さすらいの枕返し

なゆた黎

枕返しがやってきた

 正太郎の住む町に、旅の枕返しがやってきたという噂が流れはじめたのは、ひと月ほど前のことだった。

 それから十日あまり過ぎた頃、正太郎の通う小学校の子どもたちの家にも、枕返しが現れはじめた。

 はじめは、上級生の勘助くんの家の、小学校にあがる前の弟だった。寝るときには確かに頭の下にあったはずの枕が、朝起きてみると足許に転がっていたのだそうだ。

 それからタケシくん、さくらさんのお母さん、さくらさんはお母さんの二日後に。そして、正太郎のあんまり知らない上級生や下級生のうちにも現れたと聞き、続いて同じクラスのみよちゃん、ヤッタくん、けんちゃん、しょうちゃん、マリ子さんに芳郎くん……。枕返しのうわさが流れはじめて二ヶ月も過ぎようかという頃になると、正太郎の小学校のほとんどの家に現れていて、残るは岡元先生や龍輝くん、修吾くんたち枕を使わない人たちを含む数人。そして正太郎。


「ともくんのうちも来ないの? 枕、使わない派だっけ?」

 給食時間。今日の献立は、人気の黒砂糖パンに牛乳、温食はけんちん汁で副菜はコロッケだ。正太郎は黒砂糖パンにかじりつきながら、向かいに座るともくんに声をかけた。

「ともくんは枕使う派だけど、寝てる間に抱えちゃうんだって、枕。」

 口いっぱいにパンを頬張り、モゴモゴと咀嚼するのに忙しいともくんに代わって、春子ちゃんが答えてくれた。

「へえ。春子ちゃんとこは、来た?」

「うん。私も寝る前はきちんと頭の下にきちんと枕敷いてたんだけど、朝になって目が覚めたら、顔の上にあったのよ、枕」

「枕の枕になったんだ、春子ちゃん」

 口の中のパンをようやく胃に流し込んだともくんが、そう言うと、教室に笑いがおこった。

 春子ちゃんに限らず、寝るときに頭の下に敷いていたはずの枕は、人によっては翌朝にはちゃぶ台の上にあったり、ひどいものになると隣の部屋の真ん中や別の部屋に寝る親の枕の下に移動しているものもあったので、そのたびに教室はにぎやかな笑い声が響いた。

「正太郎んトコは?」

「まだ」

 しょんぼりと答えて、正太郎はハアとため息をついた。


 夕ごはんの時間。

 正太郎は大好きなピーマンの肉詰めを箸でつつきながら、ぼんやりとテレビを見ていた。

「元気がないな?」

 正太郎の皿の上のピーマンの肉詰めを、せっせと自分の皿に移しながら、父親が声をかけた。

「お父さん! オレのおかず!」

「ごはんに集中していないからだ。それで、どうした?」

 移したピーマンの肉詰めを正太郎の皿に戻しながら、父親は正太郎を見た。

「うん」

 うなずいて正太郎は、戻ってきたおかずを自分の方へうんと寄せて、ぽつりと答える。

「オレのとこ、枕返しが来ないんだ」

「は?」

 いつになく深刻な顔をしているからと聞いてみれば、枕が云々という思いもよらない答えが返ってきて、父親はこめかみを押さえた。いや、確かに眠りの質は心身の健康に直結する。寝具は健やかな毎日を過ごすためには、こだわれるだけこだわりたい、重要なアイテムのひとつである。しかし、枕返しが、何だって。 寝具についての憂いなのか。父親はちらりと息子に目をやる。

「だから、妖怪・枕返しがオレの枕をひっくり返しに来てくれないんだってば。ヤッタくんとこも春子ちゃんとこも、壮太んとこにも博くんとこもカズんちも、みんなのうちには来てるのに、オレのとこにはまだ来ないんだ」

 そう言って頬をふくらませる正太郎を見ていた父親は、箸を置いて小さくうなった。静まり返った食卓に、母親の調子っぱずれの鼻唄が台所から流れてくる。

「あのなあ」

 小さく息をついて、父親は静かに言った。

「信じられないかもしれんがな、来てるぞ。……毎日」

「嘘だ」

「嘘じゃないんだな」

 微笑というには微妙な、なんとも表現しづらい笑顔を作りながら、父親はコップの焼酎を一息に飲んだ。フウと小さく息をつく。

「枕返し、な。あいつ、枕を返そうと毎日お前のところに来てるんだけどな、お前の枕、枕返しが来たときには既にあらぬところへ蹴っ飛ばされててさ。毎日毎日、だんだんと早い時間に来るようになって、それでも間に合わなくてなぁ。仕方がないから飛んでった枕を直していくようになったんだよ」

 それなのに、枕返しが来ないとしょぼくれるわが子を見て、父親は、己のアイデンティティを蛇の脱皮のごとくグリンとひっくり返してまでも、毎日毎日、正太郎のところへやってくるけなげな枕返しのことが、とても不憫に思えた。

「そっか……」

 父親の話を聞いて、正太郎はリスのようにふくらませていた頬をしゅんとすぼめ、こくりとうなずくように首をたてに振った。

「わかった。今夜は枕を蹴っ飛ばさないようにして寝るよ」

 そして、もう一度決心するように力強くうなずくと、正太郎はピーマンの肉詰めに箸を突き立てて言った。

「お母さんに、枕を敷布団に縫いつけてもらうよ」

 元気よく宣言しておかずを頬張ると、正太郎はあっという間にご飯茶碗を空にした。

「それは、意味がないんじゃないかなぁ……」

 つぶやく父親の声は、正太郎の耳には届かない。父親は、本気で枕返しが不憫に思えて、宙を見上げて深く深くため息をついた。そしておもむろに立ち上がると、天袋から箱入りの五合瓶を取り出した。ネットオークションでそこそこの値がつくやつだ。これをお詫びにご馳走しよう。

「毎日毎日お世話になっているからなあ」

 そうつぶやきながら、父親は台所から丸盆とコップを用意して、五合瓶と一緒に玄関へと持っていった。


   おわり。


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さすらいの枕返し なゆた黎 @yuukiichiro

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