第87話

 そんな事は百も承知だ。

 ずっと入内した時から知っている。

 そしてその瞳に魅入られて、苦しい胸の内すらも流されるのも知っている。知っているのに今宵はどうしても、再びその瞳を見たくて堪らなくなった。

 それが何故なのか、それは当の本人すら解らない。解らないのにどうしても、見たいと切望してしまった。

 今上帝は引きつけられる様に、中宮が居る母屋の中に身を投じた。

 すると想像した通り、中宮は潤んで艶を含む瞳を向けていた。

 その瞳の美しさに、今上帝は思わず我を忘れて見入ってしまった。

 ……駄目だ……と解っていたのに、どうしても見入ってしまった。

 今宵は……今宵はどうかしてしまった。

 ……あの琴の音が、自分をおかしくしてしまった……

 そう思うが、どうにもならなかった。

 懐かしい香りが今上帝を誘う。

 ……ああ……切望してやまない香りだ……そしてその香りのあとには、嫋やかで柔らかい抱き心地の良い、今上帝を虜として放さない白肌が誘うのだ。

 唇と唇を合わせただけで、今上帝は蕩ける様な陶酔に我を忘れていく……。

 長年恋い慕い恋い焦がれた女の躰は、他のものでは代用が効かない。

 この女はこの女でなくては、絶対的に今上帝を満足させないのだ。


「主上……あちらに……」


 桜貝の様な唇を耳元で動かして、今上帝を酔わす女は囁いた。

 今上帝はそのまま高揚した顔容をもたげて、先に立つ女の手を取った。

 そのまま寝所の御帳台の上に、躰を重ねて横たわる。

 懐かしく恋しい香りに誘われて、今上帝は再び唇を合わせあった。

 長い長い口づけの後に、今上帝は少し赤みを持ち始めた白肌に唇を付けた。

 微かに懐かしい甘い声が、耳元で擽ぐる様に漏れる。これも今上帝には懐かしく恋しいものであった。


「………………」


 そして今上帝は、静かに中宮を弄る手を止めた。

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