと言える。

 サイエンス・フィクションがフィクションたる所以について考えた時、私は決まってとてもシンプルなところに着地する。人が出力した、という一点だけで、言葉は現実と空想のあわいにたどり着くことができてしまう、という、そんなところに。

 外的な情報を構成する要素を認識して、それを脳みその中で無数に組み合わせる。その中で他の言葉より優位に立ったものが、音声として、あるいは文字として現実に出力される。排泄行為と違うのは、腸が脳みそだということ。取り込んだ栄養を、生存、成長に還元する肉体の構造に例えれば、言葉は私たちの肉体そのものだ。取り込んだものの結果が、言葉と、この髪の毛先に宿っている。

 そういう考えを礎にした私にとって、問題だったのは、フィクションと錯覚するような現実の存在だった。戦争は遠かった。異星人の侵略も遠かった。宇宙旅行も遠かった。ポストアポカリプスだって、遠くにあった。

 十年前。私がまだ学生だった頃。中国で発生したウイルスが、世界を席巻した。

 大流行パンデミック。それだけが、私の近くにあった。

 前年からこぼれ出たウイルスは、私たちの生活にじわじわと染み渡って、気がついたときにはもう遅かった。

 感染拡大を回避するため、各国は外とのつながりを最小限まで狭めていった。私たちも外出を禁止され、両親は家で仕事をして、宅配の注文数が激増した。連日感染者の増加が報じられ、死者もどんどん膨れ上がっていった。現状に関する記事、報道、番組、本がたくさん世に出て、現実のつながり以上に情報的なつながりの方が拠り所になっていった。

 結果として、それまで必死になっていた国際化は速度を落とした。経済活動は一時的に大きく落ち込み、それぞれの国がそれぞれの枠組みの中でのやりくりを重視するようになった。

 世界は劇的には変わらなかった。あくまでゆるやかに、けれど確実に、何もかもがズレていった。

 霧幻都市は、十年前の成果とも、負の遺産とも言われている。

 流行の中頃、一番被害の大きかった街で、この事態を終わらせるために、当時の最新技術だった空中散布型医療ナノマシンが投入された。元はAIDSなどの薬物のみでは根治の見込みがない感染症に対し、原因となるウイルスを除去するために開発されたものだったのが、宇宙開発における環境改造を目的に改良され、地球上で初めて実戦投入されたのだった。

 効果は覿面だった。街からウイルスは消え去って、生存者は歓声をあげた。その時の映像を、私はリアルタイムで見ていた。消毒剤が散布されたみたいな白い街の中で、市販のマスクをつけた人々が悠々と外出する姿がドローンで撮影されていた。私は安心して、緊張の反動でしばらく泣いた。

 急ピッチで建設されたナノマシンの生成、散布工場は稼働を続けた。稼働を続け、街を治療し続け、ある時爆発事故を起こして、誰も立ち入ることができなくなった。ナノマシンに「汚染」という言葉が続いたのは、あれが初めてだった。

 ナノマシンの寿命は長く、その上自律制御プログラムによって街の外へは流れないようになっていて、除去が容易でないのは明らかだった。そして必要以上に散布された医療機器は、人を治療するどころか毒にもなりうると発表された。

 その時の映像を、私はリアルタイムで見ていた。配布された防護マスクをつけた人々が、我先にと街から逃げ出す姿を、ドローンの無機質なカメラが捉えていた。

 皆、失ったものを指折り数えては、もう一度開いて閉じるを繰り返している。その儀式の合間に、消えてしまったものが戻ってくるのではないかと、頭の片隅で、期待しながら。

 人々が逃げ惑う中で、石戸いしどワカは死んだ。私の友達だった。大切な……大切な人だった。

 誰も、彼女を治療することは叶わなかった。私も、医療も、科学も、世界も。

 失ったものが現れるという霧の街で、私は彼女を探している。


 *     *


「大丈夫だよ、先生。物資は足りているし、体内汚染が進んでいる人もいない」

 何か困りごとはないか、と聞くと、ユージーンは精悍な顔立ちを緩めてそう言った。

 ユージーン・ラッセル。ミストシティ特別居住区の現在のまとめ役。まだ幼かった娘を感染症で亡くして、妻のメリッサ・ラッセルとともに三年前からこちらに住んでいる。人の前に立つことに慣れていて、周囲の信頼も厚い。状況の確認は、まず彼らと交わすことになっている。

「気がかりな人は?」

「それなら、一人いるかな」

 ユージーンが目配せすると、隣に座るメリッサが引き継いだ。後頭部でひとくくりにした黒髪を揺らす彼女は、住人の相談役として機能している。知性を感じさせる青い瞳が目を引いた。

「アリサが最近塞ぎ込んでいるみたいで。ナオが私に相談してきたの」

「様子は……」

「ぼうっとしていることが増えてるみたい。食欲もあまりないとか」

「少し話してみる。家にいるかな……」

 〈オルフェウス〉のメモに書き込みながら問いかける。メリッサは視線を上に向けてから、

「そうね、本でも読んでるんじゃないかしら……」

 報告書に記述する内容を再確認してから、二人の元を去った。彼らは他の人々同様、低層アパートの一室を利用して生活している。インフラはそのほとんどが停止して、最低限だけが供給されているため、電力消費の激しいエレベーターは使用できないからだ。さほど労せずに階段で昇降ができる範囲が、彼らの生活圏となっている。

 話に上がったアリサ・クラインの住居は、ラッセル夫妻がいるアパートの向かいに位置している。私はマスクを装着してから、悠々と道路を横断した。歩きながら、昔、ワカが面白がって横断歩道を渡る度に手を挙げていたのを思い出す。そういう時の彼女は、普段よりも幼さを感じさせる笑い方をしていた。

 この街の在り方は、生来慣れ親しんできた社会と根本的に異なっている。人の想いも、生活様式も、対話の中で語られる物語も。すべて過去の残像をうつすようで、私は時折古代の遺構のようだと思う。時は止まり、白昼夢に微睡み続けている。

 私がここの心理監査官に志願した時、酔狂だのイカれだのと言って止めようとする人はそれなりにいた。親とかはその筆頭だったし、同僚も上司も勧めようとはしなかった。まぁ、当然だろう。霧幻都市という名前が指すものを理解していれば、こんなところに積極的に来ようなんて奴はいない。居住区にいる彼らにしたって、信じるものがあって、自分たちの意思で無理を通している。どうしてそんな連中のために、と自己責任論で考えるのはよくわかった。だから、私はそうなるといつも決まって、人の良心を騙って切り抜けてきた。博愛精神と、誰かを救いたいというシンプルな願いを口にして。

 けれど、ただ一人、久江ひさえアヅミだけは別の理由で私を諌めた。あの男だけが、私の願いを理解していた。

「石戸に会いに行くならやめるべきだ」

 久江は赤黒いワインの注がれたグラスを置いて、私に言った。

「わかってるだろう。ミストシティとかいうのだって本当かわからない。あそこにいる人たちがおかしいだけかもしれないんだぞ」

 私がミストシティ行きを口にすると、彼は深く息を吸って、吐いて……自分の中に渦巻くものを、ひとまず押しとどめたようだった。平静を装ってはいたけれど、言葉のつなぎが少し早かった。

 久江はいたって普通の男だ。無個性というよりは、自己主張をあまりしないというのが正しいだろうか。周囲の流れがよく見えていて、うまいこと立ち回ってのらりくらりとトラブルを避けるのがうまかった。その生き方は、妥協と協調を使いこなしているように私には見えていた。大人びているとも、スカしているとも。

 私とワカと久江は幼馴染だった。何をするにもなんだかんだで固まって、私とワカがなにかやらかすと久江がフォローすることも多々あった。高校は私とワカが同じで、久江は違ったけれど、それでも時々集まっては遊んでいた。

「石戸はもういないんだよ」

 そう言って、彼は表情を歪めた。悲しそうだ、と思う。事実彼は悲しんでいる。でも、それが私に響くと思うのなら大間違いだ。

 久江、と私は彼を見ながら内心で呟いた。久江、お前は失くしたものを、今でも数えているか。

 久江、お前はワカの表情のどれだけを鮮明に思い出せる?

 久江、お前はワカの声で発せられた言葉の、どれだけをはっきりと覚えている?

 久江、お前は常識人なんだよ。

 ただ、それだけなんだ。

 正しく時間の中を生きている。正しく流れて忘れていく。正しく嘆いて手を離す。

 私は、お前がおかしいかもという人たちと、同じなんだよ。

 時間は止まっている。忘却を恐れている。亡霊に追いすがって、握りしめた手は焼け爛れて癒着している。

「お前に何がわかる」

 自分でも驚くほど、その声は震えていた。現実に戻ってみれば私の手は小刻みに振動して、手にしたグラスを揺らしていた。慌てて手を離して久江を見ると、彼も動きを止めていた。

「お前に何がわかる……」

 今度は絞り出すように、言葉は出て行った。

「……すまない」

 久江は俯いて、静かに言った。いや、お前の言うことは正しいよ。と慰めてやりたかった。

 それでも、私は慰めたそばから彼を否定するに違いなかった。だから、私も黙り込んだ。震えが治まってから、三分の一ほど残っていたワインを一息に飲み干した。

 ワカの命日だけを、私は久江と一緒に過ごしていた。あてつけだと思われないといい、といつも怯えている。

 ワカが好きだった男は、しっかりと前に進んでいる。

 私はそれが、憎くて、たまらない。

 この街に来るのは、手放すことができずに停滞することを選んだ人ばかりだ。

 私たち大人だけでなく、子供たちもまた、同じように。

「アリサ、いる?」

 ノックをして声をかけると、かすかではあったものの「入って」と声が聞こえた。そっと扉を開けて、窓際で椅子に座っているアリサを見ると、彼女が手元の本から顔を上げた。

「ナオが何か言ったのね」

「まぁね。心配しているのさ」

「余計なお世話……」

 マスクを外しながら後手にドアを閉めて、アリサに近づいていく。座っても、と聞くと、黙って頷いた。

「……迷うのよ」

 沈黙を挟んで、不意にアリサが言った。肩から垂れた金髪を指に絡めながら、眉根を寄せる。

「何を迷う?」

「ここにいれば、姉さんに会えるのか、って……」

 彼女の目の動きを追従すると、テーブルの上に置かれた写真立てに至る。二人の少女が、仲睦まじく肩を寄せ合って微笑んでいた。

「それで、考え事を?」

 アリサは首肯した。

「父さんも母さんも、どうにかして日常を維持しようとしていた。見ていて痛々しかった。やつれた顔で笑顔を貼り付けて、当たり前を取り戻そうと頑張ってた。でも、私にはそれが──」

 言い淀んで、立ち止まる。その先に続く感情には心当たりがあった。私は何も言わずに続きを待つ。

「──それが、腹立たしかった。悲しいのなら壊れてしまえばいいのに、と……思って、この私自身も、憎くて……それで、ここに来たけれど」

「ああ」

「まだ、姉さんに会えないまま。もしかしたら私は間違っているのかもと思うの。いつまでたっても望みは叶わない。時間ばかりが過ぎていって、父さんと母さんを不安にして、全部無駄なんじゃないかって……」

「……ああ」

 君はまともだね、と口に出さずに私は呟く。彼女の思考は、まだ現在に錨を下ろしている。盲信することなく、今の自分と今の両親、他者に思いを馳せるだけの力がある。不安のあまり憂鬱になりすぎるのはよくないけれど、不安がなさすぎるのも考えものだ。

「アリサ」

 私は投げ出された彼女の手に自分の手を重ねながら、ゆっくりと話しかける。

「アリサ。ここははっきり言って、生きやすい場所ではないだろう。君がこれまで生きてきた世界から隔絶されているからね。でも君は、信じるものがあってここにきた。そうだろう?」

「ええ……」

「私は君の選択……残るか、あるいは去るか、という選択を実現させることができる。だから、もし離れると決めたら私に言うといい。すぐに手続きを済ませよう」

 そこで一旦言葉を区切る。わかるね? と聞くと、彼女は「ええ」と返した。

「けれどね、もし残るのなら、それでも不安だというのなら、ご両親にメッセージでも送ってみるといい。それが嫌なら手紙でもいいな。私が郵便局に届けるよ」

 元いた社会との断絶に加えて、ここはひどく閉鎖的だ。ともすればそれは、問題を一人で抱え込んだり、人との関係が障害されたりと、心身と社会性の健全さを保ち続けることを困難にするだろう。そして、事情が複雑に絡み合った末の悪循環は、それ以上に悪い状況しか生まなくなってしまう。だから、それが現実になるのを防ぐためにも、アリサのように悩むことができる人には、何らかの形で外部との接触をもってもらったほうがいいはずだ。集団の精神衛生のためにも、アリサが自分を維持するためにも。

 この街で、失くしたものを探し続けるには、ある程度の信仰が必要だ。いつか見つかる、いつか叶うという根拠のない盲信が。少ない可能性にしがみつく妄執が。

「でも、考えることをやめてはいけないよ。不安を完全に捨てようとしたら、人は思考もやめざるをえないからね」

 狂信は押し付けられるものでなく、ただ自然と生まれるのみだ。精神の疲弊は共感と感応を容易にして、価値判断を鈍らせる。だからこそ、私たちは意識して心に障壁を築かなければならない。

 アリサが頷くのを見て、私は彼女の頭を軽く撫でた。大人びてはいても、まだ二十歳にもなっていないのだ。もっと穏やかに生きられればよかったのだろうけれど、もう彼女の指は数えている。取り返せるものなど、どこにもありはしない。

 それから二十分ほど、私はアリサと話をした。内容は他愛ないもので、読んでいた本の内容だとか、最近の食事に不満はないかとか、今日は霧が一際濃いだとか、そんなところだ。彼女の場合は話し相手がいないわけではないだろうけれど、たまには毛色が違ってもいいだろう。

 〈オルフェウス〉に表示された時刻を見てから、私は、よし、と言って立ち上がり、マスクを手に取った。帰って報告書を上げなければならない。

「じゃあ、私は行くよ」

 そう言って踵を返したところで、ハンガーにかかっているマスクのデザインが見覚えのないものになっているのが目に入った。彼女たちが使用しているのは、私と同型のものだったはずだ。

「このマスクは?」

 首を曲げてアリサに聞くと、彼女は涙の浮いた目元を拭って、

「それはナオがやってくれたの。弄っているのは外見だけよ」

「へぇ」

 頬の空いているスペースに蔦のような模様と赤い花が描かれている。なかなかセンスがいい。

 そうやってぼんやり眺めていると、階段を駆け上がる足音が響いてきて、「アリサー!」と扉が開けられた。飛び出してきた少女は、私とアリサを交互に見ると、「ああ!」と言って、

「お話ししたんですね! 先生こんにちは!」

「ああ、こんにちは。今日も元気だね」

「ナオ……せめてノックくらいはして……」

「あ、ごめん!」

 アリサがため息を吐くのを見て、普段の彼女たちのやりとりが察せられる。九津城くづきナオはマスクを外すと、笑顔のまま謝罪を告げて、ドアを閉めた。

 ナオのマスクには、アリサと同じような意匠が施されていた。こちらは黄色の花だ。

「マスクの絵はナオが描いたと聞いたけど」

 言うと、彼女は自慢げに目を輝かせて、

「そうなんです! 先生は知っていましたか? 今のトレンドはアートなオリジナルマスクなんです!」

 自分のマスクを掲げて、今にも踊りだしそうな勢いだった。外でそういったトレンドがあるとは聞いたことがないから、おおかた、彼女が言い出しっぺになって内輪で盛り上がっているのだろう。この無機質な防護マスクにファッション性を見出すあたりがナオらしい。

「いや、知らなかったよ。たった今アリサのを見て気づいたんだ。ナオは絵のセンスがあるね」

 腕を組んで評論家ぶってやると、ナオは勢いよく頭を下げて、

「ありがとうございます! アリサ聞きましたか! 私センスがあるそうですよ!」

「ええ、ええ、聞いてるわよ。わかったから一旦落ち着いて、椅子にでも座ったらどう?」

「……そうします!」

 ナオは鼻息荒く、アリサは呆れながら微笑みを湛えている。この分ならアリサの心配はいらなそうだ。何かあればナオがすぐに報告するだろう。

「今度こそ行くよ。二人とも、また」

「ええ、また……」

「さようならー!」

 子供達の逞しさに、自然と笑みが浮かぶ。手を振って、その場を後にした。


 *     *


 必要物資の入力と報告書の提出を済ませてコーヒーに口をつけていると、通信が入った。マグを置いて舌で唇を濡らしてから応答する。「はい」

『アーヴィングです。物資の申請と報告を受理しました。明後日には到着すると思います』

 〈オルフェウス〉上で室内にいるかのようにうつし出されたイレノア・アーヴィングのホロアバターが、神経質そうな硬い表情のまま淡々と告げた。彼女は私の上司で、方々の監査官から送られてくる資料やら何やらを管理して、各部署に伝達する役割を担っている。いわゆる中間管理職というやつだった。

「ありがとうございます」

 今頃、彼女の視界では私が完璧な角度で頭を下げているだろう。ホロアバターはあらかじめプログラムされた行程をなぞるだけだけれど、仕事上の付き合いであればそれで十分だった。いちいち生で表情を拝む気にもなれない。特にアーヴィングは、顔の筋肉はもちろんのこと、服装も仕草もキッチリカッチリし過ぎていて、どうにも苦手だった。

 アーヴィングが毎回直接連絡を取ってくるのは、私の口から状況について語らせるためだ。私としても文中より口頭の方が説明しやすいこともあるから、苦手と言えども、そう悪い気はしない。気を使って文字を打つ時間よりも、その場その場の空気を読んでやり過ごすことの方が楽なこともある。……と、久江から学んでいる。

『現状では居住者の精神状態は安定しているようですね』

「はい。アリサ・クラインとは面談を実施しましたが、疾患につながるような兆候は見られませんでした。ただ、色々と不安が刺激されているようなので、引き続き様子を見ていくつもりです」

『わかりました。セルフケアは問題ありませんね?』

「……ええ、何も」

『そうですか。では、引き続きよろしくお願いします』

 そう言って通信は切れる。味気なく素っ気ない必要最低限の会話。私情も私語も一切なしの業務連絡。

 アーヴィングのアバターが消えるのを見届けてから背もたれに寄りかかった。マグを両手で包み込むと、もう温かくはなくなっている。仕方なく立ち上がって、カフェオレにして飲み干した。

 相手がどんな人物であれ、自分より立場が上の人間と話すのは気を揉んで敵わない。気分転換を図るつもりで、ダークブラウンの執務机の引き出しを開けた。今ではあまり見かけることのない煙草のボックスとライターを手に取る。適当に入れていたせいで折れ曲がったのを伸ばして直し火をつける。息を吸うと口の中で煙が滞留し、その最中に肺へと送り込まれていく。吐き出した煙は霧のように、中空を揺蕩って消えていった。

 机の縁に腰掛けて、霧で何も見えやしない窓の外を見つめる。

 感染症が流行した時、煙草産業はすでに下火になりつつあった。健康志向と公共の利益の優先。諸々の要素が絡み合った結果として、煙草はもはや多くの人にとって、憧れや依存の対象ではなくなっていた。フィクションの中でこそ映えるけれど、現実では有害なだけ。実際に喫煙者を見かけるよりも、漫画の中で見る回数の方が多くなっていた。それに追い打ちをかけるようにパンデミックが起きて、外出自粛に加えて健康第一が当たり前になった。医療技術の進歩は依存症からの回復を劇的に早め、結果として、今ではもう数えるほどの銘柄しか公には売られていない。コンビニからはとっくに姿を消していた。

 私なんかは、喫煙に憧れを持ったほとんど最後の世代になるだろうか。ワカは映画とかを見て登場人物が吸っている銘柄を調べたりしていて、私と久江にこれが似合うこれは似合わないなどと言ってみせていた。私は彼女が似合うと言ってくれたものを吸うと心に決めて、久江は興味なさそうに適当な相槌を打っていた。彼女がどういう判定基準を持っていたのかはわからないけれど、私には比較的男性的な色の強いものを。久江にはメンソールを。そして自分は「かわいいし」と言ってフレーバーつきのピンクのパッケージを所望していた。

 石戸ワカがどんな人間だったか、というのを短くまとめるのは難しい。あるいは久江にとっては簡単なのかもしれないけれど、私には色々とほぐしようのないものがあって、どうしても長くなってしまう。

 それでもどうにかしてシンプルな解を引っ張り出すとしたら、私は「普通の女の子」と言うかもしれない。

 石戸ワカにはカリスマ性もなければ、女神のような美貌もなかった。飛び抜けた才知も身体能力もなく、特筆すべきは泣きぼくろくらい。一緒になってゲームセンターでレースゲームをやったりだとか、好きな作品の話をしたりだとか、授業をサボって屋上で喋ったりだとか、そんなことをして楽しいと言えるような、普通の感性の持ち主だった。

 彼女がいた時はそれで済んでいた。久江も呆れながら馬鹿をやるのに付き合って、ファミリーレストランで親から連絡が来るまで駄弁る日常が大切だったのに。

 ワカが私の世界からいなくなってから、彼女のことを思い出そうとすればするほど、文脈だけが浮上して、細やかなディテールが失われていくのを感じている。“ゲームで負けた時の悔しそうな顔”という言葉だけが残って、肝心の映像はシュールレアリスムの絵画のように崩れて歪につなぎ合わされて、何もかも違った形で蘇る。最悪だったと言った数学の点数は五十何点だった? 声のトーンは本当に正確?

 すべてはワカに会えれば解決するのだ。この鬱屈とした心象も、足踏みしている私自身も。

 煙は失せても霧は晴れない。私は前には進めない。錨は過去に。ワカのその肋の合間に、噛み合って、抜け出せずにいる。

 アーヴィングの声を思い出す。『セルフケアは問題ありませんね?』

「完璧ですとも」

 鉄の窓枠に煙草を押し付けてから、口角を吊り上げて吐き捨てる。

「完璧に問題なく、最悪だよ」

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