第106話

 伊織は蔵人所に向かう、渡殿を歩きながら涙を流した。

 なんたる世の皮肉であろうか、今上帝は幼き頃から望み続けたを手放して始めて、それと同様に望み続け諦めていたを手に入れられた。

 決して手中にはできぬと諦めておられた、である。

 今上帝は御出産後の肥立ちが悪く、御母君様を亡くされた。

 この世の中でただ一人与えてくれるとしたら、それは生死をかけても産み育ててくれる母だけだ。だがその御母君様が存在しない以上、どんなに大事に育てられても、今上帝の与えられる愛情には、無償の物は無かった。

 あの方の望むものだ。

 それは伊織の母が精魂込めてお育てしたが、それでも実子の自分とは違う事を、実の子である伊織が知っている。

 あのお方は乳母を母と慕ってくれておられるが、それでも違う事を知っている。ずっとずっと共に育ち、何もかも知っているからこそいる。

 だが雛は、それを与えてくれるかもしれない。

 否、たぶん与えてくれる。だから今上帝は雛に惹かれるのだ。

 どの世界に、自分の為に生まれて育った、と言ってくれるものが存在するだろうか?

 この国の主として御育ちのお方なのに、全てにおいて御諦めになられて御育ちになられた。

 初恋というべきかのお方への思いは、決して今上帝の御心だけでは通す事は叶わない。妻となる中宮は今上帝を支える事のできる、勢力を持つ一族の姫と決まっているからだ。つまりどんなに恋い焦がれたとしても、それだけの条件を満たさねば妻にも后妃にもなれない。もしそれでも我を通されて、低い身分でお側に置かれても、相手の女御は後宮という小さな世界で潰されてしまうだろう。

 それゆえに諦めていた初恋のお方を、天にも昇る思いで妻として迎える事がおできになられたというのに、かの方は今上帝の真心よりも、大人の法皇様を選んでおいでであった。

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