黒髪おかっぱ vs 薄茶色のセミロング④


 まぶたの裏の世界が、私の視界を真っ暗に覆っている。湿った空気が全身の汗と混じりあい、何日も洗っていない寝間着が私の皮膚にベッタリと張りついていた。


 あの日、私が会社を飛び出してから三日……。私は一度も出社していない。


 ゆっくりとまぶたを開いた私は、窓から差し込むカーテンの木漏れ日によって、朝が来たことを知った。毎朝の日課、『体調不良で今日も休みます』という簡素なテキストをスマホの画面上に打ち込み、ポイッとベッドの上に放り、再び布団を被る。


 「このままじゃいけない」って、頭の中で、何度も何度も自分に言い聞かせた。スーツに着替えて、外の世界に出てみようとしたこともあった。――けど、『ダメだった』。

 ガチャッとドアノブに手をかけた瞬間、あの日の光景が私の脳裏にフラッシュバックし、私は思わずトイレに駆け込んだ。おええっ、と便器に向かってえづきながら、あまりの情けなさに私の目からはポロポロと涙がこぼれた。


 ……お腹、空いたな。


 空腹という生理現象をきっかけに、私はようやくのそっと身体を起こした。トタトタと生気のない足取りでキッチンに向かい、戸棚を開け放った私の口から、はぁっと大仰なタメ息が漏れ出る。


 ……うわ、食べられるもの、もうなんにもないじゃん……、外出るの、やだな。


 すくっと立ち上がって、キッチンの洗い場に重ねられているカップ麺容器の塔を眺めた。しばらくボーッと突っ立っていた私だったが、「もう、なんでもいいや」と、空腹という問題を一旦棚上げし、のそのそと、ベッドに再び戻ろうした時――


 ――ピンポーン……


 木造ボロアパートの呼び鈴が鳴る音に、ハッと意識を惹きつけられる。


 ……そうだ、外に食糧を買いに行くのイヤだったから、昨日ネット注文してたんだったわ、私、ナイス――


 頭が働いてなかった私は頭の中で一人歓喜し、来訪者が何者か特に確認することもせず、「ハイハーイ」とのん気な声を上げながら、ガチャリ、とその扉を開け放ち――


 「――よぉ、相変わらずひでぇ顔してんな……」


 ――今、最も会いたくない相手……、『桝田 大介』の顔を、両目で捉える――


 「……だい、すけ――――」


 震える声でその名を呼んだ私はハッと我に返り、すぐに扉を閉めようとドアノブにかけた右手を思いっきり引き寄せるも――、ガッと、『ボロボロのスニーカー』が滑り込まれることによって阻止される。私は、かまうものかと力任せにドアノブを引っ張り、おんぼろの木造扉がガタガタと悲鳴をあげた。


 「……いて、いてぇって! オイ! 閉めるな閉めるなッ!?」


 ドア越しの大介が喚き散らす声に、私は必死で聞かない振りをして、目を瞑りながら、何度も何度もその扉を思いっきり引いた。

 ――やがて、諦めたのは私の方。なんだかフッと何もかもがどうでもよくなり、スッ、と両手から力を抜いて、キィッ、と静かにその扉を開いた。イライラした顔つきの大介が再び視界に現れ、私は呆れたようにハァッと、タメ息を吐く。


 「……なに、しに来たのよ。無断欠勤してるわけでもないし……、アンタが私の家に来る理由なんて、ないはずよ」


 「あんな一方的なやり取り、連絡って言えねぇだろ……、電話も出ねぇ、メールも返さねぇ、ただただ毎日、『体調不良で休みます』って――」


 チラッ、と大介の目が動き、キッチンの洗い場に重ねているカップ麺の塔に視線が向かれた。


 「……おまえ、ロクなもん食ってねぇな? ……そんなんじゃ、治るもんも治らねぇぞ?」


 「……うるさいわね、人んちの台所ジロジロ見ないでよ。アンタは私のお母さんなの? お姉ちゃんなの? 担任の先生なの?」


 「……どれでもねぇし、どれになっても疲れそうだな――」


 

 大介とのくだらない小競り合いに、なんだか全身に血流が戻ってきたような感覚を覚えた私は、ハァッと再びタメ息を吐いて、片足に体重をかけ腕組みをしながら、大介の目をジト―ッと睨んだ。


 「……アンタ、こんなところに居て、いいわけ? ……今が、一番大事な時じゃない――」


 私の言葉を聞いて、大介がガシガシと、ぶっきらぼうに頭をく。


 「ああ、そうだな。どっかのプロジェクトマネージャーさんが急に来なくなっちゃったもんだから、てんてこまいだよ」


 「……私なんて、実際何かを作ってるわけじゃないし、あとはリリースまで不具合修正とバランス調整をするだけだし……、『マネージャー』なんて、もう必要ないでしょ――」


 ボソボソと力なく声をこぼす私を見ながら、大介がハッ、と呆れたように笑う。


 「……なに言ってやがる。リリース後の運営スケジュールだって立てなきゃいけねぇし、渉外対応を一手に引き受けてくれてるのはお前なんだから、俺なんかより、よっぽどお前の方が今のチームに必要だろ」



 ――えっ……?


 三日前、執務室で、蔑むように私を見ていた皆の目つきが、私の脳裏によぎる。

 ――カヤの外から、「仲間に入れてよ」って、子供みたいに喚き散らしている私のことを、呆れたような目つきで――


 「……まぁ、無理に来いとは言わねぇけど……、せめて、理由くらいは教えろよ? ……どうせ、ただの体調不良じゃないんだろ?」


 「――なんで、そんなことがわかるわけ?」


 ジロリと睨む私の目から視線を外した大介が、照れ隠しのように、ポリポリと頬をく。


 「……なんでって、そりゃ、お前とはそこそこ付き合い長いし、なんか様子が変だなーってことくらい、わか――」

 「――勝手なこと言わないで! ……アンタなんかに、私のコト、知ってほしくないッ!」


 頭に血が昇った私は、思わず両手でドアノブを掴み、大介の返事を待つこともせず、扉を閉めようと思いっきり引き寄せるも――、ガッと、『小さなスニーカー』が滑り込まれることで、阻止される。



 ――えっ……?


 ハッとなって、私は思わずドアノブからパっと手を離す。重力の行き所を失くした引き扉がキィッ、と軋んだ音を立てて、静かに開け放たれる。

 私の眼前――、片足でどんっ、と玄関口に片足を踏みしめている一人の少女が、獲物を狙っているタカのような目つきで、キッとこっちを睨みつけていた。


 「……コ、コウメちゃん――」


 ドクンっ、と心臓が動く。

 コウメちゃんの黒髪おかっぱと、スミレのストレートロングがぼんやりと重なり、目の奥がきゅうっと引っ張られるように、私の視界がまどろみ始める。


 「……コイツが、どーしても言いたいことがあるって……、俺は会社に居ろって言ったんだが、聞かなくてよぉ――」


 愚痴るように声をこぼす大介の声が、私の耳に僅かに響く。

 鬼気迫る少女の剣幕に、私は思わず、ゴクリと生唾を呑み込んで委縮した。コウメちゃんが、何かを言いたそうに、――何かに躊躇するように――、パクパクと、口を開閉させている。


 「……あの」

 ――眼前の少女が、滴の垂れるような声を漏らす。


 「……あの、えと……」

 ――眼前の少女が、たどたどしく言葉をつむぐ。


 「……あの、えと、んと…………」

 ――眼前の少女が、何かに怯えるように、キョロキョロと目線を動かす。

 

 煮え切らない少女の態度に、委縮してしまった私の身体が解きほぐされ、なんだかイライラと怒りさえ込み上がってきた私は、怒声を吐き出そうと大口を開け――


 「――いつも、色々教えてくれて……、ありがとう!!」



 ――その声が吐き出されることはなく、大口を開けたまま、ポカンと、背の低い少女を見下ろした。


 「…………えっ?」


 口をあんぐり開けたまま目を丸くしている私の口から、マヌケな声が漏れ出た。コウメちゃんは顔を真っ赤にしながら、肩でハァハァと息をしながら、威嚇いかくするような目つきで私のことを睨んでいる。……謝ってる人の、表情かしら――


 「ぷ、プリンターの使い方とか、お茶の淹れ方とか、教えてくれて、嬉しかった……、大介も軍司さんも、仕事以外のこと、何にも教えてくれないから、困ってた……」


 私は思わず、脇に佇む大介へと目線を向ける。大介はバツが悪そうな顔で、ぴゅ~っ、と口笛を吹くジェスチャーをしながら灰色の空へと目を向けた。


 「そ、そんな……、当たり前のコト――」

 「――当たり前のコト『だから』! ……嬉しかった、私、当たり前のコト、出来ないから…………、でも、香澄さんは、そんな私のコトをバカにせず、ちゃんと、教えてくれて――」


 黒髪のおかっぱがフワリと揺れ、

 少女がくしゃっと、ほっぺたを引きのばして笑う。



 ――今の私がいるのは、『カスミちゃんのおかげ』だよ?――

 

 ふと、スミレの声が頭に響いた。

 私の目から、大粒の涙がポロリと溢れ、ツーっと頬を伝った。



 「――うっ、……ううっ――」


 顔を歪ませた私の口から、思わず嗚咽おえつが漏れ出る。

 ――気づいた時には、私は迷子になった子供みたいに、大声を出して泣いていた。


 「――うわああああああああああああああん……!」


 ――わんわんと泣きじゃくる私のことを、丸っこい瞳で見つめながら、コウメちゃんが、目をパチクリと開閉させている。大介がくいっとコウメちゃんの肩を引っ張り、何も言わずに、外の廊下を歩き去っていく足音が聞こえる。

 

 わんわんわんわん……、子供みたいな喚き声が、湿った空に響く。

 その場にしゃがみこんだ私は、全てを忘れるように、何を考えることもせずに、ひたすらに、泣き続けた。



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