第85話
「誰の琴だ?」
「弘徽殿からにございます」
「弘徽殿?」
今上帝は一瞬眉間に、皺をお作りになられる。
それを目敏く見つけた女官は
「主上様から賜られた琴を、爪弾いておられるのでございます」
と、頭を深く下げて告げた。
「あの琴を未だお持ちなのか?」
「それはご大切に、しておいでにございます」
その琴は、かの昔の名匠が弾いていたと聴く琴で、今上帝は恋い焦がれていたかの方に差し上げたくて手に入れ、そして差し上げた琴だ。
父院の御前で、御簾越しではあったが笛と琴とで奏した事があったし、入内してからも……。だが最近はそんな事も忘れていた。
「今宵の余りにもの月の美しさに、中宮様は主上様を思って琴を奏でてございます……」
知り顔の女官を直視されて、今上帝は踵を返してご寝所に向かおうとされたが、再び佇まれて青月を仰いだ。
懐かしくも、心を揺さぶられる音色だ。
かの方への思いしか無かった頃の、あの思いが呼び戻される。
どのくらいの年月を、思い続けで来たのだろう……。
幼い頃からの思いだ。
今上帝は、父院がご出家される程に愛された、それは美しい母君様を知らない。覚えているとか、そんな次元ではなくて、物心ついた時には薨られていたのだ、知る由も無い事だった。
そんな今上帝が父院の座す後院に行幸すると、それは見目麗しい童女が父院の膝に抱かれていた。
その童女に見入る今上帝に、父院は笑いながら言われたのだ。
「母の縁者ゆえよう似てるおる、今上帝が惹かれるは当然の事よ」
それを聞いた今上帝は、母の面影のある少女に一瞬にして囚われてしまった。もはや他に心が動く事は、無くなってしまったのである。
……ああ……あの時から囚われたのだ……果たして父院のお言葉で、囚われてしまったのだろうか?否、きっとそんな事は無い……
今上帝はずっと、自問自答して大きくなった。
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