第86話

 弘徽殿は煌々と輝く月明かりに、篝火を焚かずとも明るく浮かび上がり、その明かりで垂れ下がる御簾すらも幻想的に浮かび上がっている。

 今上帝はその昔を懐かしむ様に、御直衣の懐に入れた御笛を出して吹いた。

 諸々の時の流れが浄化して、その音色と共に流れ行く様だ。

 今上帝の苦しい程の今の思いも、そして苦しい程の愛憎も、全てが音色と共に天に流れ、青月の美しい輝きによって浄化される様に思えた。


「愛おしいひと……」


 今上帝の思いの中には、その言葉しか浮かばない。


「今宵の月を見ておりましたら、貴方様の事を思わずにはいられず、つい琴を奏でておりました」


「何故に?」


「まだ元服前の貴方様と、こうして共に奏した事がございました」


「ああ……」


「あの夜の月が今宵の様に、それは明るく美しく……貴方様の笛の音の余韻に見上げたあの月を、私は忘れる事ができぬのでございます」


「さようか……私もあの日の事は忘れられぬ……」


 ずっとずっと思って来た。

 あの琴の音と共に、美しく成長しているはずの少女を、想像して恋い焦がれた。


「そなたの琴は、昔と変わりなく美しい……」


 すると中宮は、フッと俯いて微笑んだ。

 その仕草が憂いを帯びていて、きっと側にいる全ての男の心をくすぐるだろう。


「貴方様の笛の音は、昔と変わらず心に沁みる音色でございますが、昔よりも強さを感じる音色でございました……わたくしは貴方様がこれ程に逞しく御成なのを、ずっと気がつかずに過ごしておりましたのですね?余りに幼い頃にお逢いしたが為に、私は気づく事すらせずにお側にはべっておったのですね?貴方様はもはやとっくに、大人の逞しい男に御成であられましたものを……」


 中宮は潤んで艶を含む瞳を、今上帝に向けて言った。

 その潤んだ瞳に見入られれば、もはやどんな男でもその瞳から、視線を逸らす事などできなくなってしまう。

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