さようなら、アネモネ図書館

 僕の一声で、アネモネ図書館中の司書が一堂に会した。いや、厳密にはここの館長であるアザミの一声だろうか。

 まずは館長代理のシオン、その伴侶であるカトレア、館長たるミカン。次に外部からやってきた生者であるアザレアとその伴侶のサザンカ。自殺志願者たる僕・ヒナゲシとハルジオン。最後に、自称管理者のアザミとアジサイ。

 最後にやってきたのはアジサイだったが、彼は僕を見るなりぎょっとした顔をした。僕が笑いかければ、彼は目を逸らしてこう呟く。

「お前、その目……まぁえぇわ」

 その目というのは、片方が赤く染まっていることを示しているのだろう。僕にだってどうしてなのかは分からないけれど、それも魔女アザミの魔法だと言ってしまえばおしまいだ。

 椅子に座っているのは僕と、向かいに座るシオンとミカンで、真ん中にはタブレット端末が置かれていて、ハルジオンがこちらを向いている。アザミとアジサイは各々壁に寄りかかっている。アザレアはサザンカの隣に控え、カトレアはその反対に立っている。

 そのような状態になってから、僕は手を組み、全員を見回して口を開いた。

「アネモネ図書館から退院するときが来ました。そして、それはあんたたちも同じだ」

「ハッ! デカい口叩くじゃねぇか、ヒナゲシ。だが、俺が思っていたことと同じだ」

 アザレアはそう言って手を叩いた。椅子に腕を掛け、シオンに顔を近づける。シオンは、ふう、と一度息を吐くと、こくんと頷いた。

「君の言うとおりだ。過去を忘れた者はもうおらず、全員が全てを思い出した。もう、アネモネ図書館が運営される意味は無い」

「だから僕たちは……そう、ハルジオンと僕は、ここを出なくてはなりません」

「私はアネモネ図書館の根幹にある検索デバイスです。ここを出るにしても、最後まで見届けなくてはいけません」

 ハルジオンはそう言い、黄色と紫の目でこちらをじっと見つめた。そこには恐怖も戸惑いも無い。ただ僕の言ってることを素直に受け入れているだけだ。

 そうですか、と返したあと、僕が視線を送ったのはアザミとアジサイだった。二人は顔を上げると、それぞれ目を逸らした。

「このアネモネ図書館の治療対象には、あんたらも含まれるんでしたね」

「なぜそれを……」

「まぁ、そこは魔法のおかげってことで。便利ですよね、魔法って言葉」

「チッ……」

 冗談めいてそう言えば、アジサイは顔を歪め、ミカンのもとへとツカツカと寄ってきた。それから、ミカンの前に置かれた本を一冊取り上げ、軽く振るような動作をしてみせた。その本のタイトルにはアジサイ──ではなく、「パンドラ=クルス」と書かれているのだった。

 アザミもそれにならい、自分の本を手にする。そこには「神崎美香」と書かれていた。

 アザレアは肩を竦め、話が早くて助かるよ、と妙に明るい声で言った。芝居がかった素振りはいつもどおりだ。

「さ、過去を振り返ったところで退院のお時間だぜ、管理者ども」

「……時間をくれ。一人になりたい」

 アジサイがそう言い、踵を返す。待って、と言ったミカンのことも無視して、彼はアネモネ図書館の外へと出ていった。すると、ボクも失礼するぜ、と言ってアザミも彼の跡を追った。

 溜め息を吐き、アザレアは呆れたように笑う。シオンはそんな二人を擁護するように、穏やかな声でアザレアに声をかける。

「二人にも考える時間を与えてやってほしい。僕も過去と向き合うのには時間が要ったからな」

「シオン君……」

「僕にはカトレアの存在が無ければきっと前を向けなかったさ。ありがとう、カトレア」

「ううん、良いの、シオン君が幸せになって、前を向けたら……」

「……ということで、司書長。君は二人の司書についていてやってほしい。ハルジオンとここで待っているよ」

 シオンは、できるな、と言い、薄く微笑んだ。カトレアも、お願い、と言って手を結ぶ。

 今の僕は確かに信頼されている──彼らを希望へと導くための光になると、彼らの眼底を払えると。

 僕は立ち上がり、胸に手を当てた。それから、自分が思う理想の女神を想像しながら、微笑みを返した。その女神は、他人の弱みにつけ込んで自分のものにするようなものじゃない。人に寄り添い、希望の光を灯すものだ。

「お任せあれ。僕は女神ですから!」

 アザレアはにやりと笑い、サザンカはほっとした顔をした。何も言わなかったミカンも、僕のほうを見て頷いた。視線を受けながら、僕は扉に手を掛け、勢い良く開いた。



 さて、まずはアジサイからだ。彼がいるところなら想像がつく。彼は天邪鬼で恥ずかしがり屋だから、きっと僕に顔を見せたがらないだろう。

 そう思ってやってきた場所は、背の高い花が咲き誇る花園だった。雲に隠れた月を見上げる一人の人影が確かにあった。近づこうとするとやはり、何だよ、と不機嫌そうな声が飛んできた。相手の顔はよく見られないけれど、これが彼の望む距離なのだろう。

「独りだと考えが煮詰まらないだろうからな。話を聞きに来てやったんだよ」

「……余計なお世話だ」

「失敬? 僕は……いや、俺は余計なお世話が大好きでな。嘘と隠し事が大嫌いなんだ」

「ふっ、本領を発揮しやがって。ちっとも悪びれない。自分の在り方にも戸惑わない……お前はそうやって生きるのを決めたんだな」

「いいや、迷いながら生きていくことを決めたんだよ。だが、あんたにはこの接し方が相応しいだろうと思ってな」

 アジサイはこちらを一目見た。緑の瞳が微かに光って、また背けられた。

「何が聞きたい?」

「その本に何が書いてあったか、だな」

「人の過去なんて聞いて何になる?」

「あんたは今、ダリアを失って寂しいはずだ。そして、管理者としてではなく一人の人間として生きていくことを望んでいる」

「──どうしてそんなに管理者だなんだに詳しいんだ?」

「アネモネが教えてくれたんだよ」

 そう言って赤くなったほうの瞳を指せば、彼は額に手を当て、アザミの奴、と恨めしそうに言った。

 アネモネが教えてくれたのは、アザミが知っていた情報のほとんどだ。いくつかまだ分からないこともあるけれど、それはそもそも僕が知るべきことではないのだろう。その中でも、アジサイは僕たちを管理する側の人間だということは分かった。

 アジサイは観念したように口を開いた。それでも、僕には背を向けたままだった。

「つまんない過去が書いてあっただけだよ。

俺は……昔から他人に変化を迫ってきた。アザレアがやってることと大差無いさ」

「変化を迫った……それは、どういうことだ?」

「俺の周りは皆劣って見えた。ずっと自分のやり方を貫くばかりで、愚鈍だったさ。過ちは認めないし、幸せは見過ごすし、永遠に停滞し続けてるのを良しとしていた。少しでも変わったら、もっと幸せになれたのかもしれないのにな。

俺はただ、皆に変わってほしかった。もっとより良い人間になってほしかった。もっと強くて、もっと幸せで、もっと多角的に物事が見られて、もっと博識で、もっと経験豊富で、もっと人の役に立つような人間になってほしかったんだよ。だから、もっとこうしたら良いのに、って言い続けた……今思えば、本当に愚かだった」

 アジサイはそう言って、嘲笑うようにひとしきり笑った。笑い疲れると、息を吐き、頭を掻いた。

「俺は……俺は変わったさ。幸せになりたくて、絶望したままではいられなくて、成長したさ。だが人々はそんな俺を疎んだ。その結果がこのザマさ。

もう、俺は誰かに期待したくない。だから、こうやって愚かな人間を眺める管理者としての生き方が相応しいんだよ。愚かな人間を嘲笑い、ときにお節介を焼き……感謝やら好意やらはもう求めない。ただ人間というものから距離を置いていたいんだよ。だから、俺に生きろと言わないでくれ」

「──一つ間違ってるぜ、あんた」

「あぁ……?」

「あんたは確かにダリアに期待していたはずだ、違うか? そしてそんなダリアが巣立ったとき……何を思ったんだ、本当は?」

 アジサイの肩がびくりと跳ねた。彼は咲き乱れるアジサイに目を向けると、そっと手を触れた。俯く横顔は暗くてよく見えない。

 闇を纏った彼を打ち砕くように、真実と希望の弾丸を打ち込む。人間に絶望して、それでも誰かを救いたいと願うその様は、まるで僕にそっくりだったからだ。

「僕と同じだ。何も変わらないと思っているんだ。だが実際は違った。ダリアはあんたのおかげで前を向いて逝くことができたはずだ。

あんたは変化を恐れてるだけだ。自分の気持ちの変化に怯えているだけだ。

あんただって幸せな人生を生きれる。あんただって変われるはずだ! 変化を恐れんな!」

 僕の言葉が僕自身をも励ます。変化を恐れるな。もう一度生きる人生は絶望塗れかもしれないけれど、希望を持て。僕が伝えたいのは、そういうことだ。

 彼の動きがぴたりと止まる。彼はアジサイから手を離すと、上を見上げた。僕も一緒になって見上げれば、そこには雲一つ無い満月があった。

「俺もまた、変化を恐れた愚かな人間になろうとしてる、ってことか……」

 アジサイの声が柔らかくなった。隠れていた月はその姿を顕にした。

「きっとダリアにだって会いに行けるさ。そしてきっと仲良くなる──」

「分かった。分かったよ、もう分かった。だから……一人にしてくれないか……サイゴくらい、一人にしてくれ」

 彼は潤んだ声でそう言い、黙り込んだ。そして彼は僕へと彼の名前が書かれた本を投げつけた。

 アジサイの顔を伺うことは、サイゴまで叶わなかった。しかし、彼にもプライドというものがあるのだろう。アジサイの花言葉は、高慢だ。

 僕はアザミの元へと向かうことにした。彼にはこれ以上、言葉は要らないだろうから。

 歩き始めてしばらくして振り返れば、空に昇る金色の光が見えた。



 闇に溶けるような黒髪、それに反して光るルビーの瞳。アザミは白屋根の下、白いティーテーブルで優雅に紅茶を飲んでいた。隣には本が置いてある、彼女のものだろう。夜の茶会といったところだろうか。

 僕が近づけば、彼女はティーカップを口から離し、お疲れ様、と一言言った。

「アジサイの様子は?」

「もう大丈夫だ。次はあんたの番だよ、アザミ」

「分かってたさ。だが、ボクも『人間とやらの生』は断らせてもらうね。そもそも、ボクは人間ですらないんだから」

「それは……どういうことだ?」

 アザミは蛇の目を細めたかと思うと、僕にも紅茶を振る舞った。この紅茶が切れるまでがタイムリミット、ということだろう。

 僕にはまだ分からないことがあった──それは、アザミが何者であるか、といったことだ。アネモネから継承した記憶をもってしても、明かされなかった真実だ。彼女が魔女で、何でもできるということは納得がいっている。けれど、ハルジオンとの事件のときに話していた「別の自分」についても話してもらったことは無い。僕の運命共同体であるということしか明かされたことは無い。

 それゆえ、まずそれを尋ねることにした。するとアザミはボクのことをまた細い目で見たあと、ティーカップをソーサーに置いた。

「ま、サイゴだし話してやるか。

……ボクは、とある人間のビッグデータだ。一人の人間じゃァない。様々な世界で何度も生まれては死んで、絶望を繰り返したのち、一つの人格が生まれた──それが、ボクだ」

「じゃあ、あんたは人間じゃなくて、人間から集めたデータ、ってことか……?」

「そうさ。幾星霜の時を経て『神崎美香』という人間のデータから生まれた、というか、再現された人格だよ。だから全ての『神崎美香』を知っている。人間をより知り尽くしている、ってわけさ。

そんな物語全てをも扱えるデータは、一人の類似人物と出会った。それが神崎慧、アンタだよ。そして、アンタを救済するためここまで手を尽くしてきた。だが、その役目もようやく終わりってことさね」

 アザミは微苦笑してそう述べ、それからまた紅茶に口をつけた。

 つまり、彼女は絶望して死んだ人間たちのデータを集め、学習したAIとでも言ったほうが良いだろうか。ハルジオンが電脳空間で生きているというのも、このような技術があり得るこの世界では起こり得るということだろう。

 だからこそ、アザミはこう言うのだ──「人間としての生」はごめんだと。人間としての生なら、たくさん経験してきたから。彼女はずっとずっと、過去の絶望に囚われて今も生きているのだ。

 僕は失礼にも、思わず笑い出してしまった。当然、アザミは訝しむような顔をする。でも、こう言いたくなってしまったのだ。

「アジサイそっくりだな、あんたは」

「彼奴と……? どこがだよ」

「もう自分は変われないって、周りは何も変わらないって、絶望している。千回駄目でも、千一回目は幸せになれるかもしれないって、思わないのか?」

「アンタ、統計における検定ってものを知らねぇな。アレは標本調査した中で母集団に戻しても同じことが言えるだろうと示すためにやってんだよ。千回駄目なら、千一回目も駄目なんだ。『神崎美香』は幸せになるどころか、学習して不幸になっていったんだよ」

「でもその千一回目には俺がいただろう?」

 アザミは僕の言葉に瞠目したようだった。予測していない言葉だったのだろうか。考えてみれば、僕にこんな自信のあることが言えるなんて思ってもみなかった。他人を不幸にするだけの僕が、他人を幸せにしていると言えるようになるなんて。だから、アザミも驚いたのだろう。

 彼女は何度か瞬くと、ククク、と喉を鳴らして笑った。僕は畳み掛けるように続ける。

「だって俺とあんたは運命共同体だ。きっと理不尽だって叫びたかったのはあんただったんだろう?」

「……敵わねぇなァ、同志には」

「千二回目は俺があんたを見つけ出してやる。そして今度こそ幸せな生を、自分のための生を生きよう」

 アザミは僕の言葉に肯うことも無く、首を振ることも無く、ティーカップの中身を見せてきた。もう空っぽになっている。話は終わりだ、という合図だ。

 僕も紅茶の中身が少なくなってきたところだ。残りを飲み干し、アザミをじっと見据える。彼女は花唇を描き、遠くを見つめた。

「実を言うとさ、最近寂しかったんだよ。アヤメもリンドウもコスモスもいなくなってさ……アンタに先に逝かれてたら、ボクはずっと魔女のままだったかもしれないな」

「大丈夫さ。まだ、終わらない。この物語は必ずハッピーエンドで終わらせてやるよ」

「その言葉を聞いて安心したよ。成長したな、慧──」

 アザミは自分の本に手を置いた。すると、次第に手の先からきらきらと金色に光って消え始める。彼女の赤い目はそれに照らされて、未来を冀う光が灯っていた。彼女は今まで見たことが無いような、とても穏やかな顔つきをしていた。眉を寄せ、片目を細めて人を嘲笑うような顔をしていた魔女らしい姿は、ここには無い。

 誠もそうだった。人が逝くときは、こんなに幸せそうな顔をするのだと思った。

 アザミは何かを言う間も無くあっという間に消えてしまった。僕の手の中に、小さな金の粒子が残る。それすらもやがて消えていって、残ったのは一冊の本だけになっていた。

 金の粒子を見上げて、空に至る。アジサイを見送ったときもそうだった──とても、月の綺麗な夜だ。

 僕は立ち上がり、アザミの本を手にしてその場を離れた。司書長としてのサイゴの仕事が待っている。アザミを迎えに行くのもそれからだ。



 最初に集まった談話スペースでは、夜も更けたというのに、シオンが残って端末と話をしていた。僕が帰ってきたのに気がつくと、シオンは端末の向きを変え、僕に見えるようにした。

 端末の中では、黒と白のツートンカラーの少女が僕を足を組んでこちらを見ていた。ハルジオンだ。自殺志願者の最後の一人、そして、治療対象の最後の一人だ。

「長かったですね、ここまで」

 ハルジオンはそう言って長い溜め息を吐いた。よくよく考えてみれば、ハルジオンと面と向かって話すことはあまり無かったような気がする。彼女と話すのも最後だ。僕は向かいに座り、ハルジオンへと話しかけた。

「残されたのは僕たちだけですよ。ハルジオンさんは、未来に期待していますか?」

「えぇ、まぁ。『八神鏡香』より『神崎鏡香』より幸せな人生を送れるんじゃないですか? 人間になれるとは決まってませんけどね」

「ずいぶん冷静なんだな、ハルジオンは」

「私自身、アヤメと同時に過去を知った身でもあります。そのときから、もういわゆる『治療対象』ではなかったのでしょうから。ここから人がいなくなれば、検索デバイスという私の存在意義も無くなるのは道理です」

 そう言ってハルジオンは組んでいた足を解いた。それから、すでに存在が不安定になり始めている足先を眺め、また溜め息を吐いたのだった。

「私というプログラムにはもう実行者はいません。今まで使用していただきありがとうございました」

「何を言うんだ、ハルジオン。君は最初から僕と一緒にいてくれた大切なアリスだ」

「……ずっと思ってたんですけど、その『アリス』って呼ぶの止めてくれません? 私の母を思い出すので」

「あぁ、そうか。申し訳無いね、ハルジオン」

 アネモネから受け取った記憶によれば、八神鏡香の母が「アリス」とも呼ばれていたらしい。シオンが「アリス」と僕らを呼ぶのは違う理由だとは思うが……

 そんないつもどおりな会話をしていると、ハルジオンの体が零と一になって消え始めた。タイムリミットが来たらしい。ハルジオンは立ち上がると、僕と後ろに座るシオンを見てから、ぺこりとお辞儀をした。

「今までありがとうございました。次の世界では人間として会えると良いですね」

「そうだな、ハルジオン。君という人間に会えることを楽しみにしている」

「……シオンもどうかお元気で」

 ハルジオンは一瞬、とても柔らかく微笑んだ。それは僕にではなく、シオンにだったのだろう。三輪目として最初からツバキやシオンと一緒にこの図書館を支えてきたのは、クロッカス──否、ハルジオンだ。だからこそここまであっさりとした別れが出来たのかもしれない。二人はきっと出会えると、強い信頼を持っていたのかもしれない。それは今まで見たことが無いとても素敵な仲のような気がして、心がぐっと温かく重くなった。

 残されたのは僕とシオンだ。僕にももう時間は残されていない。アジサイとアザミを見送ったときから、体が奇妙に温かくなっているのは感じていた。もうここにいるべきではないと、アネモネ図書館側から言われているかのようだった。

 改めて、心から恋をした相手と向き合う。彼は僕が持っていた本を指す。そして、さらに机の上に一冊の本を置いた。そこには、「神崎鏡香」と書かれていた。

「彼らの行く末、読むかい?」

 シオンはそう言って僕に笑いかけた。否定する理由も無い。僕も、彼らが幸せに生きられているかどうかは気になるところだ。

 「つづく」の文字がある先、新しく書かれ始めた文章を僕は読んだ。



 定食屋で働くのは悪くない。料理は嫌いじゃないし、食べるのも最近は嫌いじゃなくなってきた。

 料理というものは人を幸せにするから面白い。人を変える力を持っているのだ。心も体も貧しい人が、一度美味しい飯を食べただけで、目を輝かせて希望を抱くのだ。だとすれば、料理を提供するというのは魔法のようだ。

「パンドラ、今日もありがとう。また明日もよろしくな」

 ぼーっとしていると、店主にそう呼び止められる。客もいなくなったことだ、営業スマイルを止めてお辞儀をして、外へと出た。賄いも貰ったし、さっさと帰って寝よう──そう考えて暖簾を捲ると、そこには背の高い男と背の低い男が待っていた。

「アジサイクン、お疲れさん」

「パンドラのこと待ってたんだけど? ほら、早く飲みに行きましょう!」

「……聞いてへんのやけど」

「ほら、──も付いてきてくれたんだぜ? せっかく明日も休みなんだしさ!」

 そう言って、黒い三白眼の男がぐいぐいと腕を引っ張る。背の低いほうの男は、そんな彼奴を窘めるように肩をぽんと叩いた。

「昴クン、アジサイクンも疲れとるねんで」

「分かってますけどぉ……」

「──のこと困らせんなや。早う行くで」

「そう来なくっちゃね!」

 彼奴は俺と腕を絡め、早歩きして前を行く。そんな彼奴に振り回されながらも、こうして日々を過ごすのが嫌いじゃない。目まぐるしく変わっていく彼奴のそばで生きられるのは、嫌じゃない。

 これは、千一回目のこと。千回やっても駄目だった未来に期待をした、そんな話。



 警察という役職に就いたのは、自分と同じ境遇の人間を減らすためだった。

 あのクソ女が刺されてから、もう十数年経つ。毒親を持ったら最後、一生苦しめられる、なんてのが鉄板だ。与えられた「八神」なんて呪いの文字列を捨てて、今はこうして一刑事として働けている。

 そんな回想をしながら眠りに落ちていると、隣から声をかけられた。もう始業の時間らしい。

「カガミ、始業だぞ」

「ふわぁ……はいはい、ありがとう」

「そういや、さっきの仕事だけど──」

 通知を切ろうと、スマートフォンに目を落とす。気がつかなかっただけで、さっきメッセージが来ていたらしい。

──カガミお姉さん、今度また遊びに来てくださいね。

 神楽坂菖蒲、と書かれたその通知を見て、思わず口元が綻ぶ。

「おい、聞いてないだろ」

「ごめんごめん。ちゃんと話聞くから」

 隣でむくれる相棒にそう言って、私はスマートフォンをポケットにしまった。

「……最近幸せそうだな、カガミ」

「あんたとバディ組んだからじゃない?」

「……そんなことを直球で言われると思わなかった……」

 顔を少し赤くする彼を見て、おかしくなって笑ってしまう。そんな瞬間が愛おしかった。



「本当に幸せになれたんだな、彼らは」

「さぁ? まだ幸せの途上だ。これから不幸になるかもしれないし、もっと幸せになるかもしれない」

「それもそうだな」

 シオンはぱたんと本を閉じると、僕のほうに向き直った。本を閉じた僕の手が、もう消え始めていた。

「僕はどこに行くんだろうな」

「どこへ行ってもうまくやっていけるさ」

「ありがとう。僕はあんたに恋ができて、幸せだった」

 そう言うと自然と涙が出てくる。心がとても温かくて、それで目元まで熱くなってくる。この恋は叶わないもので、それで良くて──そう思っていた僕の気持ちを、シオンはサイゴまで言葉でひっくり返した。

「ヒナゲシ。君が言う『恋』こそ、人生への小さな期待だ。その気持ちを大切にしてほしい。僕も、君と出会えて良かった」

 シオンは微笑してそう言った。言葉がじんわりと心の中に染み渡ってくる。

 そうか、これはいわゆる恋ではなくて、人生への期待だったのだ。悲劇的なものでも、破れるものでもない。人生に恋をすることが、希望を抱くことに繋がるのだ。

 心臓を抱きしめるように、胸に手を当て拳を握る。込み上げてくる感情は恐怖ではなかった。嗚呼、なんて苦しかっただろう、なんて幸せだっただろう。走馬灯のようにアネモネ図書館での思い出が頭を巡っては、消えていく。それでも確かに残るものがあった。それこそが、彼の言った「恋」だった。

 司書たちと話して得たたくさんの知見は、零へと戻ってしまうかもしれない。また愚かな立ち居振る舞いをしてしまうかもしれない。何も学べてないかもしれない。けれど僕には、僕を否定する絶望と僕を肯定する希望がある。人生に恋をしている。だから、きっと前に進める。

 視界が濡れて、歪んでいく。消えていく僕に、彼は弔いの言葉を、祝辞の言葉を述べた。

「さようなら、ヒナゲシ──僕のアリス。どうか、この先で幸せな生を生きてくれ」

 僕は緩くなった口角を上げて、彼にサイゴの微笑みを送った。

「──御機嫌よう!」

 アネモネ図書館が、終わる。僕の物語は、終わる。でも、まだ終わらない。人生を歩む覚悟を決めたからには、まだ終わらないのだ──御機嫌よう、哀れな人間ども。これは始まりの合図だ。僕はまだ、終わらない。

 開演ブザーが、どこかで鳴り響いていた。



「終わったね」

 背後からカトレアがやってきて、シオンは体を起こした。その後ろには、アザレアとサザンカも立っていた。

 アザレアは大きな伸びをすると、笑みを潜めて無表情になった──実を言えば、この三人は彼のこの表情のほうが見慣れていた。

「これで俺もあんな変な演技をしなくて良くなったな。あー、終わった」

「サザンカ君、皆に嫌われて大変そうだったもんね……」

「あ、そこは気にしなくて良いんです、カトレアさん。俺、こういうの慣れてるんで」

 そう戯けて見せるアザレアに、シオンは息を吐いて首を振ってみせた。そして立ち上がり、三人に振り返る。

「これで『The Library of Anemone』は終わりだ。そして……アザレア、君ともお別れだ」

「あぁ。シオン……いや、拓馬。そっちの世界でも元気でな。奏さん、どうか拓馬をよろしく」

「こちらこそ。サザンカさん……じゃなくて、由紀さん。瑠衣君をよろしくね」

「ふへへ……じゃなくて、こほん、分かってるよ、奏さん」

 四人は笑い合いながら、アネモネ図書館の扉を出ていく。交わった二つの世界も、これでおしまい。シオンとアザレアは、お互いに互いを失った世界へと戻っていく。

 だが、もうシオンは大丈夫だ。カトレアがいる。アザレアがいる。サザンカがいる。そして、司書たちとの思い出がある。彼は精神的な病を克服して、アネモネ図書館を退院するに至ったのだ。

 扉はパタンと閉ざされた。これで本当におしまい。アタシも筆を置いて、やっと仕事を終えられる。この広い図書館で一人、館長として生きていく。

──あなたも逝っていいんだよ、ミカン。

 不意に、どこかからそんな声がした。それは、アネモネ図書館に吹いてきたそよ風のような声だった。アタシが何かを言い返すより先に、金色の光がアタシを包み始めた。

──三年間お疲れ様、「作者」代理さん。

 あぁ、アタシも皆のもとに逝って良いのか。アタシはずっと物語を書いているだけで、何もできなかったけれど。司書たちには関われなかったけれど。アタシにも、幸せな未来があって良いんだ。

 だったら、アタシもそちらへ逝こう。そして、希望に向かって歩き出そう。アタシの愛し子たちが、そうしたように──



「おみかんくん、仕事だ。おーい、起きてる?」

 アタシが目を覚ませば、珍しく──が起きていた。いつもはアタシが寝ていて、そっちが寝ているのに。どうやら炬燵で温まっていて寝てしまっていたらしい。

 大きく伸びをして、ミカンの皮を剥きながら要件を尋ねる。どうやらネコ探しらしい。ネコが好きな先生にはぴったりの仕事だと思いつつ、アタシはその話をメモしていた。

「相変わらず熱心だなぁ、おみかんくんは」

「まぁ、仕事ですので」

「ネコ探しなんかに一生懸命にならなくて良いんだよ?」

 彼がそう言って退屈そうに書類を用意しているのを眺めながら、アタシは見ていた夢へと思いを馳せることにした。

 ずいぶんと長い夢を見ていた気がする。そこでは、多くの人々が苦しみ、争い、ぶつかり、その中で、希望を見出していった。そんな長い物語だったような気がする。そう思うと、創作意欲が湧いてきた。

 でも、まずは仕事だ。ネコ探しだってお金が出る立派な仕事なのだ。剥いたミカンを口に放り込んでから立ち上がり、身支度を始めたのだった。



 川に強く打ち付ける、針のような雨音。鉛色の空が、人々を貫くように車軸を流している。車が行き交うたび、シャーッ、と飛沫を上げる音がしては、空から降る轟音に呑み込まれていく。

 奥歯をガチガチと鳴らしながら、少女は柵へと震える手を伸ばした。水で濡れて、手がぬるぬると滑る。少女は紫色の口角を上げると、ぐい、と柵へ身を預けた──

「……ねぇ。何してるんだ、あんた」

 身を乗り出そうとした少女に、黒い傘がぶつかる。徐に首を捻って、少女は傘のほうへ目を向けた。

 傘の向こうから、美しい壮年男性の顔が覗いた。真っ白な肌に、蜂蜜色の瞳。夏なのに冬みたいに着込んだ姿が印象的だった

 黒い傘がふわりと浮き、少女の頭を隠した。代わりに、あっという間に青年の髪が、鉛色の雨に染められた。傘の先から、ぽたり、ぽたりと水滴が滴る。

 少女は何も言わずに青年を見上げた──光の無い、死んだ目で。前髪の下から、じっとりと、仄暗い視線を送った。

「……見れば分かるんじゃねぇのォ?」

「分かるさ」

「じゃあ、どうしてこんなことをするんだよ」

「見つけに来たんだよ」

 少女は目を見開き、なぜ、と口にした。そして、男の手に触れる。

 バチッ、と音を立てて、何かが弾けたような気がした。それは二人の幻想であって、実際に静電気の類が起きたわけではない。二人は手を引っ込めたあと、視線を合わせた。

 長い睫毛に、妖艶なる梔子色の目。薄い唇に、整った顔立ち。二人はよく似ていた。似ていたという言葉では稚拙なくらい、心が近い存在だった。

 しばし少女が見惚れていると、遠くから傘を持って走ってくる存在が見えた。青年よりも背が高い、スーツ姿の男だった。

「おーい、ザキくん! 見つかった?」

「見つかりましたよ。お待たせしました、──さん」

 二人は並び、互いを見て笑い合う。二人の左手の薬指には指輪がはまっているけれど、それぞれデザインは違う。少女はそんな彼らを見て、クス、と笑った。

「……見つけたんだな、慧」

 慧、と呼ばれた男は少女を見下ろすと、片目を細め、美麗さを崩し、まるで悪魔のように笑ってみせた。

「こんなところで人生を終わらせたら駄目だろ? ほら、雨宿りしに行くぞ」

 優しく手を引かれ、少女は歩き出す。二人分の傘の下で、こっそりと涙を流しながら。

 どこかで、開演ブザーが鳴り響いていた。

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The Library of Anemone 神崎閼果利 @as-conductor

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