「動物ではない、人間なのだ」

 この間チャップリンの「独裁者」を鑑賞した。

「独裁者」は高校でも見たし、以前テレビでも見た。これはとにかくすごい映画だ。ユダヤ人が迫害された事実に基づいており、ストーリーやメッセージ性がハッキリしていて、今見ても新鮮でまったく古い感じがしない。迫害されても卑屈にならず力強く立ち向かう人々の姿がいい。


 そして最後の演説。ここは涙なしには見られない。未だに人種差別は消えず、全人類にとっての明るい未来は遠いかもしれないが、それでも確実に希望はあるのだという気持ちにさせられる。



 しかし以前の私ならこの言葉に反発しただろう。

「人間は家畜ではない」



 家畜は家畜のままなのか? 人間だけが特別なのか? そんな悲しみに包まれる。

 この映画の論点はそこじゃないし、「人間にとって同種である人間は特別」というところにすら達していないことが問題なのだけれど。


 同じ種族である人間同士ならばコミュニケーションが取れるはずだ。仲間なのだから殺し合わず、全人類愛し合おうという話だ。



 うろ覚えだが、愛や人間性を鋭く描き出した映画「エレファント・マン」でもこんなセリフがあった気がする。

「自分は動物(象)ではない、人間なのだ」と。



 どちらも人を人として扱わないことに対する問題提起、そして虐げられる立場の人が立ち上がるときのセリフである。そこは共感するべきシーンであって批判するところではない。批判するべき相手は、人を人とも思わない人間の心の闇だ。



 人間の定義と尊厳は確立されるべきだろう。

 すべての人間が人間として大事にされるべきだろう。

 けれど……。



「家畜ではない、人間なのだ」

「物ではない、生き物なんだ」

「普通じゃない、珍しいんだ」



 比較は差別の原点かもしれない。





 チャップリンの映画では、毛虫を助けるシーンや猫を可愛がるシーン、自然や動物に関するセリフがあったと思いますが、どのシーンも印象的で素晴らしかったです。動物を見下すタイプの人というわけではないと思います。





関連エッセイ「虫好きな人がおかしい? 虫嫌いな世の中がおかしい?」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054896019060/episodes/1177354054896062814

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