物語はリアルから生まれるべきなのか

 小学生になって、授業でパソコンに触れたときは楽しかった。

 私が特に好きだったのは「検索」だ。なんでも調べられる。


 私は文字入力はゆっくりとしかできなかったし、好きに検索させてもらえる時間も限られていたから、ウェブ検索できる時間は夢のようだった。



 今ではタブレットが私のすぐそばにある。検索すれば何でも出てくる。夢の装置はずっと身近になった。

 ただ、前ほど検索するのが「特別な時間」ではなくなった。



 小学生の頃は情報が少なかったし、本を読むのは好きだったけれど大抵物語を読んでいたので、「気になることを調べる」ことには本を使っていなかった。

 小学校の図書室で読んだ物語は主に、動物やロボットや神様など人間以外が登場するものや、魔法のある世界を描いたファンタジーだ。一時は怪談の本にもハマった。いずれにせよ、非日常や「不思議な世界」を楽しんでいた。

 アホな私は、本の中に出てくる不思議な世界を現実と思い込み、その後本当の現実を知るにつれて「何か違う」と不安になったのだが……。



 物語の世界は良いものだ。特に児童文学や童話。あそこは夢いっぱいだった。大人向けの物語には、大人の恋愛とか人生観とか忙しさとか、色々入ってくる。児童文学では自由な子どもの発想や空気感が見事に描かれていた。



 そんな児童文学、事実に基づいていると思われるリアルな話もあれば、ヘンテコな話や自由な話もあった。どれもそれぞれ空気が違って味わい深かった。


 そんな良質な本たちと出会ったおかげか、私は空想が好きになった。元からだったかもしれない。夢と本と空想の世界は自分の中で繋がっていたように思う。



 ただ、最近ちょっと自分の感覚が現実寄りだ。


 例えばインターネットがなかった頃は、分からないことがあると「こうかな、ああかな」と自由に想像して楽しんでいた。その分勘違いも多く赤面することもあったが、それでも空想は趣味のようなものだった。


 今は「こうかな、ああかな」と思ったらすぐに検索してみる。すると答えが出てくる。「こうかな、ああかな」と想像する理由がなくなり、手間が省けた。


 が、同時に正解以外は間違いのような気がしてくる。すぐにネットで答えを知れることで、自由に空想する余地がなくなってしまったのだ。


 かといって検索しなければ良いかというと、そうとも思えない。興味のあることはついでに知っておくべきではないだろうか。1つ知ることで別の情報に繋がることもある。



 情報との付き合い方は難しい。


 物語を書こうとしてもリアリティが気になる。想像して書いたことがリアルと違うらしいと後で分かったこともある。


 どのくらいリアルに寄せればいいのだろう。世界に「本物」「答え」があるから、そうじゃないことは間違いな気がして、自由が少し狭まっているように思う。

 以前本を読んでいたときは自由だった。


 読むのと書くのは違うかもしれないが、それでも書くときも自由でいたくなる。リアルはリアル、物語は物語だ。



 リアルじゃなくてもなんとなく腑に落ちる、納得する世界観といえば私にとって「夢」だ。まるで筋が通っていないのに、物語があるように感じる。抱いた感情や味わった雰囲気もリアルだ。



 私が好きだった小学校の図書室の世界、めったに触れられないパソコンで少しだけ覗けたネットの世界、そこには夢があった。目指したいのはあの感覚だ。


 今後はあまりリアルに囚われないようにしようと思う。


 私は物語にリアルを求めていないかもしれない。筋の通らないヘンテコな空想なのになぜか腑に落ちる、そんな雰囲気を探したい。

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