第56話

「法皇様の御気色が思わしくなく、私の代わりに赴いてくださりましたゆえ、お忙しい事と思いまして……」


 今上帝が、熱い眼差しを向けて言うと


「法皇様は、私を我が姫と思し召して、内親王様よりも慈しんで御育てくださりましたもの、身を御案じ致すは当然の事でございます」


 中宮は更に、今上帝を覗き見る様にして言った。

 何とも、男心をくすぐる所作をご存じだ。

 だがそれには、少しの嘲笑を今上帝はお浮かべになられる。


「確かに、その御身の傍に置かれてのご養育は、貴女様のみでございますからね……」


「…………」


「私の姉宮様などは、それは貴女様を嫉いておられるのですよ……我が父君様を一人じめなされておいでと……」


 今上帝の視線の熱が、微かに下がる。それを瞬時に感じ取る術を、この中宮は心得ている。


「何を……どなたがその様な事を……。法皇様は寄る辺のないわたくしを、憐れんでおいでの事ですのに……その御恩は忘れる事はございませぬ」


 しっかりと判然と、強い口調で言った。


「……確かに……亡き関白家は子らが不甲斐なく、凋落の一途を辿りましたからね……此処で貴女に皇子でも産んで頂かねば、再びの栄華はあり得ません。まして今は、系統違いの同一族が幅を利かせているし、そこの姫も差し出された……誇り高い貴女様には、歯痒い思いしかございますまい?」


「主上?何を仰せなのか……」


 声はか細く掻き消えそうだ。


「……ゆえに、そのものにも、皇子を授ける事は致しておりませぬ……今までの貴女様への、私の情にございますよ」


 今上帝は静かに微笑むと、中宮のしな垂れる格好の躰から身を引いた。


「今宵は月と貴女様を愛でましたゆえ、そろそろお暇致しましょう」


「主上……」


 中宮は咄嗟に今上帝の、御直衣の裾を掴んだ。


「またの機会と致しましょう」


 冷ややかな笑みを残して、弘徽殿を退かれた。

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