5
その日ミモザは、故郷の人々に手紙を書いていた。あと数日もすれば、神殿の人々が年に一度の顔見せに来るとの連絡があったからだ。今日はたまたま天候が悪く、昨日の晩から雨が続いていた。外での活動も出来ないので、いい機会だと篭って手紙を書くことにしたのだ。このまま、天候が崩れたままならば彼らが来るのも遅くなるかもしれない。そんなことを一人ぼんやり思いながら、窓の外を見た。
窓の外を見たミモザは、あっと声を上げた。塔からもよく見える海岸、その砂浜に何かが打ち上げられている。いや、何かじゃない。あの大きさ、形。どう見ても人間であった。ボロボロでうつぶせになっているため、男女どちらなのかも、若いのか老いているのかもわからないが、確実に人間だ。
あれは船だったのだろうか?その人間のそばには、ほとんど形の残っていない木屑が無数にちらばっていた。一体いつからそこに打ち上げられていたのだろうか。もし相当時間が経っていたら――――。ミモザは雨除けのローブを着ると、階段を駆け下りた。
「大丈夫ですか?!私の声が聞こえていますか?」
ミモザは、その人にそう声を掛けた。返事はなかった。塔の上からではわからなかったが、その人は近付いてみると、なかなかの長身であった。体つきからして恐らく男性であろう。ミモザは、彼の身体をひっくり返した。
「大丈夫ですか?」
またしても反応はなかった。脈と呼吸はあるのが確認できたので、気を失っているのだろう。男もまたローブを着ているため、顔がよく見えない。しかし、そんなことは、今はどうでもいい。人命救助が最優先だ。
「よし。やるか」
ミモザは小声で詠唱する。すると、男の身体がふんわりと起き上がった。ミモザの家は、火属性の魔法を発現することが多い家だったが、家族でミモザだけは唯一、火属性と風属性二つの属性を操ることが出来た。今思えば彼女が、特別な存在だということが既に現れていたようにも思う。
ミモザは魔女だが、風の魔法に関しては並といった程度なので、塔までずっと浮かして運ぶことは出来ない。代わりに男を背負い、下から若干風を送ることにした。追い風のような状態で背負ってはいるが、少しだけ身体が浮いているようにして運ぶことに成功した。男が彼女の背中で少しだけ動いた気がしたので、また声を掛けたのだが、何も反応は返ってこなかった。
男をベッドに降ろすと、ミモザは慌てて看病の準備に走り回った。最悪死体だと思っていたので、なんの準備もしていなかったのだ。幸いにも目立った外傷は無さそうだったので、とりあえずお湯を沸かし、着替えと食べられるかわからないが食料と水を持って戻って来た。
「ごめんなさい。遅くなったわ――」
ミモザは言葉を続けることが出来なかった。
男は、起き上がっていた。ローブを脱いだのか、顔がはっきりと見えていた。男の髪にしては長すぎる髪、伸び切った髭。頬はこけて、目は血走っていた。しかし、その目こそミモザにとって、とても懐かしくずっと求め、追い続けていたものだった。
「ふら、んしす?」
「ああ」
「遅くなったな」
そう言って彼は、ミモザの愛した、照れたような笑顔をぎこちなく浮かべた。
フランシスは、そう言い残すとまたしても気を失ってしまった。彼はかなりの高熱を出していた。ミモザは聞きたいことでいっぱいなのに、彼がまた口を開いてくれることはなかった。それだけ、彼の具合は非常に悪かったのだ。むしろ、あそこでミモザを認識して微笑みかけたことが奇跡のようなものだったのだ。
数日後に来ると伝えられていた神殿の使いはやはり来なかった。島に台風が近づいていたのだ。一週間は来られないだろう。同時に隣の島の人々もまた島に来ることが出来なかった。
そう、ミモザはフランシスと完全に島に二人きりだった。
ミモザは、具合の悪いフランシスの看病を一人でほとんど寝る間も惜しんで続けた。毎日身体を拭き、薬と食べ物を口に運び、何度も氷枕を交換した。彼の不調は、単なる風邪だけではなく、栄養不足に睡眠不足、疲労の蓄積、不衛生な環境から引き起こされたものだろうとミモザは推測した。その極めつけがあの船の難破だろう。長時間の雨風に晒されるには、今の彼は余りに脆かった。彼がどこに向っていたのかはわからないが、よく生きていたものだと感心する。その結果が、会いたくもないだろう女との再会なのだから人生には困ったものである。―――いいや、でも。
「遅くなったな」
あの穏やかな顔がもし、ミモザに向けられたものならば。
「いいの・・・もしそうじゃなくても今度はちゃんとお別れできるじゃない」
回復したらきっと彼はすぐに戻るだろう。立場のある人間なのだから。それにきっとあちらにはあの愛らしい彼女が待っている。ミモザは考えただけで、またしても胸が軋む音がするようだったが、聞こえないふりをした。
フランシスの救出から五日。ミモザはふと、気が抜けてしまい、フランシスの枕元でそのまま眠ってしまった。顔に朝日が差したことで、自分が寝過ごしてしまったことに気が付いた。雨と風が絶えることのなく、吹き荒れていた昨夜までが嘘のように優しい日光が部屋を照らしていた。飛び上がるように起き上がると、目の前に大きな影が出来ているのに気が付いた。
フランシスだ。あの日以来意識の朦朧としていた彼が目覚めたのだ。なにか言わなくては、そう思うのだがミモザの口は動かない。
「おはよう」
やっとの思いで出たのはそんなありきたりで、当たり前の言葉だった。ぼんやりと前を見ていたフランシスの顔がこちらを向く。
「おはよう、ミモザ」
ありがとう、と続けフランシスはまた微笑んだ。ミモザの胸はまたしてもキュッと苦しさを増す。ちゃんと私のことを分かっているのね。かつての華やかな姿ではないはずなのに、こんなにも彼は輝いて見える
「もう熱はない?」
「うん。もうどこも苦しくない。ミモザの飲ませてくれた薬のおかげだ」
「――意識があったの?」
「あったり、なかったり。ミモザがずっと看病してくれたのは知っている」
彼はまたしてもありがとうと言い、頭を下げた。ミモザは困惑した。本当は起き上がった彼に文句の一つや二つは言うつもりだったのだ。こんなにも殊勝な顔をされたら、文句を言うミモザの方が悪い人間のようではないか。ぐっと飲み込み、少しつっけんどんな態度で返す。
「別に・・・。それがここでの仕事みたいなものだし」
我ながら苦しい言い訳だと思った。寝ずに看病している人間がそんなに合理的な理由を持ち合わせているわけがなかった。
「それでも。俺は嬉しかったんだよ」
ミモザの言葉をからかうわけでもなく、言葉通り受け取ったのかフランシスはそう言って見つめる。あんなにも切望していた赤い瞳に見つめられたのに、いたたまれなくなって目を逸らす。
「―――ミモザ?」
「何なのよ?!もう?!」
ミモザの中の何かが暴発したようにとめどなく溢れ出す。
「どうしてここにいるの?何しに来たの、どうして何も言わないの、どうして私に笑いかけられるの、なんであの日来なかったの、なんで―なんで―」
「すまない」
「ッツ、触らないで!」
肩に触れようとした彼を思わず、拒絶する。ぱしんと手を払った音が思いのほか大きくて、ミモザの方が驚いた。違う、こんなことを言いたかったんじゃないのに。何度もこの日を思い描いていたはずなのに。涙を止めることが出来ないミモザにフランシスは、呆れているだろうか。そう思い顔を上げる。
「ミモザ」
そう名前を呼ぶ彼の顔はいつかの幼い時に見た、悲しげな微笑みだった。
「ごめん」
そう言って彼はミモザを自分の胸に閉じ込めた。今度は、ミモザは拒絶しなかった。彼の胸の中で、大声で子供みたいにしばらく泣きじゃくった。
しばらくして涙が止まると、そっとフランシスはミモザを解放した。髭こそミモザが勝手にそり落としたが、以前のような高貴な美しさは今の彼にはなかった。しかし、以前よりその顔はすっかり痩せこけているのに、何故か表情は生き生きとしているのが不思議であった。
「フランシス。何があったのか話してくれる?」
ミモザは極めて落ち着いて、静かにそう頼んだ。また何か感情が高ぶっても困る。
「うん。話すよ。ミモザがさっき聞いてきたことも、俺のずっと思っていることも」
「俺が全部悪いんだ」
そう切り出した彼は静かに語り出した。
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