第55話

「貴女様にはいつまで経っても私は、不甲斐ない夫の様ですね?」


 弘徽殿から見る月は今宵もそれは綺麗で、西廂は細殿と呼ばれ女房達の居室となっていて、簀子が無くて遣戸から直ぐに入れる構造になっている。

 久方ぶりの夫婦の会話に、局のもの達は聞き耳を立てている事だろう。


「不甲斐ないなどと……。かつては、頻繁にお召しくだされましたのに……昨今は文すらくださいませんのね」


 黒目がちで潤んだ瞳が輝いて、それは艶を持って夫を誘う。

 脇息にもたれて月を愛でていた夫に、微かに身を預ける様にして言う姿は、一瞬にして今上帝を捕らえて離さない。

 今上帝は月へ向けた視線を、おもむろに動かすと、それからは釘付けとなってしまった。

 幼い頃から夢に見る程の白肌が、盃を差し出す手に浮かぶ。黒くて艶やかな黒髪が微かに揺れる。

 今上帝がまだ幼い頃に法皇様の元に赴くと、この美しい人がそこに居た。

 たった一度しか見る事がかなわなかったのは、姫の方が早く大人となり、姿を晒す事がなくなったからだ。

 父の法皇は幼い今上帝にすら、姫の姿を見せる事はしなかった。

 ゆえに思いは増していく……。

 今上帝は、幼い恋心を募らせて大人となった。

 そして妻として決められたのが、名家であり当然の如く筆頭候補であった、摂政の姫や関白の姫ではなく、父法皇の養女の様になっている、かの姫であると知った時の、この胸の内の喜びはきっと誰も分からないだろう。

 幼いながも、恋い焦がれ続けた女人だ。

 かの方の事を思うだけで、身が沸騰しそうな程に熱くなった。

 そうなれば、他のものなど微塵も気が行かない。

 数多と内裏には美女が存在するのに、全てのものが色褪せて見えた。ただかの姫のみに色が鮮やかに付いて、輝いて今上帝を誘う存在なのだ。


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