真夏の青春片道切符

柿尊慈

真夏の青春片道切符

「久しぶり、ですね」

「そうね」

 相変わらずこの人はそっけない。むすっとした顔をつくってみるが、じっとりと睨まれるだけだった。

「寂しかったとか、ないんですか」

「連絡は毎日取ってたでしょう? 寂しがるなんて、君じゃあるまいし」

 セミの声で焼かれた頭皮から汗が落ち、額と髪の毛が密着する。こっちはくっつけないってのにいい気なもんだと、自分の髪の毛に嫉妬した。

 2020年夏。年始から猛威を振るったウイルスも、気温の上昇に伴って以前ほどの感染力を持たず、流行りのインフルエンザ程度の凶悪さにまで去勢されたようだ。

 とはいえ、泣きながら自粛を続けてきた僕らは、人間一般に対して不信感のような感情を抱くようになり、親密な人以外との接触はかなり避けるようになってきた。以前は当たり前だったおつりを渡すときの手だって、今では非常識の象徴であり、レジ店員と客を隔てるビニールカーテンは、暑さ対策のために若干その厚みを減らしたが、お互いの飛沫を恐れる風潮は収まる気配がない。


「落ち着いてきたようなので、久しぶりにどこかで会いませんか」

 先週末、恐る恐るメッセージを送ってみたところ、返事はあっさりオーケー。

 大学1年の頃に出会った、歳上の女性。交際はそろそろ4年目に突入する。長期にわたる休講で卒業が危ぶまれている僕とは違い、ウイルス騒動の中でも、彼女はせっせと仕事を続けていた。綺麗な人だという第一印象だったが、実生活ではズボラなところが多く――そんなところが、僕は好きだったりするんだけど――家の外に出るのを億劫だと感じるような人。デートをするのも一苦労で、家の外に出てきてもらうだけで大変な上、歩く時間が長くなるデートプランは最初から許しが出ない。おかげでテーマパークとか街歩きとかは全く行けず、早々にネタが尽きるため、結局向こうのおうちにお邪魔して掃除をする、みたいな時間の過ごし方が多かった。

 しかし今はこんな状況なので、迂闊におうちにお邪魔するわけにも行かない。彼女の大好きな、歩かないで済む公共交通機関もウイルスの温床になりやすいので、彼女の自宅の周辺を散歩するという、小学生みたいなデートが現在進行中。


「なんか、遠くないですか」

「これが私たちの距離よ。まだ私は、君からならウイルスをもらってもいい! なんて思えないんだから」

 あくまでも「自分がうつす」のではなく、「僕が感染源」であると考えているらしい。

 そんなわけで、彼女の5歩くらい後ろを歩く。センサーでもついているのか、この距離を少しでも縮めると後ろを振り返り睨んでくるので、足を早めることはせず、木漏れ日とセミの声を浴びながらとことこ歩く。

 やっぱり、遠いな。

 我ながら温度差の酷いカップルで、未だに僕も、どうして交際の申し込みを了承してくれたのかわかっていないような状態だ。スキンシップも当然、僕から触るばかりで、冬であっても「暑苦しい」と言われるのが常だった。

 世間が騒がしくなって会えなくなる前までは、彼女の腕に抱きついて歩いていたものだ。ふたりして身長が170センチ程度なので、肩がぴったりと合わさるような形になる。知り合いからはよく、それって抱きつく性別逆じゃないのなんて言われたが、僕が抱きつきたいから抱きついているのであった。もちろん、こうでもしないと自分のペースで歩いていってしまうとか、向こうから触れてくることは絶対にないためこっちから触れないといけないなどといった事情はあれど、僕は僕たちの上下関係(主従関係?)に十分満足していたのも事実だった。

 そしてようやく会えたと思ったら、この距離だ。後ろを歩いているため、彼女の声も非常に聞きづらく、加えてセミの大合唱。聞き返してももう一度話してくれるような人ではないので、聞き漏らさないようにしたいのだが、距離を空けるので精一杯だ。

「お仕事は、どうですか?」

 セミに掻き消されないよう、少し声を張る。

「1日8時間きっかりの労働、という体になってるから、体感としては給与が減ったわね」

 まさか自己申告で労働時間および給与の管理をするわけにもいかないので、テレワークになってからは残業は一切してないということになっているらしい。出勤制限およびテレワークの開始当初は、家を出なくていいと喜んでいた彼女だったが、そのうち「なんで家にいるのに仕事しなきゃいけないの」と愚痴を言うようになっていた。大学に行く機会が減り、時間をもてあましている僕は、一定時間ごとに連絡を取って、やる気をなくした彼女をおだてて励ます役割を担っている。子どもっぽいというか、変なところで格好悪い彼女が好きだった。

 ぴたっと、彼女の足が止まる。合わせて、僕も静止した。彼女が振り返り、僕の顔をじっと見つめる。距離は……適正なはずだ。

「どうかしましたか?」

 恐る恐る聞いてみる。

「後ろじゃ、だめね。横に来なさい」

「えっ」

「もちろん、距離を空けて」


 ランニングをする際は、縦に並ぶよりも横に並んだ方が、飛沫感染の可能性を下げられる、というニュースを思い出したらしい。別に走っていたわけじゃないが、顔の向いている方向に顔がない方が安全なのは事実だった。

 衛生管理に気を配りながらも、自粛期間を取り返すように、飲食店は働いている。とはいえ、食事に相応しい時間というわけでもないので、そういった店の横を通り過ぎては、ただただ歩く。

 歩きたがらない彼女がこうして歩いているのは、長いこと家から出ないでいたため体が鈍り、自宅のトイレに行くのでさえ脚が疲れるようになったからだそうだ。ちゃんと体を動かしてくださいねと忠告していたのだが、聞いちゃいなかったようである。

 彼女の隣で――隣といっても、道路の反対側だが――、しょうもない話をしながらただ歩く。自粛ムード以降、僕は誰とも会っていなかった。最初に会うのは、この人だと決めていたというのもある。

「私は、君が最初じゃないけどね」

「えっ」

「どうしても、テレビ会議的なやつが必要だからね。私は適当なアバターを表示させてたけど、家着姿の上司が分割された画面に表示されてるのはなかなかきついものがあるわね。公私を分けて生活してたのに、プライベートの部分を見せつけられてるような気がして」

「まあ、そうですよねぇ」

 かれこれ、1時間ほど歩き回っていた。途中、どこかの公園で座ってもよかったけど、自分と同い年くらいの女性が、お母さんとして子どもの面倒を見ているのを見るのが苦痛だということで、休憩はない。

 彼女の家に行く際に、周辺のスーパー等を利用することはあったので、このあたりは少し詳しいつもりでいる。だが、ついに見慣れない景色になってきた。1時間も歩けば、当然であるが。

「あっ」

 自動販売機が見えた。無計画にも――というか、こんなに歩くとは思っていなかったので、ペットボトルをひとつしか持たずに家を出たから、そろそろ買い足す必要だった。彼女の持っていた小さなペットボトルの紅茶も、空のようである。

「水分とらないと、きついですからね。休憩がてら、何か買いましょうか」

 普段であればふたりで1本でもよかったが、こんな状況なので回し飲みも気が引けた。僕はサイダーを、彼女はレモンティーを購入して、こくりとひと口含む。夏はやはり炭酸だ。彼女はあまり好きではないらしいが……。

 彼女は、ぼうっとしていた。息が上がっている様子はないが、眉をひそめている。体が疲れたというよりは、だんだん歩くのが面倒になってきたというような様子だ。

「どうかしましたか?」

「帰りの分のエネルギーを、使い切った」

 そう言って彼女は、自販機に寄りかかる。

「どうして早く戻らなかったんですか……」

「結構、楽しかったから」

 思わず、顔をあげた。

「久しぶり」

「……どうしたんですか、急に」

「お願いがあるんだけど」


 ストレッチの効いたジーンズの感触。背中に吐息と体温を感じる。

「重くない?」

「ええ、大丈夫です」

 歩く気がなくなった彼女をおんぶして、家に戻るべく記憶を辿った。たぶん、こっちから来たはずだ。

「がっつり、濃厚接触ですけど」

「私のウイルスが食えないっていうの?」

「なんですか、それ」

 僕は、あなたからもらってもいいですよ。知らない人にうつされるよりは、そっちの方がよっぽどいい。なんてことは言わないが。

 寝ているかのような、ゆっくりとした呼吸。甘えてるんだろうけど、本人は悪気もなければ自覚もなさそうで、僕が応えるのがさも当然のように振る舞っている。仕事の愚痴然り、おんぶ然り。

「意外と、いけるものですね」

 顔にはやや疲れが出ているのだが、彼女から顔は見えないだろうから、少し強がって見せた。小さく、彼女が笑う。

 今までは、僕が腕に絡みつくだけだった。密着度というか、親密度というか、まあそんな感じのやつが、かなり上昇したんじゃなかろうか。若干尻に敷かれている感が増したが、それもいいだろう。

 どのみち、このおんぶもこの瞬間だけだ。明日になれば、また画面の向こうの人になる。今のうちに、この人を感じておこう。この温もりを、次に会うまでの励みにするのだ。

 少しだけ雲が出てきたので、太陽に焼かれずに済んでいる。ようやっと、見知った風景になってきた。

 ぼそっと、彼女が呟く。

「暑苦しいのも、悪くないわね」




 さて、ウイルスの心配もなくなり、僕たちはこれまで通り、普通に会えるようになったのだけど。

 彼女はついに、歩くことを放棄した。僕たちは、いつもおんぶで移動するカップルになっている。

 知り合いにはドン引きされた。この幸福感は、僕だけがわかっていればそれでいい。

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